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10 不揃いな姉弟たち

 アスレイの毎日は、冷徹な時間割に支配されていた。

 早朝の礼儀作法、ライリー夫人による身だしなみ点検、午前中のバルトロメウス男爵による講義。ライリー夫人による昼食兼王族の心得、そして午後は、騎士カインとの容赦ない剣術鍛錬。

 昨日はシレーネとの茶会によって午後の鍛錬が潰れてしまった。アスレイにとって、カインと剣を交える時間は、唯一「王子」という殻を脱ぎ捨て、泥にまみれても許される解放の時間だ。

(今日は午後からカインに会える。それまでは、なんとか講義を乗り切らなきゃ……)

 アスレイは、男爵が語る古い王国の税制の話を必死に書き留めながら、窓の外を眺めた。

 しかし、運命は予期せぬ方向から、赤い旋風となって現れた。

「――いいえ、男爵。それはあまりに時代遅れな考え方ではなくて?」

 講義室の重い扉が、音も立てずに、けれど力強く開け放たれた。そこに立っていたのは、ツインテールを誇らしげに揺らした四女、フレアであった。

「……フレア様。今はアスレイ様の講義中でございます。立ち入りはご遠慮いただかなければ」

 男爵が眉をひそめ、眼鏡を押し上げる。しかし、フレアは澄ました顔でアスレイの机まで歩み寄ると、そのノートをひょいと覗き込んだ。

「男爵。アスレイには今、机の上の死んだ歴史よりも、生きた王宮の『今』を教える必要があると思わない? 今日は天気がいいわ。太陽の下で、この城の構造を直接肌で感じさせる方が、よほど効率的な教育ですことよ」

「しかし、カリキュラムが……」

「あら、責任なら私が持つわ。それとも何? 貴方は、私の母である、第2妃ミルドレッドの教育方針に異を唱えるつもり?」

 フレアはにっこりと、けれど拒絶を許さない圧力を持って微笑んだ。男爵は言葉に詰まり、結局は「……一時間だけですぞ」と折れるしかなかった。

「さあ、行くわよアスレイ! ぐずぐずしてると、グウェンに見つかっちゃう!」

 フレアは男爵が書類を片付ける隙に、アスレイの手を力強く掴んだ。

「えっ、あ、フレア姉上!? でも午後は鍛錬が……」

「そんなの、後でどうにでもなるわよ! 今はこの退屈な部屋から脱出するのが先決!」

 アスレイは驚きながらも、彼女の掌から伝わる確かな熱に、抗い難い高揚感を覚えた。

 ライリー夫人に厳しく躾けられ、バルトロメウス男爵に知識を詰め込まれ、グウェンドリンに完璧を説かれる。そんな、規律に縛られたアスレイの世界を、フレアは笑いながら土足で踏み荒らし、外へと連れ出していく。

(……すごい。フレア姉様といると、お城が全然違う場所に見える)

 アスレイは、前を走る赤毛の背中を見つめた。

 それは、母上を助けるために「強くならなければ」と自分を追い込んできたアスレイにとって、初めて知る「ただの子供としての我儘」だった。

「どこへ行くんですか、姉上!」

「決まってるじゃない! 私の秘密の遊び場よ。あそこなら、誰も追ってこられないんだから!」

 二人の笑い声が、格式高い回廊に木霊する。

 それは、歪な争いに満ちた王宮の日常に、鮮やかな亀裂を入れるような、光の逃走劇であった。


 バルトロメウス男爵の退屈な講義からアスレイを連れ出したフレアは、その足で真っ直ぐに楡の木の下へと向かった。昨日の今日で、逃げ場のない「静域」へと土足で踏み込むフレアの勢いは、まさに赤い旋風そのものであった。

「リュシー! また来たわよ! ほら、アスレイも連れてきてあげたわ!」

 フレアがツタのカーテンを勢いよく跳ね除けると、そこには案の定、膝を抱えて丸まっていた五女リュシエンヌの姿があった。

 突然の来訪者、それも最も苦手とするタイプであるフレアの「グイグイ」とした接近に、リュシエンヌは目に見えて怯えた。彼女はフードをさらに深く被り、ずるずると壁際まで後ずさる。その様子は、まるで嵐に晒された小動物のようであった。

「ちょっと、そんなに逃げなくてもいいじゃない! ほら、今日はアスレイがね……」

「フレア姉様、待ってください」

 フレアがさらに距離を詰めようとするのを、アスレイはそっと制した。

 アスレイはリュシエンヌを刺激しないよう、少し離れた場所に静かに跪いた。そして、地面に積もった枯葉を払い、湿った土を指先で整える。

「リュシエンヌ姉上。……母上から教わった、心を強くする『おまじない』があるんです」

 アスレイの穏やかな声に、リュシエンヌの動きが止まった。フードの隙間から、おそるおそる水色の瞳がこちらを覗く。

 アスレイは指先を動かし、土の上に歪な円を三つ、入れ子状に描いた。そして、その中心にどこからか拾ってきた真っ白な小石を一つ置いた。

「母上は言っていました。この三つの円は、自分を守るための垣根なんだって」

アスレイは一番外側の円を指でなぞる。

「一番外側は、誰かに嫌なことを言われても、それを跳ね返すための壁。真ん中の円は、自分の中の大切な 思い出を、誰にも汚させないための壁。そして……」

 最後に、一番内側の円をそっと撫でた。

「一番内側は、いつか心から笑える日のために、自分だけを温めておくための、とっても安全な場所。……嫌なことがあったら、この中におまじないで隠れちゃえばいいんです。そうすれば、誰の毒も届きません」

「……へぇ、おまじない」

 横で見ていたフレアが、感心したように声を漏らした。リュシエンヌは、アスレイが描いた三つの円を、吸い込まれるように見つめていた。

 彼女は震える指を伸ばすと、おそるおそる、アスレイの描いた一番内側の円をなぞった。

 フレアの強引な勢いに気圧されていた彼女の肩から、ふっと力が抜ける。言葉を介さずとも、彼女がその「垣根」の意味を理解し、救いとして受け入れたのがアスレイには分かった。

「いいじゃない、リュシー! これからは何かあったらその円の中に隠れちゃえばいいのよ。……で、私がうるさすぎたら、一番外側の壁で私を弾き飛ばしなさいな!」

フレアが豪快に笑うと、リュシエンヌは一瞬だけ、本当に一瞬だけ、フードの奥で唇を綻ばせた。

「母上が言っていたんです。心の中に自分だけの場所があれば、どこにいても独りじゃないって」

 アスレイの言葉は、孤独な五女だけでなく、それを隣で聞いていた四女の心にも、不思議な温かさとなって染み込んでいった。王宮という冷徹な檻の中で、母エレーヌの慈愛が、子供たちの手を静かに繋ぎ合わせようとしていた。


 その日、唐突に王の子供たちの晩餐会が開かれた。

 重厚な銀食器が並ぶ食卓。だが、末席に座るアスレイを見つめる姉たちの眼差しは、鋭い「査定」から、形容しがたい「期待」へと変わりつつあった。

 最上座のエリザベスは、優雅にワインを口にしながら、静かに思考を巡らせる。

(この子が王位に就けば、長年この城を縛り込んできた歪な争いも終わる……。私たちが、ただの姉妹に戻れる日が来るのかもしれない)

 彼女はもう、アスレイを排除すべき敵とは見ていなかった。むしろ、自分たちが失ってしまった「家族」という概念を取り戻してくれる、唯一の希望として見守っていた。

 隣のシレーネも、エリザベスの穏やかな横顔と、フードを外したリュシエンヌの姿を見て、確信していた。

(エリザベス姉様やリュシーがこれほどまでに心を開くのなら、この弟には、王宮の毒を浄化する力があるのでしょう。……ふふ、見込みがあるわね)

「アスレイ、もっと召し上がりなさい。身体を壊しては、母上が悲しまれますよ」

 三女グウェンドリンが、自らアスレイの皿へ柔らかな肉を取り分ける。その声には、刺々しさは消え、唯一の弟を慈しむ姉としての情愛が溢れていた。

「そうよ、食べなきゃ明日も遊びに連れて行かないわよ!」

 フレアの快活な声が、凍てついていた食堂の空気を軽やかに解かしていく。

(もう、全部解決してよ、アスレイ。あんたなら、できるでしょ?)

 そして、アスレイの隣に座るリュシエンヌ。

 彼女は言葉こそ発さないが、テーブルの下で、昼間教わった「三つの円」を描くように、アスレイの袖の端をそっと、大切そうに握りしめていた。自分を救ってくれたこの小さな弟の、力になりたい。その静かな決意が、彼女の小さな掌から伝わってくる。

 アスレイは、姉たちが向けてくれる不器用で、けれど確かな温もりに胸が熱くなった。

 母上への想いを胸に、一人で戦わなければならないと思っていた王宮。けれど今、目の前には、それぞれの孤独を抱えながらも自分を迎え入れようとしてくれる、五人の姉たちがいた。

(……母上。僕、この人たちの弟になれて、本当に良かった)

 八歳の王子が浮かべた幼い、けれど確かな決意を宿した微笑みに、王宮の長い夜が、ゆっくりと明けようとしていた。

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