第19話
嵐は、夜半に来た。
北の辺境では珍しい、激しい風雨だった。窓を叩く雨音に目を覚ました私は、はっと身を起こした。薬草園。育て始めたばかりの、あの苗床が。
この嵐では、ひとたまりもない。せっかく芽吹いた若い苗が、根こそぎ流されてしまう。
私は、寝間着の上に外套を羽織り、灯りも持たずに部屋を飛び出した。廊下を駆け、裏口から、雨の中へと走り出る。冷たい雨が、たちまち全身を打った。
薬草園は、すでに、惨憺たる有様だった。
風に煽られた苗が、地に倒れ伏している。雨で土が流れ、根がむき出しになりかけていた。私は、泥に膝をつき、必死で苗を起こし、土をかけ直していった。けれど、雨は容赦なく降りしきり、私の手では、とても追いつかない。
唇を噛んだ、そのときだった。
「——リネット!」
雨音を裂いて、声が飛んだ。
振り返ると、クラウスが、雨の中を駆けてくるところだった。
彼もまた、灯りを持たず、寝間着のまま、ずぶ濡れになっている。私が部屋を飛び出すのを、誰かが見ていて、知らせたのだろうか。それとも、彼自身が。
「危ない! こんな嵐の中を——!」
「苗が! 流されてしまう!」
私が叫ぶと、クラウスは一瞬、絶句した。それから——何も言わず、私の隣に膝をついた。そして、その大きな手で、倒れた苗を、起こし始めた。
二人で、泥まみれになって、奔走した。
雨に打たれ、風に煽られながら、ひとつ、またひとつと、苗を救っていく。クラウスは、薬草のことなど何も知らないはずだった。けれど、私が指し示すとおりに、黙々と手を動かしてくれた。普段の、人を寄せつけぬ冷たさは、そこにはなかった。
ただ、私を助けようとする、ひとりの男がいるだけだった。
「そっちの、根を覆って!」
「これでいいのか」
「ええ、上手です!」
雨音に負けじと、私たちは、声を掛け合った。
どれほど、そうしていただろう。
やがて、嵐が、ふっと弱まった。風がやみ、雨脚が緩んでいく。気づけば、苗の多くは、無事に救い出されていた。
私とクラウスは、泥にまみれ、息を切らして、その場に座り込んだ。全身、ずぶ濡れだった。髪も、顔も、寝間着も、泥だらけ。
その、あまりの有様に——私は、ふっと、笑ってしまった。
公爵が、泥まみれで地べたに座り込んでいる。私も、きっと、ひどい顔をしているだろう。死神と恐れられる男と、毒に愛された娘が、嵐の中で泥にまみれて、こんなことをしている。おかしくて、たまらなかった。
私の笑い声に、クラウスが、目を見開いた。
そして——彼も、つられたように、口元を緩めた。
ぎこちなく。けれど、確かに。長く凍りついていたその顔に、初めて、笑みが浮かんだ。低く、掠れた、けれど、まぎれもない笑い声が、雨上がりの薬草園に、こぼれた。
「……ひどい有様だな」
「ええ。本当に」
私たちは、顔を見合わせて、また笑った。
その瞬間、私たちの間にあった、最後の壁のようなものが、雨に溶けて、消えていくのを感じた。
雲の切れ間から、わずかに、月の光が差した。
濡れた苗が、その光に、淡く輝いている。多くは、助かった。クラウスのおかげだった。
「……ありがとうございます」
私が言うと、クラウスは、ふいと目をそらした。
「礼を言われることでは、ない」
その横顔が、月明かりに、ほんのり赤らんで見えたのは、雨に冷えたせいだけでは、なかったかもしれない。
私の胸の中で、何か、温かなものが、ゆっくりと広がっていった。
共闘という言葉では、もう、足りない気がした。
いつの間にか、私はこの人に、ただの調査の相手以上の何かを、感じ始めていた。それが何なのか、まだ、はっきりとは言えない。けれど、嵐の夜に交わしたあの笑顔を、私は、きっと忘れないだろうと思った。
冷たい雨に濡れながら、私の心だけが、不思議と温かかった。
霧が晴れた夜空に、ひとつ、星が瞬いていた。




