第27話
その名は、彼の語りの中から、ふいに、こぼれ落ちた。
翌日も、私たちは、暖炉のそばで、語り合っていた。クラウスの過去を、もう少し、詳しく知りたかった。政略結婚の連続。けれど、その前に——彼には、想い合った人が、いたのではないか。ふと、そんな気がしたのだ。
「クラウス様」
私は、慎重に、尋ねた。
「政略で結婚なさる前に……あなたには、心に決めた方が、いらっしゃったのではありませんか」
クラウスの肩が、わずかに、強張った。
長い、沈黙があった。
やがて、彼は、絞り出すように、口を開いた。
「……いた」
その一語に、深い後悔が、滲んでいた。
「若い頃。家督を継ぐ前のことだ。私には、将来を誓い合った、人がいた。身分は釣り合わなかったが……それでも、私は、彼女と添い遂げるつもりだった」
彼の声が、震えた。火を見つめる瞳が、遠い過去を、見ていた。
「だが、許されなかった」
彼は、続けた。
「家が、政略結婚を、決めてしまった。私は、家督のために、彼女を……捨てたんだ。何も告げず、一方的に。彼女が、どれほど傷ついたか、考える余裕も、なかった。ただ、家の命令に、従うことしか」
彼の手が、固く、握りしめられた。
「あれが、私の、最初の罪だ。愛した人を、自分の手で、踏みにじった。……その報いが、今の、この呪いなのかもしれない」
「その方は」
私は、そっと、尋ねた。
「今、どうしておられるのですか」
クラウスは、力なく、首を振った。
「分からない。風の便りに、修道院に入った、と聞いた。俗世を捨て、神に仕える道を選んだのだと。……それきり、消息は、絶えている。もう、何年も前の話だ」
修道院。俗世を、捨てた女。
「お名前は」
なぜ、そう尋ねたのか、自分でも分からなかった。けれど、私の口は、自然と、その問いを、紡いでいた。
クラウスは、しばらく、ためらった。それから、ぽつりと、その名を、口にした。
「……オーレリア」
オーレリア。
その響きが、暖炉の火の中に、静かに、落ちた。私は、その名を、胸の奥に、深く、刻みつけた。
なぜか、私の鼓動が、速くなった。
オーレリア。クラウスが、最初に愛し、そして、自らの手で捨てた女。今は、修道院にいると、彼は信じている。けれど——本当に、そうだろうか。
彼女が来る。ヴェールの女。薬に通じた、ある女。クラウスを巡る、執着。
ばらばらだった断片が、ひとつの名のもとに、ゆっくりと、引き寄せられていくような、奇妙な感覚があった。けれど、私は、まだ、確信は持てなかった。修道院にいるはずの女が、なぜ、犯人だと言えるのか。
まさか、と思いつつ。
私は、その夜、ひとり、考え込んだ。
もし。もし、オーレリアが、修道院になど、いなかったとしたら。もし、彼女が、今も、どこかで生きていて、捨てられた恨みを、抱え続けていたとしたら。
愛する人を、自分から奪った、ヴェルナーの花嫁たち。それを、ひとり、またひとりと、葬り去る——。
あまりに、おぞましい想像だった。けれど、それは、すべての辻褄を、不気味なほど、合わせてしまう。
私は、決めた。確かめよう。オーレリアが、本当に、修道院にいるのかどうかを。
窓の外で、霧が、ひときわ濃く、渦巻いていた。
オーレリア。その名が、私の中で、暗い光を放ち始めていた。
まだ、何も、断じることはできない。けれど、確かに、長く霧に隠れていた影が、ひとつの名を得て、輪郭を結ぼうとしていた。
彼女は、今、どこにいるのか。
私は、固く、心に決めた。明日、修道院へ、問い合わせを送ろう、と。
真実の、いちばん深いところへ。あと、もう一歩だった。




