15 祝祭の胎動
年に一度の盛大なる祝祭「建国祭」を一ヶ月後に控え、王城はその熱気に包まれ始めていた。窓の外では色とりどりの旗が翻り、国中から集まる商人の馬車が列をなしている。しかし、第一王子としての初舞台を控えたアスレイに、浮き立つ心はなかった。
朝一番、アスレイの元を訪れたのは博識なバルトロメウス男爵だった。彼は広大な書庫の一角で、煤けた古い羊皮紙を広げる。
「王子、建国祭とは単なる祭りではありません。我が国の成り立ち――それは、荒野に散らばっていた部族が、初代王の掲げた『理』の下に集った記憶を新たにする儀式なのです」
男爵の指が、古びた地図をなぞる。
「力でねじ伏せたのではない。初代王は、剣を収めてでも守るべき価値を説いたと言われています。王子、貴方が祭壇で祈りを捧げる時、民が見るのは貴方の顔ではありません。王家が守り抜いてきた、この国の『平和の証』を見るのです」
次に現れたのは、ライリー夫人だった。彼女は机の上に、建国祭で行われる式典の次第が記された分厚い書を置いた。
「先日の茶会は、あくまで内々の予行練習。本番では数万の民と、列強諸国の使節の前でこの『建国の晩餐』を再現していただきます。供されるのは、初代王が部族の長たちと分け合ったとされる『野兎の薫製』と『硬い黒パン』。これには『苦難を分かち合う』という意味がございます。一口ごとに感謝と慈悲を込め、かつ王者の気品を失わぬよう、その所作を叩き込みますわよ」
豪華な食事を優雅に食べるのではない。質素な食事に宿る重みと、その背景にある歴史を、アスレイは己の血肉として覚えなければならなかった。
息つく暇もなく、舞台は練兵場へと移る。そこで待っていたのは、第一近衛騎士団の副団長カインだった。
「殿下、これより式典の行進練習を始めます。私が号令をかければ、騎士たちが一糸乱れぬ動きで抜剣し、殿下の頭上に銀光のアーチを作ります。これは『王への忠誠』。そしてその外周では、歩兵たちが長槍を交差させて壁を作ります。これは王を阻む『試練の壁』であります」
カインの合図で、銀色の鎧を纏った騎士たちが一斉に剣を抜いた。キィィィンと空気を切り裂く金属音。直後、その外側でズシンと大地を鳴らして長槍が突き立てられる。
剣の輝きと槍の威圧感。目前に迫る切っ先の群れに、アスレイの足が微かに震える。
「怯まないでください、殿下! 王が迷えば、国が揺らぎます。前だけを見据え、堂々と歩みなさい!」
カインの叱咤に、アスレイは唇を噛み締め、背筋を伸ばした。恐怖を「王子の型」で押し殺し、一歩ずつ、確実な足取りで武器の回廊を進んでいく。
バルトロメウスの知識、ライリー夫人の教養、そしてカインが求める覇気。
少年は今、多くの者たちの期待と規律に揉まれ、本物の「王子」としての重圧にその身を投じていた。だが、その華やかな準備の裏側で、建国祭を破滅へと変えようとする影が、着実に舞台の裾へと忍び寄っていた。
練兵場の喧騒を離れ、冷涼な風が吹き抜ける城壁のテラス。第一王女エリザベスと第四王女フレアは、沈みゆく夕日を眺めながら静かに言葉を交わしていた。
「……聞いたか、フレア。サンドラ様が、我らの母上の母国と接触を図っている」
エリザベスの低い声に、いつもは快活なフレアの表情が微かに強張る。第三妃サンドラ――次女シレーネと五女リュシエンヌの母であり、知略に長けた彼女が、武闘派である第二妃ミルドレッドの背後を突き始めたのだ。
「最悪だね。アスレイを追い落とすために、外敵と手を組むなんて。母上はどう思ってるの?」
「相変わらず『武具の修繕の方が大事だ』と、興味なさげに笑っていらっしゃる。……だが、あれは母上の立ち回りだ。武にしか興味のない『脳筋の姫』を演じることで、政争の矢面から我らを守っておられるの。他国の血を引く異分子として、この王宮で生き残るための、母上の孤独な戦いね」
二人の瞳には、同じ複雑な色が浮かんでいた。彼女たちは王家の姫でありながら、常に「異国の血」という色眼鏡で見られてきた。少しでも隙を見せれば「反逆の火種」として糾弾される。その綱渡りのような日々が、彼女たちを強く、そして冷徹にさせた。
「アタシたちも、随分と苦労してきたもんね。王妃派やサンドラ様の派閥に、何度『異国の蛮族』って陰口を叩かれたことか。……だからこそ、アスレイだけはあんな思いをさせたくない」
フレアが拳を握りしめる。アスレイは没落した家門の血を引いている。彼女たちと同じ、あるいはそれ以上に「居場所のない」存在なのだ。
「ああ。あの子が今日、兵士の槍の間を歩く姿を見たか? 恐怖で震えながらも、一歩も引かなかった。あの子は、自分を殺してでもこの国の『光』になろうとしている」
エリザベスは遠くの地平線を見つめ、剣の柄を強く握った。
「サンドラ様が何を企もうと、母国がどう動こうと関係ない。アスレイが『王子』として立とうとするなら、我らはその足元を支える最強の盾にならねば。異国の血を引く、我らにしかできない守り方があるはず」
「……分かってるよ。アタシが影で不穏な動きを潰す。姉様は表で軍部を抑えて。アスレイにだけは、この国の泥臭い部分は見せたくないからね」
夕闇が迫る中、二人の姫は密かに誓いを立てた。
建国祭を控え、深夜の騎士寮の庭は静まり返っていた。松明の火がパチパチと爆ぜる音だけが、重苦しい静寂を辛うじて繋ぎ止めている。
カインは、一人、研ぎ石で剣を磨いていた。
シュッ、シュッ、と規則正しく響く金属音。その音に導かれるように、カインの意識は十数年前の、あの忌まわしき「冬の朝」へと引き戻されていく。
当時、若き騎士だったカインが忠誠を誓っていたのは、エレーヌの実家である伯爵家だった。北方の雄として知られたその名家が崩壊するのは、あまりにも唐突で、そしてあまりにも残酷だった。
(……あの時、すべてが変わってしまった)
発端は、当主である伯爵と、その後継ぎであった嫡男――エレーヌの兄が、相次いで不審な死を遂げたことだった。流行り病とされたが、葬儀の涙も乾かぬうちに、王宮からは「反逆」と「公金横領」の罪状を突きつけられた。
次々と見つかる偽造された証拠、口を割るように買収された家臣たち。あれほど民に慕われていた伯爵家が、一夜にして「王国の毒」としてお取り潰しになったのだ。
カインは確信していた。あれは、政敵によって仕組まれた、精緻なまでの「嘘」であったと。
実家が燃える中、王妃付の女官として城で働いていたエレーヌだけが、その勤勉さと王妃からの信頼ゆえに「無関係」とされ、辛うじて命を繋いだ。だが、それは救いではなく、家族をすべて失い、裏切り者の娘という汚名を背負いながら、仇とも呼べる王宮で仕え続けるという、終わりのない罰のようでもあった。
(エレーヌ様は、決して屈しなかった。あの絶望の中でさえ、凛として前を向いていらした。……そして、あの御方と出会われた)
だが。
「……誰だ」
不意に背後の闇が、粘りつくような冷気と共に揺らいだ。カインが磨いていた剣を鞘に収める間もなく、暗がりから一人の男と、その影に隠れるようにして立つ少年が姿を現した。
「お久しぶりですな、カイン」
現れた男の顔を見た瞬間、カインの指先が凍りついた。記憶の底、泥にまみれて埋もれていたはずの顔。
「……貴様、バートか。伯爵家の執事の息子だった、あのバートか」
「いかにも。あの没落の日、炎の中から主家の真実を抱えて逃げ延びた……死に損ないですよ」
男――バートの隣に立つ少年が、ゆっくりとフードを外した。
カインは思わず息を呑む。月光を浴びたその髪は、アスレイと同じ、眩いばかりの黄金色。だが、その瞳に宿る色は決定的に違っていた。アスレイが抱く「慈愛」とは対極にある、鋭利な刃物のような憎悪。
「この子はルカ。……没落の渦中、エレーヌ様が密かに産み落とし、我ら一族の生き残りに託した『真実の王子』です」
「戯言を! エレーヌ様の子は、現に城におられるアスレイ様ただお一人だ!」
カインの怒号が響く。だが、バートは自嘲気味に笑い、懐から一つの品を取り出した。
それは、煤けてはいるが気高き輝きを放つ、古い印章。伯爵家が代々受け継ぎ、エレーヌに託されたはずの、失われた「秘印」だった。
「これを見ても、そう言えますかな? エレーヌ様が肌身離さず持っていたのはこの印章と、この子の命だった。城にいる『アスレイ』とやらは、都合の良いお飾りだ」
カインの視線が、印章に吸い寄せられる。偽物であってくれという願いに反し、その重厚な輝きは、かつて自分が守っていた伯爵家の威信そのものだった。
「なぁ、あんたは忠義の騎士だろう? どっちが本物か、その目で確かめろ。偽物の王子が、母に守られ姉たちに甘やかされている間……俺がどれだけの地獄を歩いてきたか」
「馬鹿なことを……」
カインは低く吐き捨て、研いだばかりの剣を少年に突きつけた。切っ先が震えないのは、彼が歴戦の騎士であるからに他ならない。
「エレーヌ様が消えた後、その居場所を突き止め、この手でアスレイ様を迎えに行ったのは私だ。エレーヌ様は確かにあの子と暮らしていた。あの子の瞳、あの面影……あれがエレーヌ様の血を引くお方でないはずがない」
カインの脳裏には、あの時の記憶が鮮明に蘇っていた。やつれ果てながらも気品を失わず、我が子を抱きしめていたエレーヌの姿。
「追い払われたければ勝手に吼えていろ。貴様らの妄執に付き合うほど、私は暇ではない」
突き放すカインに対し、バートは動じるどころか、憐れむような乾いた笑い声を上げた。
「……相変わらず、実直すぎて救われませんな、カイン。その『忠義』こそが、エレーヌ様の計算通りだったというのに」
「何だと?」
「考えてもみなさい。実家を潰され、王宮から追われた身で、たった一人の幼子を守り抜くことがどれほど困難か。本当の『本物』を連れて歩けば、刺客の目は逃れられない。……だからこそ、彼女は策を講じたのですよ」
バートは一歩、剣の切っ先が喉元に触れるほど近くへ歩み寄った。
「貴方が迎えに行ったあの少年は、エレーヌ様が密かに用意した『替え玉』だ。貴方のような真っ直ぐで嘘のつけない男が守ってこそ、周囲は疑いもなくあの子を王子だと信じ込む。貴方はエレーヌ様に、最高のおとりとして利用されたのですよ……本物の王子であるこのルカ様を守るための、盾としてね」
カインの指先が、今度こそ微かに震えた。
「……嘘だ。エレーヌ様が、そんな残酷なことをされるはずがない」
「残酷? いいえ、これは慈悲ですよ。偽物の少年には王宮での豊かな暮らしと名誉を与え、本物の王子には泥を這ってでも生き延びる強さを与えた。すべては、いつか奪われたすべてを奪還する日のための……母親としての執念だ」
背後に立つ少年、ルカが口角を歪めた。
「カイン、あんたが愛したエレーヌ様の『真実』は、ここにある。……さあ、選ぶがいい。王宮で着せ替え人形を演じている偽物か、地獄から戻った正当な主か」
バートの言葉は、カインが何年もかけて築き上げてきた忠義という名の城壁を、根底から崩壊させていく
自分が信じていたエレーヌの微笑みは、偽りだったのか。自分が守ってきた少年の成長は、誰かを欺くための舞台装置に過ぎなかったのか。
カインは応える言葉を失い、ただ夜の闇の中に、自分自身の存在意義が溶け出していくような錯覚に陥っていた。




