13 社交の戦場と姉達の盾
母との再会から数日。アスレイに浸る余韻を切り裂くように、教育係のライリー夫人が厳格な足音を響かせて現れた。
「アスレイ様。陛下より仰せつかりました。来週、貴方様のお披露目を兼ねた茶会が開かれます」
ライリー夫人の言葉に、アスレイは背筋を伸ばした。
それは単なる社交の場ではない。姉姫たち五人が揃い、さらに王宮と繋がりの深い有力貴族の嫡子たちが招かれるという。表向きは親睦だが、その実態は、外様同然の第一王子が「王の器」に足るかを見定める、静かなる戦場だった。
「招かれるのは、妃様方の実家である公爵家や侯爵家の子息たちです。失礼がないよう、アスレイ様には覚えていただくことが山程ございます」
それからの日々は、これまでに増して過酷なものとなった。
「いいですか。今回招かれるヘイスティングス侯爵家は、長女エリザベス様を支持する武門。挨拶の際は、拳を握る強さすら評価の対象となります」
貴族家の紋章、複雑に絡み合う婚姻関係、そして相手の家格に合わせた「三段階の礼」。アスレイは、頭が割れるような膨大な情報を、一滴の漏れもなく脳に刻んでいった。
「お茶を一口運ぶ動作一つに、その者の血統が表れます。指先の角度、カップを戻す音……。アスレイ様、その背の線が甘い!」
叩き込まれるのは、もはや作法という名の武器だった。
アスレイは、姉たちの背後に控える貴族たちが、虎視眈々と自分を引き摺り下ろそうとしていることを知った。
(……ここは、力ではなく、気高さで戦う場所なんだ)
ライリー夫人の厳しい指導が続く中、分厚い貴族名鑑と格闘する少年のもとへ、予期せぬ「援軍」たちが現れる。
最初に現れたのは長女エリザベスだった。冷徹な騎士と恐れられる彼女だが、その手には王宮御用達の菓子箱が握られている。
「……差し入れ。糖分は脳を動かす。食べておきなさい」
ぶっきらぼうに置かれたのは、アスレイがかつて好きだと言った蜜漬けの木の実だった。
それと入れ替わるように、優雅な足取りで次女シレーネと三女グウェンドリンが入り込む。シレーネは名簿を一瞥し、ふんと鼻で笑った。
「相変わらず愚直ね。ヘイスティングス侯爵家の子息と話すなら、軍馬の血統の話でも振っておきなさい。あの一族は、教養よりも馬の筋肉にしか興味がないのだから」
嫌味な言い方ではあったが、それはライリー夫人の教本には載っていない、生きた社交の「武器」だった。
「あら、シレーネ。そんな小細工を教えなくても、アスレイは私の隣に座っていればいいのよ」
三女グウェンドリンが、アスレイの肩を優しく抱き寄せる。
「王妃派の私が後ろ盾だと示せば、誰も貴方に無礼な口は利けないわ。自信を持ちなさい、私の可愛い弟」
その時、窓からひらりと身を躍らせて四女フレアが飛び込んできた。彼女は騒がしく笑いながら、アスレイのマナー練習用のカップを手に取る。
「なーに、難しく考えんなくていいよ! 礼儀なんてのは、体が勝手に動くようになればいいんだから」
驚くべきことに、お転婆なはずの彼女の所作は、一点の曇りもないほど完璧だった。アスレイが目を丸くすると、彼女はいたずらっぽく笑う。
「不思議? 私だって、母様とエリザベス姉様に、作法を間違えるたびに木剣で叩き込まれたからな。『武芸もマナーも、型が乱れれば隙ができる』って!」
姉たちの奔放な激励に、ライリー夫人が呆れたように溜息をつく。
アスレイは、口の中に広がった蜜の甘さを噛み締めながら、独りではないことを実感していた。自分を試そうとする外の世界の敵意よりも、この檻の中で育まれ始めた不器用な絆が、今の彼には何より心強かった。
「姉様方、ありがとうございます。僕、精一杯努めます」
王宮の庭園は、柔らかな陽光と薔薇の香りに包まれていた。
白磁のカップがソーサーに触れる微かな音、絹のドレスが擦れる衣擦れの音。優雅な静寂の中に、刺すような視線が幾重にも交差している。
中央に座るアスレイは、完璧な「王子の型」を纏っていた。ライリー夫人に厳しく仕込まれた背筋の伸び、シレーネに教わった軍馬の知識、そして姉たちから受け取った自信。彼は、招かれた有力貴族の子息たちの無遠慮な品定めを、穏やかな微笑みで受け流していた。
「――第一王子殿下。南方のヘイスティングス領では、近頃馬の疫病が流行っているとか。殿下なら、どのような策を講じられますかな?」
エリザベスを支持する侯爵家の嫡男が、試すような問いを投げかける。八歳の子供には荷が重い政事の質問。周囲の貴族たちがニヤリと口角を上げた。
だが、アスレイは動じない。
「馬の強健さはヘイスティングス家の誇りとお聞きしています。まずは隔離を徹底し、血統を守り抜くこと。そして、姉上のような優れた騎士たちが動揺せぬよう、十分な補償を約束することでしょうか」
少年の理路整然とした回答に、場が静まり返る。隣に座る三女グウェンドリンが「よく言ったわ」と満足げに頷き、背後に立つ長女エリザベスが微かに口角を上げた。
招かれた貴族の子息の一人、ヘイスティングス侯爵家の分家に連なる少年が、わざとらしく鼻を鳴らしてティーカップを置いた。
「――しかし、驚きましたな。没落した家柄の女官が産んだお子と聞き及んでおりましたが、これほどまでに『型』だけは整えてこられるとは。やはり下民の血というのは、見栄を張ることに長けているようです」
あからさまな侮辱に、周囲の貴族たちの間に動揺と、隠しきれない嘲笑が広がる。アスレイの手が微かに止まった。母を、そして己の出自を「下民」と断じられた痛みが、胸を鋭く抉る。
だが、アスレイが口を開くより早く、隣に座っていた三女グウェンドリンが、手にしていた扇を机に叩きつけた。
「随分と無礼な口を利くのね、貴方。王家の血を引く我が弟に対し、その言い草。それは王妃である私の母、延いては陛下への反逆と受け取ってよろしくて?」
王妃派の正統を背負う彼女の怒声に、侮辱を口にした少年は顔を青くした。そこへ、追い打ちをかけるように次女シレーネが、優雅に、しかし氷のように冷たい声で言葉を重ねる。
「あら、グウェンドリン。そんなに熱くならなくても。この方はきっと、家格というものを勘違いしていらっしゃるのよ。……ヘイスティングス家の分家でしたかしら? 確か昨年の徴税記録に、少々不自然な記載があったと記憶していますけれど……その知能では、計算も満足にできなかったのかしらね」
知略家シレーネの放った「生きた毒」に、少年は戦慄して椅子から崩れ落ちそうになった。彼女の背後にある側妃サンドラの情報網が、自分の一族をいつでも破滅させられることを理解したからだ。
「アスレイ、聞き流しなさい。貴方は私たちの誇り高き弟よ」
グウェンドリンがアスレイの肩を抱き寄せ、シレーネがその水色の瞳を覗き込んで、不敵に微笑む。
「そうね。泥を投げるしか能のない輩の相手をする必要はないわ。貴方はただ、そこに座っていればいいの」
普段は反目し合う王妃派とサンドラ派。その二人が結託してアスレイを庇うという異常事態に、庭園は静まり返った。アスレイは、二人から伝わる温かさと、自分を信じてくれるその気高さに、深く、深く頭を下げた。
「……姉上。ありがとうございます。僕は、僕の志すべき道を、恥じぬように歩みます」
その言葉は、もはや教えられた「型」ではない。彼自身の心から溢れた真実の響きだった。
しかし、その光り輝くような光景を、庭園の入り口の影から、暗い憎悪の瞳で見つめる者がいた。
(笑っていられるのも、今のうちだ……)
影の中に潜む少年の手には、失われた伯爵家の印章が握られていた。嵐は、すぐそこまで迫っていた。




