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11 孤独な統治者

その夜、王エドワードは一人、執務室で深紅のワインを揺らし、古びた肖像画を眺めていた。

 それは彼がまだ「若き王太子」と呼ばれていた頃、最初の妃、クレアと婚約した際に描かれたものだ。

(……あの頃の私は、まだ王冠の重さを知らなかった)

 クレアとの婚姻は、王家と公爵家を結ぶ、血の誓約であった。幼い頃から「王になるための部品」として育てられたエドワードにとって、婚姻とは愛を育む場ではなく、国の土台を固めるための儀式に過ぎない。

 クレアは完璧であった。誇り高く、伝統を重んじ、王妃としての責務を冷徹に遂行した。だが、二人の間に流れるのは、温かな血ではなく、冷え切った義務感だけであった。

 その後、国政の均衡を保つために、第二、第三の「くさび」が打ち込まれた。

 隣国との同盟を確固たるものにするための武の王女、ミルドレッド。

 新興勢力の野心を宥めるための知略家、サンドラ。

 彼女たちとの夜もまた、戦場と同じであった。背後に控える各派閥の期待と毒を孕んだ寝所。エドワードは「平等」という名の仮面を被り、誰一人として特別に愛さぬことで、死にゆく心を殺し、かろうじて王国の崩壊を食い止めてきた。

 そんな息の詰まる日々の中で、エレーヌは現れた。

 彼女は王妃クレアに仕える女官であった。没落した家門の出身でありながら、その立ち居振る舞いには凛とした気品があり、騒がしい王宮の中で彼女の周りだけが凪いでいた。

 きっかけは、王妃の伝言を携えて彼女がたびたび執務室を訪れるようになったことだった。

 次第に、会話の端々に彼女の持つ独特の静謐さが混じるようになる。重責に押し潰されそうな夜、彼女が淹れる茶の香りは、不思議と強張った胸を解きほぐした。彼女は決して王の孤独に踏み込もうとはしなかったが、ただそこにいるだけで、エドワードを一人の「男」として扱ってくれた。

『今夜は月が綺麗ですが、あいにく執務室の窓からは半分しか見えません。……少しだけ、テラスへ出られてはいかがですか?』

 ある夜の、その一言が全てを変えた。

 夜風に吹かれるテラスで、王という重い鎧を脱ぎ捨て、ただの男として彼女を見つめた時、枯れ果てたはずの感情が溢れ出した。互いの想いが重なり合った瞬間、それが破滅への序曲であることを二人は理解していた。だからこそ、その愛は狂おしいほどに純粋で、誰にも汚せない聖域となったのだ。

 だが、アスレイを身ごもったと知った時、エドワードは恐怖した。

 彼は密かに、彼女に新たな身分を与え、離宮へ隠す策を練った。それが王としての精一杯の「守護」だと信じて。

 けれど、エレーヌはそれを選ばなかった。

『貴方が私を守ろうとすれば、貴方は王としての正義を欠くことになります。そしてこの子は、一生、誰かの憎しみの対象として生きることになるでしょう』

 彼女はそう言い残し、煙のように王宮から姿を消した。王を「王」として在らしめるために。

 エドワードは、彼女が去った静寂の中で、初めて膝を突いた。守っていたのは自分ではない。自分こそが、彼女の無私な献身に守られていたのだ。

「……私は、なんと無力な王か」

 それから八年。

 この城において、王が誰かと食卓を囲むことはない。三人の后を平等に扱うという冷徹な建前は、実の子供たちと食事を共にすることさえ彼に禁じていた。

(……不揃いな娘たちが、一つの食卓を囲んでいた、か)

 先ほど、食堂の厚いカーテンの隙間から、息を潜めて覗き見た光景を思い出す。

 刺々しく牽制し合っていた姉姫たちが、アスレイという小さなしるべを中心に、確かに手を取り合おうとしていた。

 父として駆け寄り、あの輪に加わりたいという衝動を、王冠の重みが冷酷に押し殺す。彼に許されているのは、暗がりから子供たちの幸福を、剥き出しの飢餓感を持って見守ることだけだった。

「エレーヌ……。あの子の純粋さが、この檻を壊し始めている」


 一方、王宮のさらに深い影、隔離された離宮へと続く隠し通路には、二つの影があった。

 騎士カイン、そしてアスレイの手を引く五女リュシエンヌである。

「……ここ、です。母君ははぎみの、お部屋……」

 リュシエンヌにとって、これは生まれて初めての明確な「反逆」であった。

 カインが低く告げる。「これより先は、私が。……もしもの時は、迷わず逃げてください」

 カインの胸中には、複雑な想いが渦巻いていた。王の命に従い、親子を引き離した張本人。だが、アスレイの血を吐くような努力に最も心を動かされたのは、他ならぬ守護騎士であった。たとえこれが、王への背信となるのだとしても。

 冷たい廊下を抜け、月光が差し込む一室の前で、カインは足を止めた。

 扉の向こうから、聞き覚えのある、穏やかな鼻歌が聞こえてくる。

「……っ」

 アスレイの身体が震え出す。完璧なマナーで塗り固めていた「王子の皮」が、剥がれ落ちていく。

 カインが無言で鍵を開け、扉をわずかに押し開いた。

 そこには、窓の外の月を見つめる一人の女性――エレーヌの姿があった。

「母上……っ!」

 堪えきれず、アスレイが駆け出す。

 エレーヌは驚いたように振り返り、次の瞬間、駆け寄ってきた小さな体を引き寄せ、強く抱きしめた。

「アスレイ……ああ、私のアスレイ。よく、頑張りましたね……」

 母の腕の温もり、嗅ぎ慣れた薬草の香り。

 八歳の少年は、ついに「王子」であることをやめ、一人の子供に戻って、母の胸で声を上げて泣いた。

 その様子を、カインは入り口で背を向けて見守っていた。

 背後で聞こえる親子の再会の声。それは、冷徹な王宮の掟が、アスレイという光によって初めて敗北した瞬間であった。

(……エドワード様。御覧ください。貴方が影から見守ることしかできなかった子供たちが、今、自らの足で歩き始めましたぞ)

 月光に照らされた回廊で、騎士は剣の柄を握り直し、この儚い再会を守るべく、鋭く闇を睨んだ。

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