第141話 大掃除の後に吸う煙草は、だいたい血と焦げた肉の味がする
――世界から、物理的な『音』が消失した。
それは比喩でも、文学的な表現でも何でもない。
極限まで圧縮された『死者の共鳴(呪い)』の漆黒の刃が、キメラの胸部で臨界点に達していた「超圧縮・自爆球」の側面に直撃した瞬間。
あまりに規格外のエネルギー同士の正面衝突が、空間そのものを物理的に拉げさせ、大気を震わせる「音波」という基本システムの伝達を、強制的にシャットダウン(デリート)したのだ。
B60F『関所エリア』の空間が、巨大な透明のミキサーに放り込まれたかのようにグニャリと歪む。
爆発音すらない。
ただ、俺の鼓膜の奥で『キィィィィィィィン……ッ!』という、自分の脳髄が限界を超えて悲鳴を上げるような、安物のブラウン管テレビの砂嵐を100倍の音量にした不快な耳鳴りだけが、サイレンのように鳴り響いていた。
(……おおおおおおおおッ!? 飛ぶッ! 俺の鍛え上げた大胸筋が、羽毛のように宙を舞っているぞォォォッ!?)
至近距離――俺の放った死の竜巻から、わずか数ミリ横の「安全地帯」で、堂々とサイドチェストのポーズを決めていた全裸の男、ガレス。
彼は、激突の余波(風圧)だけで、まるでハリケーンに巻き込まれた薄汚れたシーツのように、後方へと軽々と吹き飛ばされていた。
俺の網膜が捉える極限のスローモーションの中で、総重量百数十キロの極太の筋肉塊が、優雅に空中を舞っている。
常人なら全身の骨がゼリー状に砕け散っていてもおかしくない暴風の中、ガレスは空中で見事なきりもみ回転をキメながらも、その両目をカッと見開いていた。
飛び散る彼の汗の粒子が、スローモーションの世界でダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。(※なんだこの絵面、どこの深夜の謎アニメだ。BPOに怒られるぞ)
彼は瞬きすら惜しむように、己の命を救い、そして理不尽な悪意を粉砕せんとする、あの『黒い竜巻』の行方を網膜の裏側にまで焼き付けようとしていたのだ。
『ジュウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……ッ!!』
音の消えた世界で、なぜか「それ」だけが、直接脳神経のど真ん中に叩き込まれるように響いていた。
俺の右腕の筋肉と神経が、致死量の魔力によって完全に焼き尽くされる、悍ましい音だ。
(……あー、クソ。この匂い、どっかで嗅いだことあると思ったらアレだ)
心臓が不整脈を起こし、肋骨を内側からハンマーで殴りつけている。全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、視界の端が明滅する中、俺の脳(CPU)は現実逃避の連想ゲームを開始していた。
高校二年の夏。原チャリの免許を取り立ての時、調子に乗ってマフラー部分にふくらはぎをジュワッと押し当ててしまった時の、あの絶望的な「あ、肉が焼けた」という感覚。
いや、スケールが違いすぎる。あれの約五万倍は酷い。
細胞レベルでのメルトダウン。もはや右腕の感覚など、爪の先ほども存在しない。「右腕がそこにある」という事実すら、視覚情報と、脳を突き刺す強烈な幻痛でしか確認できないほどに、システムが完全にアンインストールされている。
だが、俺は止まらない。
動かなくなった右腕の「残骸(炭)」を添えたまま、無事な左手の強引な引きの力と、腰の捻りだけで、デッキブラシの柄をさらに奥へと、キメラのコアに向かって力任せに押し込んでいく。
一歩も退かない。
足元の岩盤が『メキ、メキィッ』と砕け、ブーツの底が削れ、ドス黒い血の飛沫が全身の毛穴から吹き出そうとも。
「……消えろ、ゴミがァァァッ!!!」
声帯の千切れた、声にならない咆哮。
俺の狂気(ヤセ我慢)に呼応するように、6代目デッキブラシの刃から噴き出す漆黒の魔力が、さらにその密度と凶悪さを増していく。
『ギ、ギィィィ……!? バ、カ、ナ……サ、イセ、イ、ガ……!?』
キメラの漆黒の単眼が、かつてないほどに見開かれ、本能的な「死の恐怖」に激しく痙攣した。
キメラの最大の武器であった、細胞の超速再生能力。
傷ついた端から肉体が治癒していくという理不尽なバグ仕様が、俺の放つ『破壊(掃除)の速度』に、ここに来て全く追いつけなくなっていたのだ。
ミクロの視点で見れば、キメラの細胞が再生のために結合しようとした瞬間、それを上回る速度で『死者の共鳴』が細胞壁を内側から爆破している。
当然だ。これは単なる物理的な斬撃ではない。
万の死者たちの「未練」と「呪い」が極限圧縮された、存在そのものを空間から削り取る絶対的な『死』の執行なのだから。
黒い泥のようなキメラの巨体が、自爆球ごと、端からパラパラと灰に変わっていく。
まるで、燃え盛る暖炉に放り込まれた古新聞が、端からチリチリと崩れ落ちていくように。
『あり得ないッ!! 私の、私の最高傑作が……ッ!! たかが、たかが地下三階の清掃員(ゴミ拾い)ごときにィィィッ!!?』
崩壊していくキメラの口から、通信機越しに状況を見ていた『あの方』の、ひどく耳障りで、三流悪役のテンプレを煮詰めたような見苦しい絶叫が響き渡った。
完璧な演算。絶対の勝利。
自らの計算式に存在しなかったイレギュラー(俺)の力によって、自身の最高傑作が文字通り「解体」されていく現実を、電子の悪意は処理しきれずに論理崩壊を起こしているのだ。
(……おいおい。テンプレ悪役の断末魔長すぎだろ。尺稼ぎか? こっちは右腕が炭になってんだぞ、さっさと成仏しやがれ!)
俺は、血反吐にまみれた口の端を凶悪に吊り上げ、嗤った。
痙攣する顎の筋肉を無理やり押さえつけ、奥歯を完全に噛み砕きながら、最後の、最後の一押し。
残された俺の全存在のベクトルを、左手と、腰の捻りに叩き込む。
「あぁ、あり得ねぇよ。……燃えるゴミの日に、粗大ゴミ(おまえら)がデカい顔して出歩いてるなんてな」
ズバァァァァァァァァァァァンッッッ!!!!!
俺の冷酷な宣告と共に、デッキブラシの巨大な刃が、キメラのコアを、自爆球ごと完全に『両断』した。
いや、両断ではない。
漆黒の魔力が特異点のごとく収縮し、キメラの巨体を、緑色の体液の一滴、細胞の一欠片すら残さず、空間から綺麗に「削り取った」のだ。
Windowsのゴミ箱を「空にする」コマンドを実行した時のように、完璧で、一切の痕跡を残さない完全消滅。
『ガ、ァ、ァ、ァァァァァァァァァァァァァァ…………ッ!!!』
キメラの最後の断末魔が、空間の歪みと共にブラックホールのような漆黒へと吸い込まれ、完全に消滅する。
直後。
通信機からギャーギャー喚いていた『あの方』の絶叫も、『ピーーーーー……』という無機質なエラーノイズへと変わり、やがて、プツンッ、と完全に途絶えた。
光と闇の極限の奔流が、嘘のようにスッと収まる。
嵐が、過ぎ去ったのだ。
――静寂。
物理的な音が消失していた世界に、ゆっくりと、ダンジョンの冷たい風の音が戻ってくる。
ヒュゥゥゥ……。
B60F『関所エリア』に、痛いほどの静寂が降り注いだ。
濛々と立ち込めていた土煙が晴れた後、そこにはキメラの痕跡すら一ミリも残っていなかった。
ただ、俺がデッキブラシを力任せに振り抜いた軌道に沿って、強固な岩盤が巨大なスプーンでえぐり取られたような、直径数十メートルに及ぶ「すり鉢状のクレーター」だけが、異常なほど滑らかな断面を晒して残されていた。
「……ゲホッ、ゴホッ……」
クレーターの縁、後方数十メートルの瓦礫の山から、土塊を押し退けて這い出てくる巨大な影があった。
ガレスだ。
全身泥まみれ、擦り傷だらけ。そして相変わらず、見事なまでの全裸である。
彼はゆっくりと身を起こし、頭から被った土を払うことも忘れ、ただ呆然と、視線の先の光景を凝視していた。
クレーターの中心。
そこには、長きにわたる大掃除(死闘)を終え、6代目デッキブラシの凶悪な刃を収縮(元のブラシの形状)させたまま、静かに立ち尽くす俺の背中があった。
「……あ、あぁ……」
ガレスの口から、感嘆とも絶望ともつかない、震えるような吐息が漏れる。
バケモノを単騎で屠った、英雄の背中。
だが、その勝利の代償は、ガレスの目から見てもあまりにも凄惨で、狂気に満ちていた。
俺の右腕は。
肩から指先にかけて、完全に「炭化」していた。
黒焦げの薪のようにひび割れ、皮膚はボロボロと崩れ落ち、隙間からはどす黒く染まった骨が見え隠れしている。
そして、その死滅した肉の塊からは、チリチリと燻った嫌な煙が、今もなお細く立ち昇っていた。
(……限界だ。マジで立ってるのが不思議なレベルだぞ、これ)
俺は、視界がグラグラと万華鏡のように揺れるのを、強靭な意志(ヤセ我慢)だけで無理やり押さえつけていた。
痛覚はないはずなのに、「腕が焼け落ちた」という視覚情報が脳をバグらせ、存在しないはずの右腕から、ドクン、ドクンとマグマを流し込まれているような強烈な幻痛を発生させている。
足の震えが止まらない。膝の関節が「もう休ませてくれ」とストライキを起こしかけている。今すぐこの場に大の字になってぶっ倒れ、三日三晩泥のように眠りたい。
だが、ダメだ。
上空の崖の上から、マシロやテツコが通信越しに見ているはずだ。
親父が、子供たちの前で無様に倒れるわけにはいかない。
そんなくだらない、しかし俺にとっては命より重い「意地と誇り」だけで、俺は膝に力を込め、仁王立ちのまま強引に踏みとどまっていた。
傍目には『なぜあれほどの損傷で、まだ生きて立っているのか分からない』ほどの、異様な、バグのような光景だろう。
「……規格外の、バカめ」
俺の背後で、ガレスがポツリと呟いた。
自分の命を賭して部下たちを守り抜き、そして、俺の戦いの結末を最後まで見届けた全裸の騎士。
彼は黄金の鎧を失い、騎士団長という権威を失い、衣服すらも失い、社会的な尊厳の危機に瀕しているが。
その泥まみれの顔には、不思議と、長年の憑き物が落ちたような清々しさが浮かんでいた。
「本当に……一人で、あのバケモノを掃除しきりおったわ……」
ドサッ、と。
極度の安堵と疲労により、緊張の糸が完全に切れたガレスが、その場に崩れ落ちるように両膝をついた。
全裸の巨漢が、泥まみれの大地に膝をつき、男の背中に向かって頭を垂れる。
絵面だけ見れば、深夜のバラエティ番組の罰ゲームか何かのような滑稽さだ。
だが、もはや彼を笑う者は、このB60Fには誰もいない。
それは、己の敗北を認め、同時に全てを守り抜いた「真の勝利者」としての、気高くも美しい土下座(休息)だった。
背後でガレスが膝をついた気配を感じ取っても、俺は振り返らなかった。
振り返れば、この決死のヤセ我慢の顔面が崩れてしまう気がしたからだ。
「……終わった」
短く、枯れた声で息を吐き出す。
俺は、血と煤でドロドロに汚れた顔のまま、無事な「左手」を、ゆっくりと、ひどくゆっくりとした動作で、自分のズボンのポケットへと滑り込ませた。
指先が、目当ての四角い箱に触れる。
取り出したのは、激しい戦闘の余波で完全にクシャクシャに潰れてしまった、安物の煙草の箱だった。
左手一本で箱を開ける。
親指と人差し指が、血と泥で滑り、うまく動かない。
イライラするほど不器用な動作で、なんとか一本の煙草を抜き出す。
そして、感覚の消え失せた唇の間に、それをそっと咥えた。
大掃除の後に吸う、最高の一本。
味覚なんざとっくの昔に死んでいる。
どうせ、自分の口の中から溢れ出るドス黒い血の鉄分と、鼻腔にこびりついた焦げた肉の味しかしないのだろうが。
それでも俺は、左手の親指で、百円ライターのフリントを静かに弾いた。
カチッ、と。
小さな炎が、すべてが終わった戦場に、静かに灯った。




