第58話
季節は巡り、城に一年が過ぎようとしていた。
私がこの地へ嫁いできて、ちょうど一年。かつて死を待つだけの花嫁として送られた、あの霧の日から、すべてがまるで嘘のように変わっていた。城には人々の笑い声が戻り、薬草園は緑にあふれ、私の隣には、かつて死神と呼ばれた優しい夫がいる。
その日、私は思いがけぬ報せを受け取った。
ハルヴァート家から、一通の文が届いたのだ。
差出人は、私の父だった。あれほど私を疎み、厄介払いした父。その文面はこれまでとは、まるで違っていた。娘の活躍を誇りに思う、と。一度、家に帰ってきてはどうか、と。
私はその文を、静かに読み終えた。胸に湧いたのは、喜びでも怒りでもなかった。ただ静かな、凪のような心持ちだった。あの家が今さら私を求めても、もう何も、揺らがなかった。
「どうする」
隣でそれを聞いたクラウスが、案じるように尋ねた。
「会いに行きたいなら、私も同行する。だが無理をすることはない。お前を傷つけた相手だ」
その気遣いが、嬉しかった。私は少し考えてから、首を振った。
「いいえ。文を返すだけにします」
「恨んでいるのか」
クラウスの問いに、私はゆっくりと答えた。
「恨んではいません。もう。あの家での日々があったから、私は毒と薬を学びました。それがこの城で、人を救う力になりました。だから過去のすべてを、否定はしません」
私は窓の外の薬草園を、見つめた。
「でも、私の居場所はもう、あそこではありません。ここです。この城が、私の家です」
クラウスが静かに、私の手を握った。
「……そうだな。ここが、お前の家だ」
その言葉が温かく、胸に染みた。かつてどこにも居場所のなかった私が今、確かな帰る場所を持っている。それは何ものにも代えがたい、宝物だった。
私は父への返信を、したためた。短く、けれど心をこめて。
文には、こう書いた。
お気遣い感謝します。私は今、北の地で幸せに暮らしています。夫と共に領民を守り、穏やかな日々を送っています。どうかご安心ください、と。
恨み言は書かなかった。許しの言葉も書かなかった。ただ自分が今、幸せであることだけを伝えた。それが私なりの、過去との決別だった。
文を送り出すと、不思議と心が軽くなった。
長く私を縛ってきた「不吉な娘」という呪い。その鎖が今、完全に解けた気がした。私はもう、誰かに望まれない娘ではない。毒に愛された厄介者でもない。私は私自身の力で居場所を掴んだ、ひとりの女だ。
窓の外で、薬草園の苗が、風に優しく揺れていた。
その日の午後、私はひとり、薬草園に立った。
ここへ来たばかりの頃、荒れ果てていたこの庭を、私は黙々と耕した。誰の助けもなく、ただ生きるためだけに。けれど今は違う。マルゴットや使用人たちが、当たり前のように手伝ってくれる。荒れ地だった一画は、今や城でいちばん人の集まる、温かい場所になっていた。
土に触れると、いつも心が落ち着く。それは昔から変わらない。けれど、その意味は、すっかり変わっていた。かつては逃げ場だった土いじりが、今は、明日を育てる仕事になっていた。
その夜、私とクラウスは、城のテラスに立っていた。
「一年、経つのだな」
クラウスが感慨深げに言った。
「お前が来てから。……長いようで、あっという間だった」
「ええ。でも、濃い一年でした」
二人で星空を見上げた。霧の晴れた夜空に、無数の星が瞬いている。
長い物語がひとつの区切りを迎え、新しい物語が、ここから始まろうとしていた。




