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7 完璧な三女の綻び

 王宮の朝は、町の朝よりもずっと早く、そしてずっと冷たく始まる。

 天蓋付きのベッドのカーテンが開かれるたびに、僕は一瞬、ここがどこかわからなくなる。窓の外に見えるのは、母様と薬草や染色用の草を取りにいった森ではなく、幾重にも重なる灰色の尖塔と、鋭い鉄格子の門。

 ここは城なのだと、ライリー夫人が持ってくる銀の食器が触れ合う音で、僕は現実に引き戻される。

「アスレイ様、今日は少し顔色が優れませんね。食後のお茶はカモミールにしましょう」

 ライリー夫人はこうして体調を気遣ってくれるし、僕の腕にシレーネ姉様がつけた指の跡を見つけると、何も言わずに、一番上質な薬草の香りがする湿布を用意してくれた。

 でも、母上のことを聞くと、仮面を被った顔になり何も教えてはくれない。

 父王とは初日に会ってから一度も会っていない。

 王宮の人はみんな、本当の言葉を言わない。心に鎧を着て、仮面を被ったような顔をして、お互いの出方を探り合っていて。母上が教えてくれた「心の花」を咲かせている人は、ここには一人もいないように見えた。

 言葉は冷たいエリザベス姉様、そして激しい言葉を投げつけるシレーネ姉様。

 でも、少しずつわかってきたことがある。

 姉様たちの瞳の奥には、僕と同じ、あるいは僕以上の「寂しさ」が隠れているということ。

 エリザベス姉様は、燃えるような赤毛とは裏腹に、いつも氷のように静かだ。

「剣だけは裏切らない」と仰るその手には、たくさんのタコがあった。それは、誰にも頼らずに生きていくと決めた、痛々しい決意の印に見える。彼女が僕に巻いてくれたハンカチからは、冷たい鋼の匂いがしました。それは、彼女が自分を守るために作り上げた、一番固い守りの匂いだ。

 シレーネ姉様は、いつも怒っているように見える。

 でも、彼女の叫び声は、まるで迷子になった子が「私を見つけて」と言っているように聞こえるのだ。エリザベス姉様に無視された悲しみを、彼女は傲慢さで一生懸命に隠しているだけなのではないか。

 姉様たちはみんな、この美しく冷たいお城の中で、それぞれの孤独と戦っている戦士なのだと、僕は思うようになった。

 カインが、こっそりと時々渡してくれる母上からの手紙。

 夜、一人になった時にそれを読むと、母上の温かな手のひらの感触を思い出して、胸がギュッとなる。

「アスレイ、誰も恨んではいけませんよ」

 母上、僕は約束を守っています。

 僕を嫌っている人たちのことも、怖がっている人たちのことも、僕は恨んでいません。

 だって、恨んでしまったら、僕の心の中から母上が消えてしまうような気がするから。

 でもね、母上。

 時々、どうしても怖くなるの。

 僕がここで「立派な王子様」になればなるほど、母上から遠ざかっていくような気がして。

 僕が着ているこの豪華な絹の服は、母上が夜なべして縫ってくれた綿のシャツよりも、ずっと重くて息苦しい。

 母上は今、お城のどこにいるのでしょうか。

 ちゃんと、温かいご飯を食べているかな?

 僕がいなくて、寂しい思いをしていないかな?

 深夜、僕は天蓋付きのベッドを抜け出した。

(……お母様、どこにいるの? 近くにいるって、カインは言っていたけれど……)

 裸足のまま、僕は重い寝室の扉をわずかに開き、回廊へと滑り出しました。

 豪華な絨毯は冷たく、夜の王宮は昼間とは違う生き物のように静まり返っている。壁に飾られた肖像画が、まるで自分を監視しているようで、アスレイは小さな肩をすくめながら進んだ。

 大きな柱の影に隠れながら、母がいそうな「静かな場所」を探して歩き回るうち、小さな礼拝室から、微かな音が漏れているのに気づいた。

 それは、押し殺したような、けれどひどく切実な啜り泣きだった。


 鏡の中に映る私は、今日も一点の曇りもなく輝いている。

 正妃クレアの娘。王家と公爵家の血を引く、この国で最も高貴な花。

 母様は私の髪に真珠を編み込みながら、うっとりとした、けれどどこか恐ろしいほどに透き通った声で仰る。

「グウェンドリン、あなたは私の最高傑作よ。この国のすべての女性が、あなたという規範を見上げて生きていくの。いいわね、欠けも、淀みも、一切許されないのだよ」

 その言葉は、温かな抱擁などではなく、私を閉じ込める冷たい額縁だった。

 私は幼い頃から、泣き声を上げた記憶がない。王女の涙は、宝石のように価値がなければならず、ただの感情で流すものは「不浄」だと教えられたから。

 私は「三女」として生まれた。

 けれど、第一妃である母様の娘である私は、側妃の娘であるエリザベス姉様やシレーネ姉様とは一線を画す存在でなければならなかった。彼女たちが何を積み上げようと、私は「生まれながらの正当性」だけで彼女たちを凌駕しなければならない。

 それが、母様の選んだ私の生きる道だった。

 あのアスレイという少年が城に来た日、私は初めて自分の足元が揺らぐのを感じた。

「男子」という、私には逆立ちしても手に入らない属性。

 彼が現れた瞬間、城中の視線が私という「最高傑作」から、あの黄金の髪をした得体の知れない子供へと移った。

 だから、私は彼を「野良猫」と呼んだ。

 そうでなければ、私の積み上げてきた十二年間が、ただの無駄な装飾になってしまいそうだったから。

けれど、完璧であろうとすればするほど、私の指先は震えるようになった。

 夜、母様から課された高度な刺繍の課題に向き合っていると、一刺しごとに胸が締め付けられる。もし、一針でも間違えたら。もし、私の価値が、この絹布の一枚にも満たないものだと悟られたら。

 私は、礼拝堂に逃げ込んだ。

 誰もいない場所で、自分の中に溜まった黒い淀みを吐き出したかった。

 王妃の娘としてではなく、ただの、心細い十二歳の子供として。


 アスレイはおそるおそる、重い扉を数センチだけ開けた。

 祭壇に灯されたわずかな蝋燭の火。その光の中にいたのは、王妃の娘、三女グウェンドリンでした。

 彼女は冷たい床に膝をつき、完璧に整えられていたはずのドレスを握りしめ、嗚咽を漏らしていました。その横には、母である王妃から「常に美しく持ちなさい」と与えられた、高価な刺繍入りのハンカチが、涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れた状態で転がっています。

「……ううっ……っ、もう、嫌……。やりたくない……」

 それは、昼間に彼女がアスレイを「野良猫」と呼んで突き放す時の冷酷な声とは正反対の、あまりに幼く、無防備な叫びでした。

「グウェンドリン姉様……?」

 アスレイが思わず声をかけると、彼女は雷に打たれたように跳ね起きました。

「……っ! 誰!? ……アスレイ!? なぜ、あなたがここにいるの!」

 彼女は慌てて顔を背け、袖で乱暴に涙を拭いました。

「見ないで! 出て行きなさい! 私の、こんな……王女失格の姿を、誰かに見せるわけにはいかないの!」

 彼女の母、正妃クレアは「王女は神の如く完璧であれ」と彼女を育ててきました。失敗は許されず、涙を見せることは「弱さ」ではなく「罪」だと教えられてきたのだ。

 アスレイは、叱られるのも、追い出されるのも覚悟で、彼女の側に歩み寄りました。

「すみません……。でも、僕もお母様がいなくて寂しくて、お城の中を探していたんだ。グウェンドリン姉様も、お母様を探していたんだか?」

「……違うわ。私は、母様に……完璧だと言ってもらうために、ここに……。でも、もう疲れてしまったの。一針も間違えられない刺繍も、一言も間違えられない挨拶も……。私は母様の自慢でなきゃいけないのに……」

 グウェンドリンは再び膝から崩れ落ちました。12歳の少女が背負うには、正妃の娘という看板はあまりに重すぎたのだ。

 「……そんなこと、ないだ。……ぼくも、おなじだもん」

 アスレイの声は、今にも消えてしまいそうなほど小さく揺れていました。

「ぼくだって、毎日お母さまを思い出して、ひとりでしくしく泣いちゃうんだ。……グウェンドリン姉様も、おんなじだったんだね」

「……アスレイ?」

「お母さまが、言ってたんだ。……なみだを、がまんしちゃだめだよって。がまんすると、心が石みたいにかたくなっちゃうから。だから……泣いてもいいんだよ?」

 アスレイは、自分の寝着の袖で、姉の頬に光る涙を不器用に、けれど一生懸命に拭いました。

「……僕ね、だれにも言わないから。……ないしょだよ? ぼくも、泣き虫なのはライリー夫人やバルトロメウス様には内緒にしてるんだ。だから、おあいこだよ」

 アスレイが、涙を溜めた瞳でえへへ、と少しだけ困ったように笑うと、グウェンドリンは呆然とした顔で少年を見つめました。

「……アスレイ。あなた、本当におかしな子ね」

 グウェンドリンは少しだけ鼻を啜り、アスレイの手をぎゅっと握り返しました。その手は、先ほどまでの冷たさが嘘のように、少年の体温で少しずつ温まり始めていました。

 アスレイに手を握られ、泣き顔を見られたグウェンドリンは、しばらく呆然としていました。けれど、自分と同じように鼻を赤くして「ないしょだよ」と笑うアスレイを見ているうちに、彼女の心の中にあった刺々しい壁が、不思議と解けていくのを感じました。

 グウェンドリンは、自分のプラチナブロンドに近い、白金色の髪を指先でいじりながら、ぽつりとこぼしました。

「……あのね。私、ずっと嫌だったの」

「え?」

「エリザベス姉様とフレアは綺麗な赤毛でしょう? シレーネ姉様とリンは黒髪で……。私だけ、姉妹の中でブロンドなんだもの」

 彼女にとって、その髪色は「王の娘」としての誇りであると同時に、姉妹たちとの違いを突きつけられる孤独の象徴でもあった。

 グウェンドリンは、アスレイのふわふわとした黄金色の髪をじっと見つめました。自分とよく似た、夜の礼拝室でも優しく光るようなその色を。

「でも、あなたも私と同じ色ね。……ふふ、お揃いじゃない」

 彼女は少しだけ照れくさそうに鼻を啜ると、いつもの「お姫様」らしい澄ました顔を無理やり作って、アスレイを指差しました。

「いいわ、アスレイ。決めた。特別に、あなたが私の『本当の弟』になることを許してあげる!」

「えっ、本当の弟……?」

「そうよ。他の姉様たちには内緒。私だけが、あなたの本当のお姉様になってあげるんだから。……その代わり、私の前で泣くのも許可してあげるわ。……ただし、私の言うことは絶対よ!」

「……うん! ありがとうございます、グウェンドリン姉様!」

 アスレイが嬉しそうに顔を輝かせると、グウェンドリンは少しだけ顔を赤くして視線を逸らしました。

「さ、もう寝るわよ。見つかったら大変なんだから」

 二人は手を繋いだまま、暗い回廊をこっそりと歩き、それぞれの部屋の近くまで戻りました。

「おやすみなさい、お姉様」

 アスレイが小声で囁くと、グウェンドリンは小さく手を振り返し、自分の部屋へと消えていきました。

 冷たい石造りの王宮の中で、アスレイは自分の寝床に戻り、シーツにくるまりました。

 今日はお母様の手紙だけじゃなく、姉様の温もりも一緒だ。

(お母様。僕、お姉様ができたよ。髪の毛がお揃いの、とっても優しいお姉様だよ)

 アスレイは、まだ指先に残る姉の手の温かさを抱きしめるようにして、その夜、初めて安らかな眠りについた。

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