第53話
クラウスの心の傷は、深かった。
事件が解決し、表向きは穏やかな日々が戻った。けれど彼はときおり、深い物思いに沈むことがあった。自分のために何人もの女性が殺されたという事実。かつて愛した人を、化け物に変えてしまったという悔恨。それは簡単に消えるものではなかった。
ある夜、私はひとり佇む彼を見つけた。
月明かりの差す回廊で、クラウスは窓の外を見つめていた。その横顔には、拭いきれない影が刻まれている。事件は終わったのに、彼の表情は、晴れない日が続いていた。喜ぶべきときに喜べない。それもまた、長い苦しみが残した、深い傷なのだろう。
「眠れないのですか」
私が声をかけると、彼はかすかに微笑んだ。
「お前こそ。こんな夜更けに」
私は彼の隣に並んだ。しばらく二人で、霧に沈む夜を眺めていた。ただそばにいるだけで、不思議と、心が落ち着いた。
「考えてしまうんだ」
やがてクラウスが、ぽつりと言った。
「もしあの日、私がオーレリアを捨てなければ。彼女はあんな道に進まずに済んだのではないか。死んでいった妻たちも、生きていたのではないか。……すべては、私が招いたことだ」
その声には、長年彼を苛んできた自責の念がにじんでいた。
「クラウス様」
私は静かに言った。
「過去は変えられません。あなたが若い日に過ちを犯したことは、事実でしょう。でもその過ちと、オーレリアが選んだ道は、別のものです」
彼がこちらを見た。
「人は傷ついても、誰かを恨んでも、それでも人を殺さない道を選べます。彼女は選ばなかった。それは、彼女自身の責任です」
「だが……」
「あなたは逃げませんでした」
私は彼の言葉を遮った。
「真実から目を背けず、最後まで向き合った。死んでいった方々の無念を晴らした。これ以上誰も死なせまいと、戦った。それは誰にでもできることでは、ありません」
クラウスの瞳が揺れた。私の言葉が少しずつ、彼の心に染み込んでいくのが分かった。
「あなたはもう、十分に苦しみました」
私は彼の手に、自分の手を重ねた。
「これからはご自分を、許してあげてください。過去に縛られたままでは、前に進めません。死んでいった方々も、あなたがいつまでも苦しむことを、望んではいないはずです」
私は、自分の言葉が、自分自身にも向けられていることに気づいた。長く不吉な娘と呼ばれ、自分を価値のない者だと思い込んできた私もまた、過去に縛られていた。クラウスを救おうとするこの言葉は、いつしか、私自身を救う言葉にもなっていた。
クラウスは長いあいだ、黙っていた。やがてその目から、一筋の涙がこぼれた。
強く孤独に生きてきた男の、初めて見せる涙だった。
「……ありがとう」
彼は掠れた声で言った。
「お前がいなければ、私は今も、闇の中だった。お前が私を、光の中へ連れ出してくれた」
私は彼の肩に、そっと頭を預けた。言葉はいらなかった。ただ二人で、この痛みを分かち合えれば、それでよかった。
月明かりが、二人を優しく照らしていた。
傷はすぐには癒えない。けれどひとりではなく、二人で抱えれば、その重さも半分になる。私たちは互いの存在で、互いの傷を少しずつ、癒していくのだろう。彼が私を闇から救い、私が彼を闇から救う。そうして二人で、少しずつ、光のほうへ歩いていく。
長い夜が、静かに更けていった。
けれどその夜は、これまでのどんな夜よりも、温かかった。やがて来る朝が、初めて、待ち遠しく思えた。




