第55話
春が、北の辺境にも訪れた。
長く城を覆っていた霧が、その日は珍しく晴れていた。薬草園には、私が育てた苗が青々と葉を茂らせている。冬を越え、ようやく芽吹いた命。それはこの城の新しい季節を、告げているようだった。
私は苗床の手入れをしながら、ふと、これまでのことを振り返っていた。
不吉な娘としてこの城へ送られてきた、あの日。
死神と呼ばれる男のもとへ、捨てられるように嫁いできた。誰にも見送られず、ただ死を待つだけの花嫁として。馬車に揺られ、霧の彼方へ向かいながら、私は心に誓った。簡単には死んでやらない、と。あの冷たい決意だけが、唯一の支えだった。あれからどれほどのことがあっただろう。数えきれない毒。連なる謎。そして思いがけず芽生えた、愛。
今、私はここに生きている。誰かに必要とされ、誰かを愛しながら。
「精が出るな」
声に振り返ると、クラウスが立っていた。
彼の表情は出会った頃とは別人のように、穏やかだった。凍りついていた瞳は今、春の光のように温かい。死神の面影は、もうどこにもなかった。
「クラウス様。ちょうどよかった。見てください、この芽。立派に育ったでしょう」
私が指さすと、彼はしゃがみ込んで苗を見つめた。
「お前が育てたものだ」
彼はぽつりと言った。
「この庭も。この城も。……そして私の心も。すべてお前が、生き返らせてくれた」
その言葉に、私の頬が熱くなった。
「私ひとりの力ではありません。あなたが変わろうとしたから。逃げずに前を向いたから。だからすべてが、動き出したのです」
二人でしばらく、芽吹いた庭を眺めていた。
穏やかな沈黙だった。言葉がなくても、互いの想いが伝わってくる。かつて敵意すら抱いていた二人が、今こうして同じ景色を見ている。それは奇跡のように思えた。
「リネット」
クラウスが静かに、私の名を呼んだ。
「話したいことがある」
彼の声に、いつになく真剣な響きがあった。
私は手を止めて、彼を見た。クラウスは少し、緊張しているようだった。あの堂々とした公爵が、まるで若者のように、言葉を探している。
「私たちは政略で結ばれた夫婦だ。お前は家のために、ここへ送られてきた。本当の意味で心を通わせる前に、夫婦になってしまった」
彼は私の目を、まっすぐに見つめた。
「だから改めて、聞きたい」
その瞳に、強い想いが宿っていた。
「リネット。お前は私と、本当の夫婦になってくれるか。形だけではなく、心から。これからの人生を私と共に、歩んでくれるか」
それは改めての、求婚だった。
義務でも政略でもなく、ひとりの男としてひとりの女に捧げる、まっすぐな想い。長く愛することを恐れてきた彼が、ようやく口にした、勇気ある言葉だった。
私の胸が、温かく震えた。
不吉な娘と呼ばれ、誰にも望まれなかった私が、今、こんなにもまっすぐに求められている。涙がこみ上げてきた。けれどそれは、悲しみの涙ではなかった。
「はい」
私は迷わず答えた。
「喜んで。あなたと生きていきたい。心から」
クラウスの顔に、ゆっくりと、これまで見たことのない晴れやかな笑みが広がった。彼は私の手をそっと取り、額に押し当てた。長く愛を恐れてきた男の、不器用で、けれど誰よりも深い愛情のしぐさだった。
春の光が、二人を優しく包んでいた。
長い物語の果てに、私たちはようやく、本当の意味で結ばれようとしていた。死神でも毒の花嫁でもない。ただ互いを愛し合う、ひとりの男とひとりの女として。
霧の晴れた空に、鳥が軽やかに舞っていた。
私たちの新しい季節が、始まろうとしていた。長い冬は終わり、ようやく春が来たのだ。




