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9 鈴蘭と王妃の歪な争い

 三人は、リュシエンヌの反応を待った。

 けれど、彼女は差し出されたすずらんを震える手で受け取ると、そのまま深いフードを深く被り直し、膝の間に顔を埋めるようにしてうつむいてしまった。

拒絶ではない。けれど、それ以上踏み込むことも許されないような、あまりに脆く繊細な拒絶に近い沈黙。

「……行きましょう、アスレイ」

 グウェンドリンが、アスレイの肩にそっと手を置いた。その声はいつになく柔らかく、妹の聖域を乱してはならないという配慮に満ちていた。

「リュシエンヌは、ずっとこうなの。私たちが何を言っても、お菓子を届けても、一度も顔を上げてはくれなかった。……今日は、お花を受け取ってくれただけでも、奇跡みたいなことなのよ」

 フレアも、いつものお転婆な調子を潜め、寂しそうに楡の木を見つめた。

「そうね。あの子にはあの子の時計があるんだわ。……さあ、戻りましょう。ライリー夫人が血眼になってあなたを探し始める前にね」

 アスレイは、去り際にもう一度だけ振り返った。

 ツタの影、暗がりに沈む小さな背中。

王宮という冷たい海の中で、一人きりで息を潜めているリュシエンヌ。

 アスレイは、その小さな背中が、城のどこかに幽閉されている母の姿と重なって見えた。

 何もできなかった無力感を胸に、アスレイは二人の姉に連れられて、夕暮れに染まり始めた庭園の小道を、重い足取りで戻っていった。

背後でカサリ、と乾いた葉の音がした気がしたが、それが彼女が顔を上げた音なのか、ただの風のいたずらなのか、今の彼には知る由もなかった。


 私は、音のない世界に住んでいる。

 いえ、正確には「言葉」を持たない世界。

 この王宮という場所は、あまりに騒がしすぎる。誰かが誰かを貶めるための毒ある囁き、母様たちが虚勢を張るための衣擦れの音、そして、私という「喋らない、不気味な五女」を憐れむ、あるいは蔑むため息。

それらの音から身を守るために、私はこの楡の木の下に、自分だけの小さな王国を作った。

 ツタのカーテンを下ろし、フードを深く被れば、私はただの影になれる。

 小鳥の鼓動や、風に揺れる葉の音、土の中から這い出る虫たちの足音。それらだけが、私を傷つけない。私に「完璧」も「価値」も求めない。

 私は、このまま誰にも見つからず、石像のように古びて、忘れ去られていくのだと思っていた。

 ある日、私の静かな王国が壊された。

 フレア姉様の元気すぎる足音と、グウェン姉様の神経質な声。いつものようにやり過ごそうと、私はさらに深くフードを被り、膝を抱えた。

 けれど、そこに「もう一つ」の気配があった。

 私と同じくらいの、小さくて、でもどこか必死に呼吸をしているような気配。

「驚かせてごめんね。……リュシエンヌ姉様。ここ、とっても静かで、いい場所だね」

 その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。

 憐れみでも、嘲笑でもない。ただ、そこに咲く花を愛でるような、あまりに素直な声。

 おそるおそる顔を上げると、そこには黄金の髪をした少年がいた。

 空色の瞳。それは、お城の誰とも違う、雨上がりの空のように澄んだ色をしていた。

 彼は、私の足元にそっと「すずらん」を置いた。

 第1妃様の自慢の百合でも、お母様の好きな着飾った薔薇でもない。小さくて、ひっそりとした、けれど確かな香りを放つ白い花。

(……あ、これ)

 知っている。

 この花は、誰にも見向きもされない庭の隅っこで、静かに、でも強く咲いていた花だ。まるで私みたいだね、と心の中で語りかけていた、私の友達。

 本当は、何か言いたかった。

 でも、長く閉じ込めていた言葉は、喉の奥で硬い塊になっていて、どうしても出てきてくれない。

 私は震える手でその花を奪うように受け取り、またフードの中に逃げ込んだ。

(ごめんなさい。

 怖い。

 でも、嬉しい。

 ありがとう)

 ぐちゃぐちゃな感情が熱くなって、視界が滲んだ。

三人の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は胸元に抱えたすずらんの香りを深く吸い込んだ。

「……アスレイ」

 声には出せなかったけれど、心の中でその名前を呼んでみる。

 あの子も、きっと私と同じなのだ。

 こんなに広くて煌びやかなお城の中で、たった一人、自分の「すずらん」を守りながら、震えている。

 私はゆっくりとフードを上げた。

 彼がいなくなった庭園は、さっきよりも少しだけ明るく見えた。彼が置いていったこの小さな花を、枯らさないように守らなければならない。

 言葉を持たない私にできる、たった一つの、新しい「お仕事」。

 また、あの子は来てくれるだろうか。

 その時は、せめてこの花が似合うくらいの、小さな微笑みを返せるようになりたい。


 夜、アスレイは広々とした大理石の浴槽に浸かっていた。町にいた時、濡れた布で体をぬぐったり、膝を曲げてようやく入れるタライに湯を張って浸かっていたとは違い、香油の香りが漂う贅沢な空間だ。ライリー夫人や女官たちは、いつも通り無表情に、けれど手際よくアスレイの体を洗ってくれる。

「ライリー夫人。僕、今日ですべての姉上様に会いました」

 アスレイの言葉に、ライリー夫人の手がわずかに止まった。

「……五女のリュシエンヌ様にも、お会いになったのですか」

「はい。庭園の楡の木の下で。……とっても静かで、悲しい瞳をしていたけれど、僕のあげたすずらんを受け取ってくれたんです」

 アスレイは湯船に肩まで浸かり、ゆらゆらと揺れるお湯を見つめた。

「姉様たちはみんな、バラバラな気がします。お揃いなのは僕とグウェン姉様の髪の色くらいで……。どうして、あんなに空気がトゲトゲしているんでしょう」

 ライリー夫人は、ふっと息を吐き、静かに語り始めた。

「それは……この王宮が、かつて『焦燥』という火に焼かれていたからです。アスレイ様、この城の歴史を、一度整理してお教えしましょう。あなたが、これから誰の愛と、誰の憎しみを背負うのかを知るために」

 ライリー夫人の語る物語は、おとぎ話のような美しいものではなかった。それは、王家の血筋を巡る、泥臭いまでの執念の記録だった。

最初にこの城へ嫁いできたのは、第1妃のクレア様でした。公爵令嬢という高貴な血筋、完璧な美貌、生まれてすぐに王の許嫁とされ、幼き日から王妃教育を受けてこられた、完璧な王妃教育。しかし、どういうわけか、彼女は三年もの間、子を授かることができませんでした。

 焦る王宮へ、隣国の王女である第2妃が嫁いできました。彼女は嫁いで間もなく、まるでクレア様を挑発するかのように即座に懐妊なさいました。

「他国の血に王位を奪われてなるものか」と、クレア様の実家が、傘下の侯爵家から急いで輿入れさせたのが第3妃です。彼女もまた、あっという間に身籠りました。

まず第2妃から、第1王女エリザベス様が誕生しました。その翌年、今度は第3妃から第2王女シレーネ様が生まれました。この二人のどちらが「次代」を担うのか、王宮の継承争いはこの時点ですでに過熱していたのです。

それから数年。ついに第1妃が待望の王女**グウェンドリン様を出産なさいました。同じ年、第2妃は第4王女フレア様を、そして第3妃は第5王女となる子を身籠っておられました。

「……その時でした」

 ライリー夫人の声が、一段と低くなる。

「王妃様たちの争いに疲れ果てた王様が、没落貴族であった女官のエレーヌ……あなたのお母様と出会われたのは。お二人は深く結ばれましたが、エレーヌ様はご自分の立場を察し、姿を消されました」

 アスレイは、お湯を掬っていた手を止め、聞き入っていた。

「エレーヌが去った後、第3妃から第5王女リュシエンヌ様が生まれました。……そしてその翌年、エレーヌ様は、こっそりとあなたをお産みになったのです」

 ライリー夫人は、アスレイの背中を温かいタオルで包み込み、耳元で囁くように言った。

「一番高貴な妃に、ようやく生まれた娘。隣国の誇りを背負った赤毛の王女。そして、国内の期待を一心に背負った次女。そのすべての『後』に、あなたが生まれた。しかも、誰もが望んで止まなかった『男の子』として」

 アスレイは、自分の小さな手のひらを見つめた。

 姉様たちの鋭い視線や、冷たい言葉。それらは、自分が生まれるずっと前から積み上げられてきた、大人たちの焦りと、母たちの涙の結果だったのだ。

「……僕は、みんなが欲しかったものを、最後に全部さらってしまったどろぼうみたいですね」

「いいえ」

 ライリー夫人は、アスレイの濡れた髪を優しく撫でた。

「あなたは、泥棒ではありません。あなたが生まれたことで、この王宮の『停滞』が終わったのです。それが光になるか、全てを焼き尽くす炎になるかは……アスレイ様、あなた次第なのですよ」

 「光」や「炎」なんて、今の自分にはあまりに大きすぎて、背負いきれない重荷だ。本当は、宿命なんて放り出して、今すぐ母上の温かい胸の中に飛び込んで泣きじゃくりたい。自分という存在が誰かの憎しみの対象になるくらいなら、王子の椅子なんていらない。

けれど、それを口にすることは、自分に期待を寄せる数少ない味方を裏切るような気がして、アスレイにはできなかった。

 湯気に包まれた浴室で、アスレイは初めて、自分が立っている場所の「深さ」を知った。自分が救わなければならないのは、囚われの母だけではないのかもしれない。この歪な家系図に縛られた、姉様たちの心もまた、同じように救いを求めているのではないか。

 アスレイは、小さく、けれど深い溜息を一つ吐いた。

 湯気に包まれた沈黙の中で、アスレイはそれ以上の言葉を飲み込んだ。

 王宮に来てから、ライリー夫人は誰よりも厳しく、けれど誰よりも近くで自分を支えてくれている。彼女が語る言葉の重みは、彼女がこの歪な王宮でどれほど長く、耐え忍ぶように生きてきたかの証でもあるのだ。

 アスレイは、自分の本音を胸の奥の深い場所に、そっと仕舞い込んだ。湯気に包まれた沈黙の中で、アスレイはそれ以上の言葉を飲み込んだ。

「ライリー夫人、髪を乾かしてください」

 アスレイは無理に笑顔を作って、浴槽から立ち上がった。

 心の中で渦巻く「お母様に会いたい」という切実な願いと、「誰かの期待に応えなければ」という幼い義務感。

 その二つの間で揺れながら、アスレイは鏡に映る自分を真っ直ぐに見つめた。

ようやく姉様が全て出揃って、それぞれの背景も出せました。

しかしアスレイ8歳への期待が重い。

なお、ライリー夫人はアスレイが全ての姉に直接会うまで、姉の年齢と母親が誰か以外はあえて教えていませんでした。

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