第1話「敷金ゼロ・宇宙人可・傭兵つき」
「……Mission Accepted(任務を受諾した)」
ボンッ! という爆発音とともに吹き飛んだ給湯器のカバー。もうもうと立ち込める白い蒸気の中から現れた二メートル近い大男は、狭いキッチンの床で恭しく片膝をついた。その屈強な背中には、どう見ても軍事用のロケットランチャーが背負われている。
僕の視線は、彼ではなくユニットバスのドアの隙間に釘付けになっていた。完全に閉め切っていたはずのそこから、ドロドロとした青緑色のスライム状の何かが、不気味な泡を立てながら這い出してきている。
「おい、なんだあれ……」
菜箸を持ったまま硬直する僕に、黒ずくめの大男が低く渋い声で答えた。
「小型の侵略性ゼラチン質生命体ですね。通称『ぬめり星人』」
「ぬめり星人!?」
「風呂場から強烈な異臭がします。マスター、アレの処理も我々の任務で?」
大男はゆっくりと立ち上がり、背中のランチャーに手をかけた。カチャリ、と重々しい金属音が狭いアパートの室内に響く。
「待て待て待て! 撃つな! ここでランチャーぶっ放すバカがいるか! 敷金礼金どころか退去費用で俺の人生が終わるわ!」
「しかしマスター、奴らは地球の水分と有機物を餌にして指数関数的に増殖する厄介な外来種です。ほら、キッチンの三角コーナーに……」
大男が指差した先、先ほど唐揚げの下ごしらえで出た鶏肉の切れ端と玉ねぎの皮に、青緑色のゼリーが覆いかぶさっていた。
ズギュンッ! という不快な音と共に、手のひらサイズだったスライムが一瞬でバランスボール大に膨れ上がる。表面にはつぶらな二つの目玉がポコンと浮かび上がった。
「キュウゥゥ……」
鳴き声は地味に可愛いが、奴は僕の頭蓋骨めがけて容赦なく飛びかかってきた。脳みそを直接吸い取る気だ。
「危ない!」
大男が僕の襟首を掴んで後方へ放り投げる。そして凄まじい反射神経でIHヒーター上のフライパンを盾にし、スライムの凶悪な体当たりを弾き返した。
「くっ、質量が重い! マスター、兵器使用の許可を。玄関にC4爆弾を仕掛けてアパートごと吹き飛ばせば確実に……」
「だからダメだって言ってるだろ! なんで極端から極端に走るんだよ! 物理で……日用品の物理でなんとかしろ!」
僕は慌ててシンク下の扉を開け、手当たり次第に掃除用具を引っ張り出した。
「これだ! 塩素系カビ取りスプレー! これを吹きかけろ!」
大男にスプレーボトルを放り投げる。彼は空中でそれを受け取ると、裏面の『まぜるな危険』という赤字の警告を鋭い眼光で睨みつけた。
「……なるほど。高濃度の次亜塩素酸塩ですか。奴らの珪素結合を分子レベルで分解する局地戦用化学兵器ですね。まさかこんな最終兵器を日用品として一般流通させているとは。この星の技術力、侮れません」
「感心してないで早く撃て!」
「イエッサー! くらえ、リキッド・エクスカリバー!」
大男がノズルを引く。プシュッ、と間抜けな音と共に噴射された白い泡が、スライムの表面に付着した。
「ギギャアァァァッ!」
つぶらな瞳を血走らせ、スライムがドロドロと溶け崩れていく。
「効いてる! いいぞその調子で……って、おい! 風呂場からもっと出てきたぞ!」
ユニットバスのドアが内側から弾け飛び、数十匹のぬめり星人が雪崩れ込んできた。排水管を逆流してきた本隊だ。
「マスター、敵の数が多い! ここをチョークポイントに設定し、防衛線を構築します!」
大男はニトリのカラーボックスを蹴り倒して廊下にバリケードを築き、洗濯物を干すための突っ張り棒を槍のように構えた。
「奴らの細胞壁を物理的に削り取る必要があります。何か硬質繊維の鈍器は!」
「硬質繊維……激落ちくんだ!」
僕は買い置きしていた巨大なメラミンスポンジを大男にパスした。大男は突っ張り棒の先端にスポンジを突き刺し、無双の槍術でスライムを擦りまくる。
「オラオラオラッ! 宇宙の塵になって散れ!」
「マスター、援護を! 敵の最大の弱点は脱水です! ドライヤーで温風を浴びせてください!」
「ガンカタスタイルでドライヤー構える傭兵なんているかよ!」
ツッコミを入れつつ、僕は洗面所からドライヤーを引っ張り出し、延長コードを繋いで最大出力の温風を放つ。
「乾けえええっ!」
熱風を受けたスライムたちが、次々と煎餅のように干からびていく。狭い室内は、カビ取り剤のツンとした匂いと、スライムの断末魔、そしてドライヤーの轟音に包まれて完全なカオスと化していた。
「……マスター、マズいです! ハイターのガスが充満して酸欠になります」
大男が苦しげに咳き込む。換気扇は回っているが、戦場の激しさに追いついていない。
さらに悪いことに、生き残ったスライムたちが合体し、天井に届くほどの巨大な一つ目スライムへと変貌を遂げた。
「キュルルルルッ!」
「マスター、下がって! 私が盾になります!」
大男が両腕をクロスさせ、巨大スライムの前に立ちはだかった。その背後で、僕は絶望的な思いで壁にへたり込む。
ここまでか──僕の、何の変哲もない、退屈で無価値だと思っていた人生は、こんなあっけなく終わるのか。
その時だった。
ドォォォォォォォンッ!!
隣の部屋とを隔てる薄い壁が、爆発音と共に粉々に吹き飛んだ。舞い散る石膏ボードの粉塵の中から現れたのは、いつも挨拶を無視してくる隣の部屋の頑固おやじ、町内会長のシゲオさんだった。
ランニングシャツにステテコ姿の彼は、なぜか肩に巨大なガトリング砲のようなものを担いでいる。よく見ると、それは違法改造された家庭用高圧洗浄機だった。
「ったく、最近の若いもんは回覧板もろくに読まねえのか!『第四木曜日は小型宇宙人の日』だって書いてあっただろうが!」
「シ、シゲオさん!? なんで壁をぶち破って……!」
「うるせえ! 町内会費で買ったコイツの威力、とくと味わいやがれ! 重曹とクエン酸の特製発泡混合液だ!」
シゲオさんがトリガーを引くと、凄まじい水圧の液体が巨大スライムに直撃した。
「ギィィィィィィィッ!!」
化学反応による強烈な発泡がスライムの粘液を中和し、内部からボロボロに崩壊させていく。母さんがよくやっていた「シンクの排水口掃除の裏技」と同じ原理だ。
「傭兵の兄ちゃん! 今だ、トドメを刺せ!」
「イエッサー!」
大男が渾身の力でドライヤーの温風と激落ちくんの連撃を叩き込む。
バリバリバリッ! という音と共に、巨大スライムは完全に乾燥し、パラパラと崩れ落ちてただの粉塵と化した。
静寂が戻った──
壁には大穴が開き、床は水浸しでカビ取り剤の匂いが充満している。僕の部屋は文字通り物理的に全壊していた。
「終わった……僕の敷金……」
膝から崩れ落ちる僕の前に、大男が静かに歩み寄ってきた。彼は背中に庇っていた「あるモノ」を、そっとテーブルの上に置いた。
「マスター、これだけは死守いたしました」
それは、僕が先ほど揚げたばかりの『唐揚げ』だった。激しい戦闘の最中、彼はずっとこの皿を自分の体で庇い続けていたのだ。
「なんでそんなものを……」
「お前の母ちゃんが、命より大切にしていたレシピだからさ」
瓦礫の上に腰を下ろしながら、シゲオさんが煙草に火をつけた。
「母ちゃんが……? どういうことですか。僕の母さんは、ただの平凡な……」
「ただのオバチャンじゃねえよ。あの人はな、町内会──極秘地球防衛組織の伝説的エージェントだったんだ」
僕は息を飲んだ。
「お前の母ちゃんは何度も地球を救ってきた。その傭兵の兄ちゃんも、かつて母ちゃんに命を救われた一人だ。あの唐揚げのレシピはな、お前の母ちゃんが独自に編み出した『宇宙最強の傭兵を呼ぶSOS召喚コード』なんだよ。グラム数や時間を一ミリでも間違えれば発動しねえ」
大男が深く頷く。
「彼女は裏社会から足を洗い、エージェントを引退しました。理由はただ一つ。マスター、あなたが『平凡で退屈な日常』を平和に送れるようにするためです」
「僕のため……?」
「あの子には、平和で安全な毎日を生きてほしいの……それが彼女の口癖でした」
大男の言葉が胸の奥深くに突き刺さる。
僕は自分の才能のなさを棚に上げ、テレビの中のヒーローや、自分が描く大仰なSF漫画の世界ばかりに憧れていた。母の生き方を「つまらない凡人」だと見下していた。
けれど、本当は違ったのだ。僕が毎日のうのうと漫画を描き、スーパーの特売肉を買い、家賃の支払いに文句を言えるこの「退屈な日常」は、自然に存在していたわけじゃない。
母さんが、そしてシゲオさんたち町内会の名もなき老人たちが、日用品を片手に泥臭く戦い、必死に守り抜いてくれた「聖域」だったのだ。掃除や料理といった単調で面倒な名もなき家事こそが、果てしない防衛戦だったのだ。
世界を救うヒーローは特別な孤独なんて抱えていない。ただ大切な誰かのために、エプロン姿で唐揚げを揚げている人たちのことだった。
「冷めねえうちに食っとけ」
シゲオさんに促され、僕はテーブルの上の唐揚げを一つ手に取った。完璧な温度で二度揚げされたそれは、サクリと小気味良い音を立て、中からジュワッと熱い肉汁があふれ出した。ニンニクと醤油の香ばしさが口いっぱいに広がる。
カビ取り剤と硝煙の匂いが充満する部屋の中で、それだけが鮮烈に僕の記憶の中にある実家の匂いと同じだった。
「……美味い」
涙がボロボロとこぼれ落ちて止まらなかった。世界で一番美味しくて、世界で一番温かい、僕のたった一人のヒーローの味がした。
「泣いてる暇はねえぞ、坊主。壁の修理費は町内会費の経費で落としてやるが、その代わり条件がある」
シゲオさんがニヤリと笑う。大男も口元に微かな笑みを浮かべて僕を見た。
「マスター、あなたの次の任務です」
僕は涙をごしごしと袖で拭い、口の中の唐揚げを力強く飲み込んだ。空想の世界に逃げるのはもうやめだ。現実は、僕の漫画なんかよりもずっとバカバカしくて、ずっと愛に溢れている。
「……分かりましたよ。やりますよ!」
僕は顔を上げ、散らかった部屋の中で宣言した。
「次期・町内会役員、僕が引き受けます」




