14 父と息子
重厚な扉が開かれた先には、歴代の王たちの肖像画が並ぶ「英雄の回廊」が続いていた。アスレイは、バルトロメウス男爵に連れられ、一枚一枚の絵の前に立ち、そこに刻まれた偉業と苦難の説明を受けていた。
「この第五代王は、未曾有の飢饉から民を救うため、自らの私財をすべて投げ打ったと言われております。王子、王家の血とは、民の涙を拭うためにあるのです」
男爵の穏やかな声が響く中、回廊の奥からもう一つの、より低く威厳に満ちた足音が近づいてきた。現れたのは、現国王エドワードだった。
「――バルトロメウス。大儀である」
「これは陛下。第一王子殿下に、我が国の歴史の一端を説いておりました」
男爵は深く一礼し、父子の間に漂う独特の緊張感を察すると、気を利かせて「私は少し席を外しましょう」と静かにその場を辞した。
広大な回廊に、父と息子の二人だけが残される。エドワードは、飾られた肖像画よりも、その前に立つ小さな息子を、射抜くような、それでいてどこか迷いのある瞳で見つめた。
「……息災か。慣れぬ城での生活、姉たちに振り回されてはおらぬか」
「はい、父上。お姉様方は……皆様、とても良くしてくださいます」
アスレイの健気な答えに、エドワードの口角が微かに緩む。彼は一歩踏み出し、息子と同じ高さにまで視線を落とした。
「その声を聞くと、エレーヌを思い出す。……彼女は、没落の憂き目に遭いながらも、最後まで気高さを失わぬ女だった」
アスレイは、母が語ってくれた「お伽話」を思い出しながら、静かに口を開いた。
「母さんはよく、一人の騎士様のお話をしてくれました。とても強くて、優しくて、でも誰よりも寂しがり屋な騎士様の話。……それが父上のことだったのだと、ここに来てようやく分かりました。母さんは、父上との日々を、ずっと宝物のように抱きしめていたんです」
エドワードの大きな掌が、震えながらアスレイの肩に置かれた。冷徹な王の仮面の下にある、一人の男としての慟哭が、少年の小さな肩に伝わってくる。
アスレイは父の背に手を回して、母から教わった守護の歌を歌い始めた。
少年の柔らかな声が、古い調べをなぞるように紡ぎ出される。エドワードは息を呑み、目を閉じてその言葉の重みを噛み締めた。
「アスレイ……それはただの守護の歌ではない。かつて王家が忘れてはならぬ戒めとして、そして大切な者を守るために代々受け継いできた『呪い(まじない)』なのだよ」
「……まじない?」
「そうだ。愛する者が苦しむ時、その痛みを半分引き受けるという、身勝手で尊い契約の歌だ。エレーヌは、それを私に歌い続けてくれた……私が王としての重圧に押し潰されぬよう、彼女自身の心を削りながら」
アスレイは、母が自分に歌ってくれた時の慈しみに満ちた瞳を思い出した。母は自分を守るためだけでなく、いつか会う父への愛を、その歌に託していたのだ。
「父上……母さんは、今も歌っています。父上のことを恨む言葉など、一度も聞いたことがありません。だから……だから、父上。もうご自分を責めないでください。母さんの祈りは、ずっと父上に届いていたはずですから」
アスレイの小さな、けれど迷いのない言葉が、エドワードの心に分厚く積もっていた孤独の氷を溶かしていく。王としての責務に追われ、愛した女性を救えなかった罪悪感に苛まれ続けてきたエドワードにとって、それは唯一の救いだった。
エドワードは跪き、アスレイをその逞しい腕の中に、折れんばかりに抱きしめた。
「……すまない、アスレイ。そして、ありがとう。私は王としてお前をこの城へ呼んだ。だが、今はただ……一人の父として、お前が私の息子であることを誇りに思う」
アスレイは父の首に手を回し、その温もりを確かに感じていた。母が愛した「寂しがり屋の騎士」は、今、ようやくその重い甲冑を解き、一人の父親として少年の前にいた。
「私もだ、アスレイ。お前を守る。今度こそ、何があってもだ」
エドワードの誓いは、英雄たちの肖像画が並ぶ回廊に重厚に響き渡った。
アスレイは、父の胸の中で静かに微笑んだ。自分を信じてくれる姉たちがいて、こうして向き合ってくれる父がいる。この王宮はもう、冷たいだけの檻ではない。
深夜、リュシエンヌの寝室の扉が、音もなく開いた。
寝台で浅い眠りについていたリュシエンヌは、聞き慣れた衣擦れの音に目を覚ます。
「……シレーネお姉様?」
そこには、月の光を背負った次女シレーネが立っていた。彼女は人前で見せる冷徹な微笑を脱ぎ捨て、酷く疲れたような、それでいて柔らかな表情で妹の枕元に腰を下ろした。
外では決して見せない姿。シレーネがリュシエンヌの寝台を訪れるのは、これが初めてではない。だが、ひとたび部屋を出れば、二人は冷淡な姉妹を演じなければならなかった。情の深いリュシエンヌがシレーネの「弱み」として利用され、熾烈な政争の泥沼に引き摺り込まれないよう、シレーネが課した残酷なまでの自衛策だった。そして、リュシエンヌが言葉を発しなくなった理由でもある。
「驚かせて悪かったわね。……少し、話をしましょう」
シレーネはリュシエンヌの隣に滑り込むように横たわると、妹の細い肩を抱き寄せた。リュシエンヌはその懐かしい温もりに、強張っていた心を解いていく。
「……リュシー。貴女、私に隠れて随分と思い切ったことをしたようね」
耳元に届いた囁きに、リュシエンヌの心臓が跳ねた。
「アスレイを、母親に会わせたでしょう。私の『耳』が、隠し通路の音を拾っていたわ」
リュシエンヌは言い訳をしようとしたが、シレーネの細い指がその唇を制した。
「怒りに来たわけじゃないわ。ただ、理由を知りたかったの。貴女はいつも、私の言う通りに『目立たず、動かず』を貫いてきたはずなのに。どうして、あの子のために王宮の禁忌を犯したの?」
リュシエンヌは、暗闇の中で姉の瞳を見つめ返した。
「……アスレイ様が、泣いていたからです。声も出さずに、心で。お姉様、あの方は自分を殺してまで、私たちのために『完璧な弟』であろうとしていました。でも、あの方の心は壊れかけていた……。私は、あの方を本当の笑顔に戻したかっただけなのです」
シレーネは沈黙した。妹が自分以外の誰かのために、これほどの意志を持って行動したことに、言いようのない焦燥と、それ以上の愛おしさが込み上げる。
「……甘いわね。そんな感情で動けば、いつか命を落とすわ」
言葉とは裏腹に、シレーネはリュシエンヌを抱きしめる力を強めた。
「でも、その甘さが……今のこの歪な王宮には、必要な毒消しだったのかもしれないわね。安心なさい。離宮の件は、私がすべて握り潰したわ。誰の耳にも、ましてや母の耳にも届かせない」
「お姉様……」
「勘違いしないで。貴女が傷つくのが、私が一番困るというだけよ。……明日からはまた、他人を演じなさい。アスレイにも、過度な深入りは禁物よ」
シレーネは、リュシエンヌが寝入るまでその背中を優しく叩き続けた。
知略という武器で武装し、心を殺して生きる彼女にとって、この狭い寝台の上だけが、唯一「姉」に戻れる聖域だった。




