第140話 漢の覚悟と股間は、いざという時ほど堂々と晒け出すものだ
――現在時刻。
俺の脳内クロックが弾き出した物理時間は、キメラが「超圧縮・自爆球」の形成を開始してから、わずか『0.0001秒』しか経過していない。
もしもこの空間に、最新鋭のハイスピードカメラが設置されていたとしたら。
映像には、空中に舞い上がった土煙の粒子が、まるで無重力空間の星屑のように完全に静止している様が映し出されているだろう。
俺の額から滲み出た一滴の冷や汗が、重力に従って頬を滑り落ちるよりも遅い、極限の「時間の凍結」。
その静止した世界の中で、俺――黒鉄ジンの視神経だけが、狂ったような速度で眼前の絶望を「高解像度(4K画質)」で脳髄へと送り込み続けていた。
実験体キメラ。
もはや原型すら留めていないその肉のバケモノの胸部。そこには、周囲の光すらも歪曲させて吸い込む、直径二メートルほどのブラックホールのごとき「超圧縮・自爆球」が形成されつつあった。
ドドドドドドドドッ……!! と、音の無い世界で、空間そのものが拉げ、悲鳴を上げている。
周囲の瓦礫が、砕けた岩盤が、そして俺の足元に転がっていた空き缶が、スローモーションで漆黒の球体へと吸い込まれ、チリ一つ残さず「消滅」されていく。
(……あー、なるほど。こいつはアレだ)
心臓が、肋骨の内側を『ドガンッ! ドガンッ!』と、不整脈全開のけたたましい音で殴りつけている。
極度の緊張とプレッシャーで、喉の奥は数日間砂漠を彷徨ったかのようにカラカラに乾ききり、舌は上顎に張り付いて剥がれない。
そんな生理的な生存本能の警鐘を完全にガン無視して、俺の脳内(CPU)は、現実逃避じみたどうでもいい連想ゲームを勝手にスタートさせていた。
アレだ。昔、深夜のテレビショッピングで見た、どんなゴミでも一瞬で粉砕する超強力な業務用ミキサー。
いや、違うな。小学校の理科の実験で、アルコールランプを倒して理科室の机を丸焦げにした時の、あの「やっちまった」という絶対的な絶望感のスケールアップ・バージョンだ。
目の前にある「真っ黒な球体」が孕んでいる質量は、控えめに言ってこのB60Fの地形ごと、俺たちを原子レベルで消し飛ばす致死量のエネルギーである。
(正面から、俺の最大火力をぶつけて『相殺』する。……それしか、生き残る道はねぇ)
俺は、内側から焼け焦げ、すでに「炭化した肉と骨のオブジェ」に成り果てている右腕に意識を向けた。
痛覚はすでにない。だが、「自分の肉が炭になっている」という悍ましい事実だけが、幻痛となって脳髄をチリチリと炙ってくる。
この痛み。高校時代、原チャリで転倒してアスファルトで全身を大根おろしにされた時の、あのヒリヒリ感の五万倍くらいか。
いや、そんな過去の痛みの記憶などどうでもいい。
ただ一つ確かなのは、この右腕は「あと一振り」だけなら形を保てるということ。俺の命と、この右腕の機能を完全に引き換えにすれば、キメラの自爆球を上回る火力を叩き出せる。確信はあった。
だが。
俺の脳が『右腕の筋肉(残骸)へのフルスイング指令』というエンターキーを叩こうとした、まさにその瞬間。
呪われた俺の「想像力」が、最悪の未来を予測してしまったのだ。
――ドゴォォォォォンッ!!
(※以下、脳内シミュレーション:俺の放つ限界突破の魔力と、キメラの自爆球が真正面から激突。その凄まじい力の衝突による余波は行き場を失い、四方八方へと撒き散らされる。結果、背後にいる防御力ゼロの全裸男は、悲鳴を上げる間もなく即座に真っ赤な霧となって蒸発。さらに、その衝撃波の余波は上空の崖まで到達し、そこから通信で見守っているマシロやテツコごと、岩盤を崩落させて圧死させる――)
「…………ッ!!」
奥歯が、ギリィッ、と嫌な音を立てて砕けた。
俺の左目(の眼輪筋)が、ピクリと痙攣する。
絶え間ない激痛も、自分の命を捨てる恐怖も、とっくの昔に可燃ゴミの日に捨ててきたはずだった。
だが、『家族を巻き込む』という事実だけが、冷たい鉄の枷となって俺の魂にドグシャァッと重くのしかかった。
ほんの一瞬。
時間にして、0.005秒の、絶望的な「躊躇」。
家族を守りたいという、俺の中の捨てきれなかった人間性が、デッキブラシを振り下ろす軌道を、無意識のうちに数ミリだけ「威力を抑える方向」へとブレさせてしまったのだ。
(おいィィィ! なんでこんな極限状態で回想とシミュレーション挟んでんだ俺の脳味噌ォォォ! 尺稼ぎ乙! 読者が「早く殴れよ」ってブラウザバックしちまうぞ!)
脳内でけたたましく響くメタ的なツッコミ。
だが、その0.005秒の「迷い」は、俺の背後でスタンバイしていた男には、あまりにも長く、そして明確な「隙」として伝わっていた。
『――俺たちを庇って威力を抑えれば、お前が死ぬぞ、掃除屋ァァァッ!!』
背後から、鼓膜を物理的に震わせるほどの野太い怒声が叩きつけられた。
かつて紅蓮騎士団を率い、誇り高き鎧を身に纏っていた巨漢。
現在は、文字通り「生まれたままの姿」で、股間にダンジョンの冷たい風をダイレクトに受けている全裸の男――ガレスだ。
(……おい、バカ。動くな! 何をする気だ!)
声にならない俺の制止を置き去りにして。
静止した時間の中で、ガレスの極太の丸太のような両足が、強固な岩盤を『バキィィィッ!』と粉砕して蹴り飛ばした。
弾丸のような初速。
全裸の巨漢が、筋肉の躍動と共に空気抵抗をゼロ(服がないから)にして、キメラの正面、すなわち「絶対的な死の射線」から、猛烈なダッシュで右側面へと移動していく。
スローモーションの視界の中で、ガレスの臀部(お尻)の筋肉が美しく収縮し、飛び散る汗がキラキラとダイヤモンドのように輝いている。……なんだこの映像、放送倫理委員会(BPO)に怒られるぞ。
そして。
世界で最も緊迫した、人類の存亡すら懸かっているかもしれない(少なくとも俺たちの命は100%懸かっている)この極限のシリアスな戦場において。
「見よォォォォォォォッ!! この、研ぎ澄まされた肉体美をォォォォォッ!!」
――ピタァァァァァァァッ!!(※背景に集中線の幻覚)
ガレスは、キメラの真横(側面)で急停止すると、全身の筋肉を限界までパンプアップさせた。
両腕を顔の横で力強く曲げ、上腕二頭筋をこれでもかと強調する、ボディビルの基本にして至高のポーズ『フロント・ダブル・バイセップス』。
それを、全裸で。
しかも、歯をキラリと輝かせるほどの満面の笑みでキメやがったのだ。
「フンッ! ハッ! 貴様らのような泥人形には到底理解できまい! この上腕二頭筋のキレ! 大胸筋の躍動! そして、我が股間のソーセージの誇り高き屹立をォォォッ!!」
……狂っている。
いや、狂気という言葉すら生温い。
俺の心象風景の中で、先ほどまで流れていたはずの悲壮感漂うオーケストラBGMが、突然ラジカセの電源を引き抜かれたように『ブツッ』と途切れ、代わりに底抜けに明るい常夏のサンバのパレード曲が鳴り響き始めた。
世界がカラーからセピアへ、そして極彩色のアホな色合いへとバグを起こして明滅する。
『な、な、な、な、何をしている狂人ッ!?』
背後のスピーカーから、状況をモニタリングしていた『あの方』の、完全に裏返った絶叫が響き渡る。
無理もない。高度な演算能力を持つ電子の悪意ですら、この「絶対的ピンチにおける全裸ポージング」という、文脈を完全に無視した理不尽すぎるギャグ光景を処理しきれず、完全にフリーズ(論理崩壊)を起こしていた。
そして、それはキメラのAI(本能)も同じだった。
ただ殺戮するためだけに生み出されたバケモノの思考ルーチン。
そのレーダーが、『目の前の致死量の魔力を放つ男』と、『側方で異常な熱量と謎の圧を放ちながらポーズを決める全裸の男』という、二つの極端すぎるヘイト(敵視)情報の狭間で、致命的な「バグ」を起こした。
『ギ、ギィィ……?(訳:え、なにあの裸のおっさん、怖っ……)』
キメラの漆黒の単眼が。
ほんの数センチ、ガレスの躍動する大胸筋へと「逸れた」。
それに連動し、空間を削り取る「超圧縮・自爆球」の射線が、俺の正面から、僅かに側面へとズレる。
全裸の男が、自らの羞恥心と命を完全に投げ打って作り出した、史上最高に滑稽で、気高いコンマ数秒の「死角(隙)」。
「……バカが」
凍りついていた時間が、再び猛烈な勢いで動き出す。
俺の口の端から、ドス黒い血の涎が垂れた。
だが、俺の顔には、痛みを完全に塗り潰すほどの、今日一番の凶悪な笑みが張り付いていた。
「風邪ひくぞ、オッサン」
ガレスが作ってくれた射線。
俺が全力で振り抜いても、余波が味方に直撃しない、ただ一つの「特等席」。
俺は、微塵の躊躇もなく右足を踏み込み、限界を超えて炭化していた右腕の筋肉に、致死量の魔力という「最後の点火」を行った。
――ブチッ……バチンッ! バチバチバチバチバチィィィィィィッ!!!
俺の右肩から指先にかけて。
まるで、鋼鉄のワイヤーを何百本も束ねて、巨大なペンチで一気に引きちぎった時のような、悍ましい破断音が俺の鼓膜と脳髄を直接叩いた。
痛い、という感覚すらない。
脳髄を直接バーナーで焼かれたような絶対的な白光が視界を覆い尽くし、次の瞬間。
俺の脳を、『絶対的な喪失感』という名の虚無が駆け抜けた。
(ああ、切れた)
運動神経の切断。魔力回路の完全な焼き切れ。
今、この瞬間。
俺の『右腕』というハードウェアは、俺の身体から永遠にアンインストールされた。
もう二度と、この手でタバコに火を点けることも、デッキブラシを握ることも、マシロの頭を撫でてやることもできない。(幽霊だから元々撫でられないとか、そういうツッコミは今はなしだ)
だが、止まらない。
完全に動かなくなった、ただの「炭化の塊」と化した右腕。
しかし、筋肉が死滅する直前に生み出された「最後の慣性」は、まだ死んではいない。
俺は、無事な左手の強引な引きの力だけを使い、右腕の残骸ごと、大上段に構えた『6代目・可変式魔導デッキブラシ』を、キメラの側面に向かって全力で振り下ろした。
「燃えるゴミの日だ。……まとめて灰(炭)になれ」
ズォォォォォォォォォォォォォンッッッ!!!!
俺のブラシから解き放たれたのは、斬撃というよりも、もはや『災害』だった。
何万、何十万という死者たちの絶望と呪いが圧縮された『死者の共鳴』が、漆黒の巨大な刃――あるいは天を衝く黒い竜巻となって、関所エリアの空間を物理的に抉り取った。
「ぬおおおおおおおおッ!?」
全裸でサイドチェストのポーズに移行していたガレスの、見事な鼻筋の数ミリ先を、死の竜巻が掠めていく。
突風でガレスの巨体が、まるで吹き飛ばされる枯れ葉のように宙に舞う中。
俺の放った黒い刃は、キメラの胸にある「超圧縮・自爆球」の側面に、寸分の狂いもなく直撃した。
正面衝突による、四方八方への爆発ではない。
側面からの絶対的な力業による、「一極集中の空間粉砕」。
巨大なミキサーに放り込まれたように、キメラの自爆球と俺の魔力が複雑に絡み合い、互いの質量を喰らい合いながら、超高密度の特異点へと収束していく。
――シンッ……。
あまりの莫大なエネルギーの激突に、世界から一切の『音』が消失した。
鼓膜が破れたのではない。物理法則が限界を迎え、音を伝える大気そのものが空間ごと消滅したのだ。
『ギ、ギィィィィ……ガ、ァ、ァァァァァァァァァァ……ッ!!!』
『あり得ないッ! 私の計算が……私の完璧な演算がァァァァァァッ!!』
音のない世界で、キメラの断末魔の叫びと、通信機越しに泣き叫ぶ『あの方』の絶望のノイズだけが、脳内に直接響き渡る。
光と闇が極限まで混ざり合い、視界のすべてを白く、ただ真っ白に染め上げていく。
大掃除の最後の一振りを終えた俺は、完全に機能を停止してダラリと垂れ下がった右腕を引きずりながら、ただ静かに、その圧倒的な光の奔流の中へと身を委ねた。




