6 氷の長女と鏡の次女
王宮に来てから数日。
午前中はバルトロメウス男爵の講義、ライリー夫人の昼食兼作法、午後のカインの剣術と母からの手紙。
アスレイがエレーヌを母さんから母上と呼ぶようになり、規則正しいスケジュールにようやく慣れ始めた頃。
王宮の西翼へと続く長い回廊。アスレイはバルトロメウス男爵から出された「王宮の装飾写生」の課題をこなすため、重い画板を抱えて歩いていたが、角を曲がった先で不自然な人だかりに遭遇した。次女シレーネと背後に控える数人の侍女たちだ。
彼女たちはアスレイの姿を認めると、まるで打ち合わせたかのように、色鮮やかな刺繍が施された扇を一斉に広げた。
「あら、ごめんなさい。あまりに小さくて、石像の影かと思ってしまいましたわ」
一人が扇の端から冷ややかな瞳を覗かせ、わざとらしく道を塞ぐように立つ。それを合図に、他の侍女たちも左右からじりじりと距離を詰め、アスレイを包囲するように扇の壁を作った。
パサリ、パサリと扇が閉じては開く。その影で、口元を隠した彼女たちの密やかな囁きが、毒を含んだ霧のようにアスレイの耳に流れ込んできた。
「見て、あのみすぼらしい姿。母親の血は争えませんわね」
「王子の衣を纏っても、染み付いた野良猫の匂いは消えなくてよ」
「シレーネ様を不快にさせるなんて、身の程を知るべきですわ」
逃げ場を塞がれたアスレイは、画板を胸に強く抱きしめた。扇の影で笑う彼女たちの歪んだ口元と、向けられる無機質な悪意は、8歳の少年にはあまりに鋭い刃だった。
「あら、ご苦労さま。今度は絵描きさんごっこかしら?」
そう言ったのは、次女シレーネだった。彼女は真っ直ぐな黒髪と冷たい水色の瞳を持ち、一見すると氷の彫像のようだが、その瞳の奥には常に苛烈な情念が渦巻いている。
「シレーネ姉様、ごきげんよう」
アスレイが丁寧な一礼を捧げたその時、背後から無機質な靴音が響いた。
「……どきなさい、シレーネ。そこは通行の邪魔よ」
第一王女エリザベスだった。燃えるような鮮やかな赤毛をポニーテールにまとめ、訓練用の革装束に身を包んだ彼女は、その情熱的な髪色とは裏腹に、驚くほど冷静沈着な空気を纏っている。
「まあ、不快だわ。剣を振り回してばかりだと、言葉まで野蛮になるのね。王位継承順位を下げられてから、すっかり『抜け殻』になった姉上様」
シレーネの言葉は、鋭い刃のようにエリザベスの急所を狙ったものだった。しかし、エリザベスは表情一つ変えず、反論さえもしない。ただ、何も映さない凪いだ瞳で、淡々と妹を見据えている。その徹底した沈黙が、逆にシレーネの自尊心を逆撫でした。
「何かおっしゃったらどうなの! いつだってそう……あなたは死人のような顔をして、私を無視し続けて!」
シレーネの声が鋭く尖る。感情を爆発させるシレーネに対し、エリザベスはただ静かに立ち尽くしている。その「静」と「動」の対比が、回廊の空気を重く歪ませていった。
「……行きましょう、アスレイ」
エリザベスはシレーネの罵声を、まるで雨音か何かのように聞き流し、アスレイの肩を促して歩き出した。
その瞬間、シレーネがアスレイの腕を強く掴んだ。
「待ちなさいよ! この子が来たせいで、私の、私の……!」
シレーネの指がアスレイの細い腕に食い込む。激しい苛立ちに震える彼女の手は、驚くほど熱かった。
エリザベスは足を止め、無言でシレーネの手首を握った。力を込めるわけではなく、ただ物理的に引き剥がす。その動作には一切の怒りも憎しみもこもっておらず、作業のように淡々としていた。
「アスレイ、行きなさい」
エリザベスの低い声に、シレーネは「……っ、気味が悪いのよ、二人とも!」と吐き捨て、取り巻きを連れて逃げるように去っていった。
回廊に残されたのは、アスレイとエリザベスの二人だけだった。
エリザベスは、アスレイの袖を捲り、シレーネの爪が食い込み血が滲んだ腕を無表情に見つめた。
「……あの子に構うのは時間の無駄よ」
彼女は懐から清潔なリネンのハンカチを取り出すと、少年の腕に無造作に巻いた。
「エリザベス姉様、ありがとうございます。あの、シレーネ姉様は……」
「あの子は、自分を大きく見せなければ、誰にも見てもらえないと怯えているだけ。……哀れなことね」
その言葉には、蔑みさえなかった。ただ事実を述べるような、空虚な響き。エリザベスは自らの愛剣の柄を、無意識に、けれど愛しむように撫でた。
「この城で私を裏切らないのは、この剣だけ。血筋も、親の愛も、地位も……ある日突然、手のひらを返して消えてしまう不確かなもの。あなたは、まだそれを知らないだけよ」
「……裏切らないもの。母上も、同じようなことを言っていました。心の中に咲かせた優しさの花は自分を裏切らないって」
アスレイの言葉に、エリザベスはわずかに眉を動かした。
「そう。なら、その教えを大切になさい。……さっさと課題を終わらせて、部屋に帰りなさい」
エリザベスは突き放すように言い残し、燃えるような赤毛を揺らして去っていった。
しかし、アスレイは気づいていた。
彼女が巻いてくれたハンカチから、微かに香る冷たい鋼の匂い。
それは、彼女が「無関心」という名の鎧をまとい、どれほどの孤独の中で自分を研ぎ続けてきたかを物語っているようだった。
「エリザベス姉様……」
アスレイは、自分の腕に巻かれたリネンの感触を確かめながら、その背中が消えるまで見送った。
氷のような外見の下に炎を隠したシレーネと、炎のような外見の下に氷を宿したエリザベス。二人の姉の間に横たわる深い孤独を、アスレイは幼い胸に深く刻み込んでいた。
豪華な鏡台の前で、シレーネは自らの姿を凝視していた。
真っ直ぐな黒髪は一筋の乱れもなく整えられ、肌は陶器のように白い。母である第三妃サンドラから、幼い頃より毎日欠かさず言い聞かされてきた言葉が、呪文のように頭の中で反芻される。
(「シレーネ、あなたは『王の器』として生まれました。隣国の血が混じったエリザベスではない。あなたが王家を繋ぐのです」)
母サンドラは侯爵家の出身であり、正妃クレアの従妹にあたる。彼女がこの王宮に輿入れしたのは、政治的な「調整」のためだった。
隣国の王女である第二妃ミルドレッドにエリザベスが生まれた際、純粋な王国の血を引く王の誕生を望んだ貴族たちが、サンドラを王の元へと送り込んだのだ。「男子を産め」という、ただ一つの期待を背負わせて。
しかし、産まれたのはシレーネだった。
母の瞳に宿った一瞬の、けれど消えない失望。「男ではなかったか」という父王の呟き。
シレーネは赤子の頃から、その期待に応えられなかった負債を抱えて生きてきた。だからこそ、誰よりも気高く、誰よりも「王位にふさわしい」と言われるために、自らの心に茨を巻き、冷徹な振る舞いを身につけてきたのだ。
あの日――七年前の記憶は、今もシレーネの胸を鋭利な破片で突き刺す。
正妃クレアに三女グウェンドリンが誕生した。
王位継承の優先順位は、無慈悲にも書き換えられた。シレーネの順位は、同じ「女子」である正妃の娘の下へと転落した。
自分を王の器と称えていた貴族たちは、潮が引くように去っていった。
(……惨めだったわ。あの日、私以上に傷ついていたのは、きっと彼女だったのに)
当時、同じく順位を下げられた長女エリザベスに対し、シレーネは奇妙な連帯感を抱いていた。共に王位から遠ざけられた敗者として、傷を舐め合えるのではないか。そう期待して、シレーネはおずおずと姉の元を訪ねたのだ。
「エリザベス姉様、私たち……」
言いかけた言葉は、エリザベスの氷のような眼差しに遮られた。
エリザベスは、慰めを求める妹の手を一度も見ることなく、ただ淡々と剣を振るい続けた。彼女の無関心は、シレーネの差し出した拙い好意を、汚物のように切り捨てたのだ。
(あの日からよ。私が、姉上のその冷静さが……吐き気がするほど嫌いになったのは)
拒絶された痛みは、いつしか苛烈な攻撃性へと姿を変えた。
エリザベスが何事にも無関心を装うなら、自分はすべてに牙を剥いてやる。彼女が静寂を選ぶなら、自分は悲鳴を上げてでも存在を証明してやる。
そして今。
シレーネは、窓の外を歩く小さな金色の頭を見下ろした。
アスレイ。
自分たちがどれほど血を流し、プライドを削り合って守ってきた継承権を、たった一人の「男子」という理由だけで、いとも容易く奪い取った少年。
「……あんな子供。ただの欠陥品じゃない」
震える手で窓枠を掴む。
彼女が必死にエリザベスに食ってかかり、周囲に当たり散らすのは、そうしなければ自分の存在価値が霧散してしまうからだ。
「男子ではない」という呪いを解くために積み上げた努力が、アスレイの存在そのものによって否定されることが、耐えられなかった。
「認めない。絶対に認めないわ……」
彼女の頬を一筋の涙が伝ったが、彼女はそれを「怒りの汗」だと思い込ませるように、荒々しく拭った。
黄金の檻の中で、一番激しく燃え、一番激しく凍えているのは、自分だ。
シレーネは再び「傲慢な王女」の仮面を被り、鏡の中の自分を冷たく見据えた。




