第31話
その名が、紡がれることは、なかった。
「その『あの方』とは、誰だ」
クラウスの問いに、ヴィクトルは、口を開きかけた。けれど、その瞬間、彼は、何かに怯えたように、唇を、閉ざした。
「言えない。言えば、私も……。それに、あなた方も、無事では済まない。あの方は、そういう御方だ」
その夜は、それ以上、口を割らせることは、できなかった。私たちは、ヴィクトルを、城の一室に、軟禁した。明日、改めて、聞き出すために。
けれど、翌朝。
ヴィクトルが、毒を盛られた。
軟禁していた、その部屋で。彼は、寝台で、苦しげに、喘いでいた。口の端から、泡を吹き、顔は、土気色に、染まっている。先妻たちと、同じ毒だった。
私は、血の気が、引いた。なぜ。あの部屋は、見張られていたはずだ。誰も、近づけなかったはず。なのに、どうやって——。
「奥方様!」
ハンナが、駆け込んできた。
「ヴィクトル様が……! お食事に、何か……いえ、安静のためのお薬だと、運ばれたものが……!」
食事。あるいは、安静の薬。軟禁中の彼の口に、入るもの。それを、扱えた者は——ごく、限られている。
刺客の仕業では、ない。外から忍び込んだ者の手口では、ない。これは、城の内側の、誰かだ。彼の世話を許され、その口に入るものを、自在に扱えた、誰か。
私の背筋を、冷たいものが、走った。
「エルマーを呼べ! 急いで!」
私は、叫んだ。
毒を、消さねば。ヴィクトルが、死ねば、すべてが、闇に葬られる。「あの方」の正体も、永遠に。
ほどなく、エルマーが、駆けつけてきた。白髪を振り乱し、いかにも、慌てた様子で。彼は、ヴィクトルを診ると、深刻な顔で、てきぱきと、処置を、始めた。
「これは、いけない。毒だ」
エルマーは、的確に解毒の処置を主導した。
「奥方様、そちらの、薬箱を。早く!」
私は、彼の指示に従い、必死で解毒に当たった。今は、ヴィクトルを救うことが最優先だ。彼の知る真実を、引き出すために。エルマーの手際は、見事だった。さすが、長年の侍医だ、と私は心から感謝した。その時の私は、まだ何も気づいていなかった。
処置の甲斐あって、ヴィクトルは、一命を、取り留めた。
けれど、意識は、朦朧としていた。譫言のように、彼は、何かを、呟き続けていた。私は、その口元に、耳を、寄せた。
「あの方……知らない……顔も……。指示は、いつも、文と、使いだけ……。あの方の、顔は……誰も、知らない……」
顔も、知らない。
その言葉に、私は、はっとした。
ヴィクトルは、黒幕——「あの方」が、女であることは、知っていた。けれど、その顔も、城の中で、実際に手を下している実行役も、知らされていなかったのだ。黒幕は、何重にも、身を隠していた。だからこそ、ヴィクトルは、口を割っても、核心までは、たどり着けない。
そして、だからこそ。
利用価値の尽きた彼は、容赦なく、切り捨てられたのだ。尻尾として。
城内で、毒を盛れる者。
軟禁中のヴィクトルの口に入るものを、扱えた者。それは、ごく、限られている。けれど——その答えに、私は、まだ、たどり着けずにいた。あまりに近すぎて、見えていなかった。たった今、必死で解毒に当たった、その隣に、答えがいたことに。
ただ、ひとつだけ、奇妙な感覚が、胸に、残った。あの侍女が口を封じられたとき芽生えた、あの小さな棘が、今、もう一度、深く、刺さった気がした。
窓の外で、霧が、渦巻いていた。
「黒幕は、外の女だ」
私は、低く、呟いた。
「けれど、その手は……この城の、内側にある」
ヴィクトルという、駒は、切られた。それは、黒幕が、これほど巧妙に、分業を、敷いていたという証でもある。外で指示する女。内で、手を下す者。二つの影は、なおも、霧の中だった。
半分は、語った。けれど、残りの半分が、まだ、闇の中に、沈んでいた。その闇へ、私は、もう一歩、踏み込もうとしていた。




