第2話
馬車が国境を越えると、世界の色が変わった。
空はいつしか厚い雲に覆われ、行く手にはどこまでも霧が垂れ込めていた。木々は黒く湿り、道の両側に立ち並ぶ枯れ枝が、まるで骨のように白く浮かび上がっている。御者はひとことも口をきかず、ただ手綱を握る背中だけが、この土地を恐れているように強張っていた。
ヴェルナー領。年中、霧に沈むという北の辺境。
話には聞いていた。けれど、肌で感じるそれは、想像していたものよりもずっと重く、ずっと冷たかった。馬車の窓を伝う水滴の向こうに、ようやくそれが見えてきたのは、日が暮れかけた頃だった。
城は、霧の中に黒くそびえていた。
古く、広大で、いくつもの尖塔が灰色の空へ突き刺さるように伸びている。長い歳月のあいだに苔むした石壁は、まるで生き物の皮膚のように湿っていた。窓のほとんどは闇に沈み、わずかに灯る明かりさえ、どこか弱々しく頼りない。
ここに、私は嫁ぐのだ。
馬車が正門をくぐると、出迎えの使用人たちが、石畳の上に並んでいた。けれど、そこに歓迎の色はひとつもなかった。
馬車を降りた私を、無数の視線が刺した。
年配の侍女頭らしき女が、品定めするように私を上から下まで眺める。若い侍女たちは、互いに目配せを交わし、口元を袖で隠して何ごとか囁き合っている。その囁きは、霧に混じって、断片だけが私の耳に届いた。
「……また、お痩せになって」
「……今度の方は、いつまで保つかしらね」
今度の方は、いつまで保つか。
その言葉が、胸の奥に冷たく落ちた。彼らは私を、ひとりの人間として見てなどいない。次に死ぬ花嫁。それまでのあいだ、この城に置かれるだけの、一時の客。ただ、それだけのものとして、私を値踏みしているのだ。
私は背筋を伸ばし、無言で彼らの前を進んだ。怯えを見せれば、それで終わりだ。この城で生きていくつもりなら、最初に侮られてはならない。それだけは、本能のように分かっていた。
「お部屋へご案内いたします」
先に立ったのは、若い侍女だった。ハンナ、と名乗ったその娘は、こちらと目を合わせようともせず、ただ事務的に廊下を進んでいく。
城の中は、外よりもなお陰鬱だった。長い回廊には人の気配がなく、足音だけが冷たく反響する。壁にかけられた古い燭台が、わずかな炎を揺らし、私たちの影を石壁の上で歪ませた。
そのとき、廊下の奥——固く閉ざされた一角に、私はふと目を留めた。重い扉が幾重にも閉ざされ、誰も近づかぬよう封じられたような、暗い区画。
「あちらは……?」
問いかけた私に、ハンナは一瞬、足を止めた。そして、ごく短く答えた。
「西棟です。……お近づきにならないよう」
それきり、彼女は口を閉ざした。けれど、その横顔に走った、隠しきれぬ怯えの色を、私は見逃さなかった。
与えられた部屋は広く、調度は立派だった。けれど、人の温もりはどこにもなかった。掛けられた布も、磨かれた家具も、すべてがどこか客間めいて、誰かが暮らした痕跡というものが、まるで感じられない。まるで、長く住むことを、はじめから許されていないかのように。
ふと、私は気づいた。この部屋にも、かつて先妻たちの誰かが暮らしたのだろうか。彼女たちは、この同じ窓から、この同じ霧を眺めたのだろうか。そして——どんな思いを抱えて、息を引き取ったのだろう。
冷えた寝台に腰を下ろし、私は窓の外を見た。霧は、夜になっていっそう深く、城を呑み込もうとしていた。
歓迎なき初日。冷たい視線。封じられた西棟。怯える侍女。
この城には、何かがある。言葉にならない、けれど確かな不穏が、空気そのものに溶け込んでいる。それを、私の体は、ほとんど本能のように感じ取っていた。
明日、私は、この城の主と会う。
死神と呼ばれる、その男と。
窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、私はそっと、握りしめた手に力を込めた。




