第48話
彼女は、霧を割って、城へやって来た。
ローゼ夫人は、約束の刻限ぴったりに、現れた。豪奢な馬車から降り立つその姿は、相変わらず、気品にあふれていた。手には、見舞いの品。穏やかな微笑み。誰の目にも、心優しい慈善家としか映らないだろう。
けれど、私は、知っている。その仮面の下に、何が潜んでいるかを。
彼女は、私の部屋へと通された。
「まあ、奥方様。お加減は、いかがですか」
ローゼ夫人は、慈愛に満ちた声で、私を気遣った。
「おめでたですって? 本当に、喜ばしいことですわ。ヴェルナー家にも、ようやく、お世継ぎが」
その言葉に、わずかな棘が混じっているのを、私は聞き逃さなかった。世継ぎ。彼女が、最も憎む言葉。これまで、花嫁を殺す引き金にしてきた、その兆し。
「ありがとうございます、ローゼ夫人」
私は、穏やかに応じた。隣室には、クラウスとハンナが控えている。私は、何も知らぬ無垢な花嫁を、装い続けた。
ローゼ夫人は、見舞いの品を、卓に並べた。中には、彼女が自ら調合したという、滋養の薬湯もあった。
「お体に、よく効きますのよ。ぜひ、お試しになって」
来た、と私は思った。その薬湯にこそ、毒が仕込まれている。
私は、その薬湯を、手に取った。
鼻を近づければ、案の定、あの緩慢な毒の気配が、かすかに香った。けれど、私は、ためらわなかった。彼女の目の前で、それを、ひとくち、口に含んだ。
ローゼ夫人の瞳が、すっと、細められた。獲物が、罠にかかった——そんな、捕食者の眼差し。慈愛の仮面の下から、別の顔が、覗き始めていた。
私は、カップを置いた。そして、まっすぐに、彼女を見据えた。
「美味しい薬湯ですね。……ハルヴァート家の秘伝の毒を、こんなにも巧みに仕込むなんて」
その瞬間、ローゼ夫人の微笑みが、凍りついた。
私は、続けた。
「先妻の方々も、この薬湯を、召し上がったのですか。少しずつ、衰えていくように。病に、見せかけて。……オーレリア様」
その名を口にした途端、彼女の顔から、すべての仮面が、剥がれ落ちた。
慈愛は、消えた。
代わりに現れたのは、底冷えのする、冷たい憎悪。穏やかだった瞳は、今や、暗い焔をたたえていた。長年、聖女を演じ続けてきた女の、その本性が、ついに、剥き出しになった。
「……気づいていたのね」
オーレリアは、低い声で言った。もう、慈善家の声では、なかった。
「毒が、効かない? あなた、いったい、何者なの」
「私は、リネット・ハルヴァート」
私は、はっきりと答えた。
「毒に愛された娘です。あなたの毒は、私には効きません。先妻の方々のようには、いきません」
オーレリアの顔が、屈辱と憤怒に、歪んだ。これまで、すべてを思い通りにしてきた女。その計画が、毒の効かぬひとりの娘によって、ことごとく打ち砕かれた。その事実が、彼女を、激昂させた。
「ハルヴァート……! あの、忌々しい家の……!」
その時、隣室の扉が開いた。
クラウスが、姿を現した。彼は、まっすぐに、オーレリアを見据えていた。長い歳月を経て、再会する、かつての恋人。けれど、その瞳に、もう、甘い思い出の色は、なかった。
オーレリアの表情が、揺れた。憎悪に染まっていた顔に、一瞬、別の感情が、よぎった。
「……クラウス」
その声には、長く隠してきた、執着と、未練が、にじんでいた。
窓の外で、霧が、激しく渦巻いていた。
ついに、すべての登場人物が、この一室に、揃った。死神と呼ばれた男。毒に愛された花嫁。そして、慈善の仮面を剥がした、執念の女。
長い、長い霧が、晴れようとしていた。
オーレリア。あなたの罪と、あなたの想いの、すべてを。今、ここで、明らかにする。
私は、固く拳を握り、来るべき対決に、身構えた。




