第40話
クラウスは、長いあいだ、沈黙していた。
薬草園の冷たい空気のなか、彼は、ただ立ち尽くしていた。私が告げた真実が、彼の心を、激しく揺さぶっているのが、伝わってきた。やがて、彼は、苦しげに、口を開いた。
「……信じられない」
その声は、震えていた。
「彼女が、オーレリアだなど。彼女は、修道院にいるはずだ。神に仕える道を、選んだはずだ。あの優しかった人が、人を殺めるなど……あるはずが、ない」
それは、否認だった。
受け入れがたい真実から、目を背けようとする、必死の抵抗。私には、それが分かった。彼にとって、オーレリアは、若き日の、美しい思い出だった。たとえ、自らの手で捨てたとしても。その人が、殺人鬼だと認めることは、彼の中の、何か大切なものを、壊すことだった。
「クラウス様」
私は、静かに、呼びかけた。
「お気持ちは、分かります。けれど」
「黙ってくれ」
彼は、私を、遮った。
「お前は、彼女を、知らない。昔の彼女が、どれほど、心優しい人だったか。お前が見たという、その『氷の瞳』も、何かの、見間違いかもしれない。確証は、ないのだろう。なら、なぜ、そこまで——」
その言葉は、私の胸を、刺した。
すれ違いの、影。彼は、過去のオーレリアを、庇おうとしている。今の私の言葉より、遠い日の記憶を、信じようとしている。
私は、ぐっと、こらえた。
ここで、感情的になっては、いけない。彼の動揺は、当然のことだ。かつて愛した人を、疑えと言われて、すぐに頷ける者など、いない。私は、努めて、冷静に、言った。
「確証は、まだ、ありません。だから、私は、あなたに、嘘を信じてほしいとは、言いません」
クラウスが、はっと、顔を上げた。
「ただ、一緒に、確かめてほしいのです。ローゼ夫人が、本当に、オーレリア様なのかどうかを。私の言葉を、鵜呑みにする必要は、ありません。あなた自身の目で、確かめてください」
クラウスの瞳が、揺れた。
彼の中で、何かが、激しく、せめぎ合っているのが、分かった。過去のオーレリアへの、想い。そして、今、目の前にいる、私への、信頼。どちらを、選ぶのか。
長い、沈黙のあと。
彼は、ゆっくりと、目を閉じた。そして、深く、息を吐いた。何かを、振り切るように。
「……すまない」
彼は、目を開け、まっすぐに、私を見た。
「取り乱した。お前は、私のために、危険を冒して、調べてくれたのだな。それを、疑うようなことを、言った。許してくれ」
その声には、もう、先ほどの、頑なさは、なかった。
「過去の彼女が、どうであれ。今、私のそばにいて、私を守ろうとしてくれているのは、お前だ。私は——お前を、信じる」
その言葉に、私の胸が、熱くなった。
クラウスは、選んだのだ。遠い日の記憶ではなく、今、目の前にいる私を。過去ではなく、現在を。逃避ではなく、真実と向き合うことを。それは、長く真実から逃げ続けてきた彼にとって、大きな、大きな一歩だった。
「クラウス様……」
「一緒に、確かめよう」
彼は、私の手を、握った。
「もし、本当に、彼女が……オーレリアなら。私は、その事実から、もう、逃げない。お前と共に、立ち向かう」
窓の灯りが、霧の向こうに、温かく、滲んでいた。
すれ違いかけた二人の心が、再び、ひとつに、重なった。クラウスは、過去の幻影を、振り切った。そして、私を、信じる方を、選んでくれた。
もう、私たちの間に、迷いは、なかった。
オーレリア。あなたの仮面を、私たちは、二人で、剥ぎ取ります。
固く握り合った手の温もりが、これから先の戦いへの、確かな支えに、なった。
霧の向こうで、何かが、静かに、動き始めていた。




