第29話
ヴィクトルの様子が、おかしくなったのは、その頃だった。
あれほど社交的で、明るかった彼が、近頃、どこか落ち着きを失っていた。城に滞在を続けながら、人目を避けるように、ひとり、廊下の奥へ消えていくことが、増えた。その横顔に、以前にはなかった、焦りのようなものが、滲んでいた。
私は、ハンナと共に、彼の動きを、注意深く見張っていた。
「奥方様。ヴィクトル様が、また……」
ある夜、ハンナが、声をひそめて、私に告げた。
「夜更けに、城を抜け出して、どこかへ向かわれるのです」
ハンナの目には、不安の色が、浮かんでいた。
「灯りも持たず、こっそりと。何度か、お見かけしました。あんな夜更けに、いったい、どこへ……」
私は、決めた。確かめよう。その夜、私は、外套をまとい、ヴィクトルのあとを、密かに追った。クラウスには、危険だと止められたが、遠くから見届けるだけだと、説き伏せた。
ヴィクトルは、霧の中を、城の外れへと、足早に歩いていった。
たどり着いたのは、城の敷地のはずれ、古い東屋だった。普段、誰も近づかない、忘れられたような場所。彼は、そこで、立ち止まった。誰かを、待っているようだった。
私は、木陰に身を隠し、息を、ひそめた。
やがて、霧の向こうから、もうひとつの、人影が現れた。フードを目深にかぶった、その人物と、ヴィクトルは、何やら、密やかに、言葉を交わし始めた。
声は、よく聞こえなかった。
けれど、その様子は、明らかに、ただならぬものだった。ヴィクトルは、しきりに、頭を下げているように見えた。何かを、訴えている。あるいは、弁明している。フードの人物は、それを、冷たく聞いているようだった。
密会。
あの、人当たりのいい青年が、人目を忍んで、得体の知れぬ誰かと、こうして会っている。その事実が、私の中の疑いを、いっそう、濃くした。
やがて、二人は、別れた。
フードの人物は、霧の中へと、消えていった。ヴィクトルは、しばらく、その場に立ち尽くしていた。そして、ひとつ、深い溜息をつくと、城のほうへと、戻り始めた。
私は、急いで、その場を離れた。彼に、気づかれてはならない。
部屋へ戻りながら、私の頭は、めまぐるしく、回転していた。
ヴィクトルは、何かに、関わっている。
継承権を持つ、従弟。クラウスに世継ぎが生まれなければ、公爵位を継ぐ立場。そして、世継ぎの兆しが見えた花嫁が、次々と殺されてきた、という事実。
すべてが、彼を、指し示しているように、思えた。
動機がある。立場がある。そして、夜ごとの、不審な密会。私は、ヴィクトルを、第一の容疑者として、強く、意識するようになった。あの完璧すぎる笑顔の奥に、隠されていたもの。それが、ついに、姿を見せ始めたのだ。
けれど、と私は、ふと、引っかかった。
あのフードの人物は、誰だったのか。ヴィクトルが、あれほど、へりくだっていた相手。まるで、ヴィクトルのほうが、命令される側であるかのような、あの様子。
もし、ヴィクトルが、犯人なら。なぜ、彼は、あの人物に、頭を下げていたのか。
黒幕は、別に、いるのだろうか。ヴィクトルは、その手先に、過ぎないのだろうか。
窓の外で、霧が、渦巻いていた。
ヴィクトル。彼の動きが、ついに、尻尾を見せ始めた。けれど、その背後には、まだ、見えぬ影が、潜んでいる。あのフードの人物。あるいは——ヴェールの、女。
点と点が、また、ひとつ、繋がりかけていた。
私は、決めた。次は、ヴィクトル自身を、追い詰めよう。彼の口から、真実を、引き出すのだ。
霧の城の闇は、深い。けれど、その奥へ、私は、もう一歩、踏み込もうとしていた。




