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16 建国祭

 建国祭当日。王都は、抜けるような青空と民衆の熱狂に包まれていた。

 色とりどりの旗がはためき、花びらが舞う中、第一王子としてのパレードに臨むアスレイは、馬車の上で懸命に民衆へ手を振っていた。

 馬車のすぐ傍らで馬を進めるカインは、いつものように背筋を伸ばし、一分の隙もない騎士の姿でアスレイを護衛している。

 表面的には、何も変わらない。カインは時折、アスレイの方へ視線を向け、民衆に気づかれない程度の小さな頷きで「その調子です」と無言の鼓舞を送ってくれる。

 だが、アスレイは気づいていた。

 カインが時折見せる、自分を通り越して「何か遠いもの」を見つめるような、微かな眼差しの揺らぎを。

 パレードの終着点、王宮前広場。

 国王エドワードと数多の貴族が見守る中、ついに「王の試練」の再現が始まった。

「全軍、抜剣!」

 カインの鋭い号令が響き渡る。

 次の瞬間、アスレイを取り囲んでいた近衛騎士たちが一斉に剣を抜き、長槍を交差させた。アスレイの目の前には、文字通り「鉄の壁」が立ちはだかる。

 騎士たちは、アスレイが近づくたびに一糸乱れぬ動作で剣を跳ね上げ、道を開いていく。

 儀式は完璧だった。観衆からはため息のような感嘆が漏れる。

(……あ、今だ)

 練習通りなら、最後の一歩を終えた瞬間に、カインが自分の隣へ並び立ち、周囲には聞こえない小さな声で「実に見事でしたぞ、王子。私が教えた以上です」と、誇らしげに囁いてくれるはずのタイミング。

 だが。

 最後の一歩を踏み出したアスレイの隣で、カインは確かにそこに立っていたが、沈黙していた。

 カインは、儀式の所作を完璧にこなしていた。アスレイをエスコートする手つきも、国王への礼も、非の打ち所がない。

 しかし、いつもならアスレイの健闘を称えて緩むはずの目元が、今はどこか硬い。

 カインは、膝をついて王への敬礼を捧げながら、心ここにあらずといった様子で、自分たちの背後に広がる群衆のどこかに何かを探していた。

「大丈夫?」

 アスレイが、隣の彼にしか聞こえないほどの小声で呼びかける。

 カインはハッとしたように微かに肩を揺らし、すぐにいつもの騎士の表情を作った。

「……お見事でした、殿下。……失礼、少しばかり、この後の祝宴の警備に気を取られておりました」

 その答えはもっともらしい言い訳だった。

 周囲の人間が見れば、「真面目な騎士が職務に邁進している」ようにしか見えないだろう。

 だが、アスレイは知っている。

 カインは、自分が一番褒めてほしい瞬間に、他のことを考えるような人ではない。

「……はい。ありがとうございます」

 アスレイは無理に笑顔を作った。


 パレードの興奮が最高潮に達した頃、王宮の巨大なテラスへと場を移し、建国祭のハイライトである「建国の晩餐」の儀式が執り行われた。

 この儀式は、王族だけが贅を尽くすものではない。王宮前広場を埋め尽くす数万の民、そしてテラスを見上げる貴賓席の列強諸国の使節たち、その全員の前に、今、全く同じメニューが供されていた。

 王家と民が、同じ皿を囲む。それこそが、この国の絆の証明だった。

 国王エドワードがテラスの端に立ち、広場を見下ろして低く、重厚な声を響かせる。

「我が民、そして友邦の使節たちよ。今、諸君の前に並ぶのは、我が国の祖が部族の長たちと分け合ったとされる『野兎の薫製』と『硬い黒パン』である。これには『苦難を分かち合う』という意味がある」

 王の言葉を合図に、数万の人々が一斉に食事を始めた。

 テラスに座るアスレイも、ライリー夫人に厳しく仕込まれた作法に従い、静かにナイフを動かす。

(一口ごとに感謝と慈悲を込め、かつ王者の気品を失わぬよう……)

 薫製は野趣に富んだ強い香りがし、黒パンは驚くほど硬い。だが、噛みしめるほどに素朴な滋味があふれ出す。アスレイは、民衆の視線を感じながら、一欠片ずつ優雅に、かつ慈しむように口へと運んだ。

 練習の際、カインは言っていた。

「このパンの硬さこそが、国を建てる苦しみです。それを共に噛みしめる王を、民は生涯忘れませんぞ」

 そう言って、誇らしげに目を細めてくれたカインの姿が、今も鮮明に焼き付いている。

 カインはこれまでと変わらず自分を守り、導いてくれている。けれど今は、その「変わらなさ」の中に、触れようとすると指がすり抜けてしまうような、決定的な空虚が紛れ込んでいることを、アスレイは感じ取っていた。


 王宮テラスに並ぶ王族たちの姿は、広場の民衆にとって「完璧な王家」の象徴そのものだった。

 長女エリザベスは、騎士らしい無駄のない所作で黒パンを噛み砕いていた。彼女の鋭い視線は、背後に控える近衛騎士たちの隊列に向けられている。

 次女シレーネは、扇を傍らに置き、優雅に薫製を切り分けていた。彼女の瞳はアスレイの背中を冷徹に捉えている。今日のパレードから続くアスレイの微かな動揺。それを彼女は、建国祭という大舞台への緊張だと受け止めていた。

 三女グウェンドリンは、最も完璧な所作で黒パンを口に運んでいた。彼女にとって、この儀式は王家の血統の正当性を示す神聖な場である。彼女の目に、アスレイの振る舞いは合格点に見えていた。これならば民も王子として認めるであろうと。

 四女フレアは、異国の血を引く自らの立場を象徴するかのような、物憂げな表情で儀式に臨んでいた。普段のお転婆ぶりとは違う、周囲の熱狂から一歩引いた目でしとやかに晩餐を続ける。


 最上座に座る国王エドワードは、広場を埋め尽くす民衆の地鳴りのような歓声を聞きながら、傍らの息子を盗み見た。

 アスレイは、教えた通りの完璧な所作で黒パンを食している。八歳という幼さを忘れさせるその気品は、これまでの努力の結晶であった。

(……エレーヌ)

 エドワードの胸を去来するのは、誇らしさと、鋭い棘のような罪悪感だった。

 愛した女との息子を、自分が最も憎んだ「政治という名の戦場」に引き摺り出してしまった。民衆に愛されれば愛されるほど、この子は王位継承という血生臭い渦の中心へと沈んでいく。

 この完璧な光景を、本来ならば隣で共に見届けるべき母親は、今は冷たい石壁の向こうにいる。


 一方、華やかな儀式の熱狂を、凍りつくような憎悪で見つめる眼差しがあった。

 彼女の視線の先には、民衆の希望を一身に背負い、輝くばかりの黄金の髪をなびかせるアスレイの姿があった。

(……忌々しい。あの「不浄」が、あんなにも堂々と王の座に座っているとは)

 彼女にとって、アスレイは単なる邪魔者ではない。自分の血筋、自分の計画、そして自分たちが積み上げてきた「王宮の秩序」を根底から覆す異物だった。

 彼女は、背後に控える腹心の侍従に、微かな視線で合図を送った。

 その脳裏には、同じく黄金の髪を持ちながらも、光を知らずに育てられた「もう一人の少年」の姿が浮かんでいた。

「……お前の出番は、そう遠くないわ」

 扇に隠された唇が、音もなく歪む。

 偽物が本物を食らうのか、あるいは本物が偽物の影に飲み込まれるのか。

 熱狂に沸く建国祭の裏側で、王宮の闇はより深く、よりどろりとした粘り気を持って、幼き第一王子の足元へと忍び寄っていた。


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