12 母の温もりと影
静寂に支配されていた離宮の一室に、少年の嗚咽だけが響いていた。
エレーヌは、胸の中で震える黄金の頭を幾度も撫で、その温もりを確かめるように抱きしめた。彼女の瞳からも、堪えていた雫が零れ落ち、アスレイの柔らかな髪を濡らす。
「母さん……っ、母さん……!」
アスレイの口から漏れたのは、王宮で徹底的に叩き込まれた「母上」という硬い言葉ではなく、幼い頃から呼び慣れた、甘えを孕んだ呼び名だった。
完璧に仕込まれた王子の仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、母を慕う八歳の子供がいた。
エレーヌは少年の顔を両手で包み込み、その水色の瞳を覗き込む。そこには、数多の姉たちの洗礼を耐え抜き、冷たい王宮の理に抗ってきた強さと、それ以上に深い、母への切実な思慕が揺れていた。
「いいのです、アスレイ。あなたは十分に立派でした。……いいえ、立派すぎて、母の心は痛むほどです。あんなにも窮屈な『王子の型』を、貴方はその小さな背中で背負い続けてきたのですね」
エレーヌは、アスレイの指先がかすかに荒れているのを見逃さなかった。絶え間ない礼儀作法の訓練、そして文字を綴り続けた証。彼女は、王宮という巨大な装置が、この純真な魂をどれほど削ろうとしているかを知っていた。
「母さんの教え……『心に一輪の花を』、ずっと守ってきました。お姉様たちも、最初は怖かったけれど……皆、本当は寂しいだけだったのです」
アスレイが涙を拭い、微笑んで見せると、エレーヌは息を呑んだ。その表情は、かつて彼女が愛したエドワード王の、若き日の孤独な横顔に酷いほど似ていたからだ。
一方、回廊の闇に独り立つ騎士カインの耳が、微かな風の鳴る音を捉えた。
彼は即座に腰の長剣に手をかけ、視線を鋭く研ぎ澄ます。この密会を許したのは、王エドワードの「黙認」あってのこと。だが、それは公に許された権利ではない。
2人が王城に着くなり引き離されたことに、カインは、自身の見通しの甘さを呪った。しかし、この幼き王子が短期間で成し遂げた変革に、戦慄にも似た感動を覚えた。アスレイは、自分を忌避していたはずの姉たちをも、この冷徹な秩序に綻びを生じさせる「共感者」へと変えてしまったのだ。
離宮の奥、再会の時間は無情にも過ぎていく。
エレーヌは、窓から差し込む月光が傾いたのを見て、アスレイの肩を優しく押し戻した。
「さあ、お帰りなさい。光の当たる場所へ。……アスレイ、覚えておきなさい。この場所を縛る因習を壊せるのは、力ではなく、純粋な愛だけなのです」
アスレイは最後にもう一度だけ、「母さん」の掌に頬を寄せ、深くその温もりを刻み込んだ。
「いつか、隠れて会わなくてもいいように、僕が変えてみせます」
部屋を出る際、アスレイは一度だけ足を止め、溢れそうになる涙を「王子の型」の裏側へと押し込めた。再び背筋を伸ばし、一歩ごとに決意を固めていく。
その凛とした少年の影を、カインは跪いて迎えた。
冷たい石壁に囲まれた城内に、今、少年の手によって静かに内側から新しい風が吹き込もうとしていた。
アスレイが去った後の部屋は、急速にその温度を失っていくようだった。
エレーヌは、先ほどまで息子の小さな体があった場所――自身の胸元に、そっと掌を当てた。薄い絹の衣越しに、まだ微かな鼓動の余韻が残っている。
「……あんなに、大きくなって」
独り言が、冷えた空気の中に溶けて消えた。
没落伯爵令嬢として、そしてただの女官として生きてきた彼女にとって、王宮は美しくも残酷な、巨大な硝子細工のような場所だった。そこでは愛は弱点であり、純粋さは毒となる。
だから、愛するつもりはなかった。つもりはなくとも愛してしまうことがあると知った。
彼女は身籠った時、自ら王の前から姿を消した。エドワードという男を、政争という名の汚泥から守るために。
けれど、あの子は。
私の愛したエドワードの面影を宿しながらも、私にはない「強さ」を持っていた。
八歳。まだ大人の保護を必要とする幼い少年が、「母さん」と呼んで泣いた直後、再びあの重苦しい「王子の型」を纏って背筋を伸ばしたのだ。その背中を見送った時、エレーヌの胸を突き上げたのは、安堵ではなく、抉られるような痛みだった。
私が彼に教えた「心に一輪の花を」という言葉。
それは、恨みを抱いて壊れてしまわぬよう、あの子に贈ったせめてもの盾だった。けれど、あの子はその花を、自分を守るためではなく、他者を癒やすために使おうとしている。自分を疎む姉たちを包み込もうとする、それはあまりに眩しく、危うい光だ。
「陛下……エドワード様。貴方は、あの子の中に何を見ていらっしゃるのですか」
エレーヌは窓辺に寄り、夜の帳が降りた王宮を眺めた。
重厚な石壁の向こう、数多の灯火が煌々と輝いている。その一つ一つの光の下で、今日も誰かが誰かを陥れ、誰かが自らの心を殺して生きているのだろう。
かつて自分が愛した男は、王という座を守るために、心を鉄の鎧で固めた。
けれど、アスレイは。
あの小さな手で、王宮の冷たい石壁に、温かな指先を触れさせようとしている。
エレーヌは、窓の外で風に揺れる名もなき花を見つめた。
隔離され、忘れ去られたこの離宮の片隅で、彼女ができることは祈ることだけだ。あの子が咲かせようとしている花が、どうか王宮の冷気にあてられて枯れてしまわぬように。
そして、いつか。
本当の意味で「母さん」と呼び、誰の目も憚らずに抱き合える日が来ることを。
「アスレイ……貴方の歩む道が、どうか光に満ちていますように。たとえこの母が、最後まで貴方の影の中に消える運命であったとしても」
彼女はそっと瞳を閉じ、冷たい夜風を吸い込んだ。
指先に残るアスレイの髪の柔らかさを、消えないように、心の中の深い場所に閉じ込めながら。
同じ夜、王宮の別の場所では、沈黙よりも冷ややかな密議が交わされていた。
ある一室、緻密な装飾が施された机の上に、数枚の報告書が並べられている。
「リュシエンヌが動きましたか。あの内気な姫を突き動かすとは、第一王子の『毒』もなかなかのものですわね」
扇の影で口元を隠し、女は低く笑った。
影は、音もなく広がっていく。
アスレイが母と交わした密やかな時間は、すでに「誰か」の掌の上で、王宮の秩序を破壊する不祥事として加工され始めていた。
「守護騎士の独断、幽閉された女官との接触。材料は揃いましたわ。あの少年に相応しい結末を用意して差し上げなくては」
女は影に潜む者へ指示した。
「『本物の王子』の用意を」
再会の喜びを抱いたまま眠るアスレイの頭上で、巨大な断頭台の刃が、音もなく吊り上げられようとしていた。




