表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私は死んでも惜しくない娘のようです  作者: 小林翼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/60

第50話

 オーレリアの理性は、限界に達していた。


 長年信じてきた「愛」を否定され、計画を打ち砕かれ、その心は、完全に、平静を失っていた。彼女は、震える手を、懐へと滑り込ませた。そして、取り出したのは——細身の、短剣だった。


「毒が効かないなら……これで、終わらせるまでよ」


 その瞳に、もう、理性の光は、なかった。あるのは、ただ、狂気だけ。



「リネット!」


 クラウスが、叫んだ。


 オーレリアが、短剣を構え、私に向かって、踏み込んできた。けれど、その動きは、私たちの想定の内だった。隣室で控えていたハンナが、すかさず、扉から飛び込んでくる。同時に、クラウスが、私の前へと、身を躍らせた。


 乱れた足音。叫び声。一室が、修羅場と化した。



 オーレリアの短剣が、宙を切った。


 クラウスが、彼女の腕を、掴もうとする。けれど、狂乱した彼女の力は、思いのほか強かった。もみ合いになり、短剣が、きらりと光る。一瞬、その切っ先が、クラウスの腕をかすめ、薄く血がにじんだ。私は、息を呑んだ。けれど、ひるんでいる暇は、なかった。私は、とっさに、卓上の薬湯を掴んだ。そして、それを、オーレリアの顔めがけて、ぶちまけた。


 彼女が、ひるんだ。その隙に、クラウスが、彼女の手から、短剣を、叩き落とした。


 短剣が、床に転がり、乾いた音を立てた。



「離して……! 離しなさい!」


 オーレリアが、暴れた。けれど、クラウスとハンナに、両腕を押さえられ、もはや、身動きが取れなかった。長年、影から人を操ってきた女が、今、衛兵の手で、組み伏せられようとしていた。


 その姿は、もう、聖女でも、恐ろしい黒幕でもなかった。ただ、愛に破れ、復讐に身を焦がし、すべてを失った、ひとりの哀れな女だった。


 駆けつけた衛兵が、彼女を、捕らえた。



「終わりです、オーレリア」


 私は、静かに、彼女に告げた。


「もう、誰も、傷つけることはできません。あなたの罪は、すべて、明らかになりました」


 オーレリアは、肩で息をしながら、私を、睨みつけた。その目には、憎しみと、それから、深い、深い絶望が、浮かんでいた。


「……なぜ。なぜ、私は、こんなことに」


 その呟きは、誰に向けたものでも、なかった。



 クラウスが、彼女の前に、進み出た。


 かつて愛した女と、罪を犯した女。その両方を、彼は、今、目の前にしていた。彼の表情には、怒りでも、憎しみでもない、ただ深い、悲しみが、刻まれていた。


「オーレリア。私は、お前を、捨てた。その罪は、生涯、背負っていく。だが」


 彼の声が、震えた。


「お前が殺した者たちの命は、二度と、戻らない。それは、お前が、背負うべき罪だ」



 オーレリアは、クラウスを見上げた。


 長い沈黙のあと、彼女の瞳から、涙が、あふれ出した。憎しみでも、狂気でもない。ただ、純粋な、悲しみの涙だった。


「私は……ただ、あなたに、愛されたかっただけ……」


 その言葉に、その場の誰もが、言葉を失った。哀れで、罪深く、そして、どこまでも悲しい女の、心の底からの叫びだった。



 窓の外で、霧が、ゆっくりと流れていた。


 長い対決が、終わった。連なる死をもたらした黒幕は、ついに、捕らえられた。これまで殺された花嫁たちの無念が、ようやく、晴らされる。


 けれど、勝利の喜びは、なかった。あるのは、ただ、深い虚しさと、哀れみだった。


 愛が、人をここまで歪ませる。その悲しい事実を、私は、目の当たりにしていた。もし、あの日、クラウスが彼女を捨てなければ。もし、彼女が、その痛みを、別の形で乗り越えられていたら。彼女もまた、誰かを愛し、愛される、ふつうの人生を、歩めたのかもしれない。


 オーレリアは、衛兵に連れられ、部屋を、出ていった。その背中は、ひどく、小さく見えた。



 扉が閉まると、私は、ようやくクラウスの腕に気づいた。短剣がかすめた傷は、幸い、ごく浅いものだった。私は、その腕にそっと布を巻きつけながら、彼が無事であったことを、噛みしめた。


「……かすり傷だ」


 クラウスは、小さく言った。けれど、私の手を取るその指は、まだ、かすかに震えていた。私は何も言わず、その手を、両手で、そっと包み込んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ