第50話
オーレリアの理性は、限界に達していた。
長年信じてきた「愛」を否定され、計画を打ち砕かれ、その心は、完全に、平静を失っていた。彼女は、震える手を、懐へと滑り込ませた。そして、取り出したのは——細身の、短剣だった。
「毒が効かないなら……これで、終わらせるまでよ」
その瞳に、もう、理性の光は、なかった。あるのは、ただ、狂気だけ。
「リネット!」
クラウスが、叫んだ。
オーレリアが、短剣を構え、私に向かって、踏み込んできた。けれど、その動きは、私たちの想定の内だった。隣室で控えていたハンナが、すかさず、扉から飛び込んでくる。同時に、クラウスが、私の前へと、身を躍らせた。
乱れた足音。叫び声。一室が、修羅場と化した。
オーレリアの短剣が、宙を切った。
クラウスが、彼女の腕を、掴もうとする。けれど、狂乱した彼女の力は、思いのほか強かった。もみ合いになり、短剣が、きらりと光る。一瞬、その切っ先が、クラウスの腕をかすめ、薄く血がにじんだ。私は、息を呑んだ。けれど、ひるんでいる暇は、なかった。私は、とっさに、卓上の薬湯を掴んだ。そして、それを、オーレリアの顔めがけて、ぶちまけた。
彼女が、ひるんだ。その隙に、クラウスが、彼女の手から、短剣を、叩き落とした。
短剣が、床に転がり、乾いた音を立てた。
「離して……! 離しなさい!」
オーレリアが、暴れた。けれど、クラウスとハンナに、両腕を押さえられ、もはや、身動きが取れなかった。長年、影から人を操ってきた女が、今、衛兵の手で、組み伏せられようとしていた。
その姿は、もう、聖女でも、恐ろしい黒幕でもなかった。ただ、愛に破れ、復讐に身を焦がし、すべてを失った、ひとりの哀れな女だった。
駆けつけた衛兵が、彼女を、捕らえた。
「終わりです、オーレリア」
私は、静かに、彼女に告げた。
「もう、誰も、傷つけることはできません。あなたの罪は、すべて、明らかになりました」
オーレリアは、肩で息をしながら、私を、睨みつけた。その目には、憎しみと、それから、深い、深い絶望が、浮かんでいた。
「……なぜ。なぜ、私は、こんなことに」
その呟きは、誰に向けたものでも、なかった。
クラウスが、彼女の前に、進み出た。
かつて愛した女と、罪を犯した女。その両方を、彼は、今、目の前にしていた。彼の表情には、怒りでも、憎しみでもない、ただ深い、悲しみが、刻まれていた。
「オーレリア。私は、お前を、捨てた。その罪は、生涯、背負っていく。だが」
彼の声が、震えた。
「お前が殺した者たちの命は、二度と、戻らない。それは、お前が、背負うべき罪だ」
オーレリアは、クラウスを見上げた。
長い沈黙のあと、彼女の瞳から、涙が、あふれ出した。憎しみでも、狂気でもない。ただ、純粋な、悲しみの涙だった。
「私は……ただ、あなたに、愛されたかっただけ……」
その言葉に、その場の誰もが、言葉を失った。哀れで、罪深く、そして、どこまでも悲しい女の、心の底からの叫びだった。
窓の外で、霧が、ゆっくりと流れていた。
長い対決が、終わった。連なる死をもたらした黒幕は、ついに、捕らえられた。これまで殺された花嫁たちの無念が、ようやく、晴らされる。
けれど、勝利の喜びは、なかった。あるのは、ただ、深い虚しさと、哀れみだった。
愛が、人をここまで歪ませる。その悲しい事実を、私は、目の当たりにしていた。もし、あの日、クラウスが彼女を捨てなければ。もし、彼女が、その痛みを、別の形で乗り越えられていたら。彼女もまた、誰かを愛し、愛される、ふつうの人生を、歩めたのかもしれない。
オーレリアは、衛兵に連れられ、部屋を、出ていった。その背中は、ひどく、小さく見えた。
扉が閉まると、私は、ようやくクラウスの腕に気づいた。短剣がかすめた傷は、幸い、ごく浅いものだった。私は、その腕にそっと布を巻きつけながら、彼が無事であったことを、噛みしめた。
「……かすり傷だ」
クラウスは、小さく言った。けれど、私の手を取るその指は、まだ、かすかに震えていた。私は何も言わず、その手を、両手で、そっと包み込んだ。




