3 灰羽の符号
パチ……コン……。
ストーブが小さな音を立てた。
王立裁定院、三階東端の法務官室には、その音と、エドガーのペンが走る音だけが落ちていた。
時折、ページをめくる乾いた紙の音。
窓の外では厚い霧が立ち込め、凍った屋根瓦と遠くの尖塔が霞んで見える。
エドガーは一度手を止め、冷えた指先に息を吹きかけた。
机の上には、軍監査局をはじめ各部署から取り寄せた資料が山を成している。
侯爵家の帳簿、軍の補給経路一覧、そして地図。
群青の瞳がその一つひとつを静かに追っていく。
「……ヴァイナス商会。聞いたことがないな」
エドガーは登記局の記録を手に取り、指先で文字をなぞる。
「やはり、存在しないか」
地図を広げ、侯爵家の帳簿に記された倉庫の所在地を確認する。
番地も地名もでたらめ。
そんな場所はどこにもない。
「倉庫も存在しない……」
――架空の商会。
――典型的な商会詐欺だろうか。
だがこの商会が補給経路の中に確かに存在したことは、記録が示していた。
軍監査局の報告、補給経路一覧――どちらにも同じ動きがある。
その横に並ぶ、無機質な数字の羅列。
軍使用の補給コード。
内容は機密扱いのため、現段階では解読不能。
「少し古いものだな……。
軍務卿に照会するか……? いや、まだ早いかな」
エドガーは淡々と手元の調書に要点を書き付けた。
窓の向こうで、鐘が低く鳴る。
「エドガー。新しい案件か?」
ノックもなしに扉が開き、冷気が部屋へ流れ込んだ。
ストーブの上の薬缶の湯気がふわりと揺れる。
外套を脱ぎながら入ってきたのは、オリーブグリーンの制服を纏ったルシアン・ヴェイル――外部調査局の特別調査官。
法務官付きの現地調査担当だ。
「ルシアン。そうだよ。
戦時中に軍へ供出された物資の支払い未払い――その精査」
エドガーは立ち上がり、机の上の書類を整える。
ルシアンは外套を脇に抱え、ストーブの前で雪を払った。
短い金髪に落ちた小さな雪片が、静かに溶ける。
「補給経路の中に“ヴァイナス商会”という架空の商会がある。これを調べてほしい」
「アイアイサー」
ルシアンは軽口を返しながら、書類を受け取ろうと手を伸ばした。
だがエドガーはその手を制し、隣に並ぶ。
「この補給コード。軍事機密扱いで、僕には解読できない」
ページを開き、乾いた数字の列を指で示す。
「君は軍にいたはずだ。見覚えはあったりする?」
ルシアンの琥珀色の瞳がわずかに揺れた。
短い沈黙。
息が漏れる。
「知っているも何も……それは俺が所属していた――灰羽隊の補給コードだ……」
エドガーの瞳がわずかに見開かれる。
ルシアンは書類を奪うように手に取り、指で数字をなぞった。
「……間違いない」
エドガーは静かに問いかける。
「調べられる?」
ルシアンは顔を上げ、眉を下げて苦く笑った。
「俺がそこにいたのは何年も前の話だ。
でも――仕事だ。問題ない」
エドガーは小さく頷き、席に戻る。
「頼んだよ。君の勘を僕は信じてる」
淡い笑みを残して、彼は再び書類へ視線を落とした。
ルシアンは手にした調書を捲る。
――灰羽隊。
その響き。
文字を見つめ、ルシアンは瞳をわずかに伏せた。
ストーブがまたパチリと鳴った。
静かな息遣いだけが、部屋に残った。




