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5 王宮での生活

 王宮での生活が本格的に始動した。

 アスレイに課されたスケジュールは、8歳の子供には過酷なものだった。

 午前中。アスレイの前に現れたのは、儀典官バルトロメウス男爵だった。彼は「鉄の定規」の異名を持つ通り、一切の妥協を許さない厳格な男だが、同時に「学び」に対しては誠実な信念を持っていた。

「さて、アスレイ様。今日はお力試しを。あなたが今、何をどこまで知っているのか、正確に把握する必要があります。これは、あなたに最適な学習計画を立てるためのものです」

 バルトロメウスは、アスレイの前に数冊の本と白紙を置いた。

「読み書き、算術、歴史。わかる範囲で構いません。書きなさい」

 アスレイは緊張で指先を震わせながらも、必死にペンを動かした。

 母に教わったのは、納品書に書く数字や、季節の挨拶程度の文字。体系的な学問など、村では知る由もなかった。

 一時間後、解答用紙を回収したバルトロメウスは、眼鏡を押し上げてじっくりとそれを見つめた。

 文字は拙く、歴史の年号もほとんど埋まっていない。だが、算術の計算は正確で、文字も一字一字が非常に丁寧に綴られていた。

「……なるほど。知識の量は、まだ空の器のような状態ですな。ですが、この文字の丁寧さには感服いたしました。教えられたことを大切に守る、その姿勢こそが学びの土台です」

 バルトロメウスは、初めて少しだけ表情を和らげた。

「アスレイ様。あなたは今日から、この国の『光』を背負う方です。歴史も、言葉も、民を守るための武器となります。明日から、読み書きを重点的に始めていきましょう。焦ることはありません。あなたのペースに合わせて、私が計画を組みます」

「……はい、男爵。ありがとうございます!」

 真っ直ぐに自分を見据える空色の瞳に、バルトロメウスは「この少年は化けるかもしれない」と、教育者としての密かな昂ぶりを感じていた。

 正午、バルトロメウスが去ると、次はライリー夫人の領域だ。

 彼女はアスレイの食事の作法から、歩き方に至るまでを、一言も発さずに監督する。

「……」

 ライリー夫人が指先でわずかにテーブルを叩く。アスレイはすぐに察した。パンをちぎる手が、わずかに急いでいたのだ。

 アスレイは一度深呼吸をし、鏡のように完璧な動作でやり直す。

 エレーヌは、生活は苦しくても、食事の作法だけは厳しく仕込んでいた。そのおかげで、所作に関してはバルトロメウスの講義とは打って変わり、ライリー夫人を唸らせるほどの気品を見せる。

 だが、広すぎる客間で一人、豪華な食事を摂る時間は、アスレイにとって最も孤独を感じる瞬間だった。銀の食器が触れ合う冷たい音だけが響く。

 ライリー夫人は、アスレイが誰もいない向いの席を、一瞬だけ寂しげに見つめたことに気づいていた。そこは、本来なら母が座るはずだった場所だ。

 午後。

 重苦しい空気から解放され、アスレイは訓練場へと向かった。

 そこに立っていたのは、自分を連れ出した騎士、カインだった。

「アスレイ様。今日からは私が、剣術と馬術の指南を務めます」

 カインの姿を見て、アスレイの顔にようやく8歳らしい安堵が浮かぶ。周囲に他の者たちがいないことを確認すると、カインは跪き、密かに懐から一通の手紙を取り出した。

「母さんからの……!」

「……はい。エレーヌ様からお預かりしました」

 アスレイは震える指で封を切った。そこには、懐かしい母の香りと、力強くも優しい文字が並んでいた。

『愛するアスレイへ。

お城の夜は、寒くありませんか。

無理に強くなる必要はありません。ただ、あなたの心に咲く「優しさ」という花を、枯らさないでください。

私は元気です。カイン様が助けてくださっています。いつかまた会える日まで、どうか健やかに。』

「母さん……」

 涙が溢れそうになるのを、アスレイは木剣を強く握りしめることで堪えた。

「僕、負けません。母さんを守れるくらい、立派な王子になります。教えてください。……剣の振り方を!」

「承知いたしました。では、まずはその足腰から。王子の特訓は、学問より厳しいですよ」

 中庭に、木剣がぶつかる高い音が響き渡る。

 その様子を、バルコニーから見下ろす第一王女・エリザベスの瞳には、冷やかしではない、かすかな動揺が混じっていた。

 訓練場から響く、幼い掛け声と木剣がぶつかる高い音。

 第一王女エリザベスは、その喧騒を遠い国の出来事のように聞きながら、バルコニーの手すりに指を這わせていた。

(……うるさいわね)

 心の中で呟いた言葉にさえ、熱はこもっていない。

 激しい怒りも、焼き付くような嫉妬も、とっくの昔にどこかへ置き忘れてきた。今の彼女を支配しているのは、凪いだ海のような、深くて冷たい無関心だけだった。

 第2妃である隣国王女を母に持ち、第一子として生まれた彼女は、かつてこの国の「希望」だった。父王エドワードも、幼い彼女の剣の筋の良さを褒め、将来を期待する言葉をかけてくれた。あの日々、彼女は確かに、自分がこの国の王座に座る未来を疑っていなかった。

 しかし、運命が変節したのは、彼女がちょうどアスレイと同じ8歳の時だった。

 正妃クレアに三女グウェンドリンが誕生したその日、王宮の空気は一変した。法が、伝統が、そして父の眼差しが、エリザベスという「個」を透明な存在へと変えていった。

 「女より男」。そして「第2妃の子より第1妃の子」。

 積み上げた努力も、流した汗も、たった数行の法典の記述の前には無力だった。継承順位が転落したあの日、彼女の中で何かが音を立てて凍りついたのだ。

「エリザベス様、そろそろお戻りにならなければ。王妃様主催の刺繍の会がございます」

 侍女の控えめな声に、エリザベスは視線すら動かさずに答えた。

「……断りなさい。気分が乗らないわ」

「ですが、王妃様が……」

「断れと言っているの」

 その声には拒絶の棘すらなく、ただ決定事項を告げる冷徹さだけがあった。

 刺繍、社交、お茶会。女たちの策略が渦巻く華やかな檻に、自分を閉じ込めるつもりはない。

 彼女がゆっくりと右手を持ち上げる。

 掌には、長年の鍛錬によって作られた固いタコがある。ドレスに包まれた華奢な体躯には不釣り合いな、戦う者の手。

(人は裏切る。血筋も、法も、そして父上でさえも、一晩で掌を返す。けれど……)

 彼女は腰に帯びた愛剣の柄を、愛しむように撫でた。

(剣だけは、私を裏切らない)

 振った分だけ鋭くなり、磨いた分だけ輝く。自分がどれほど継承順位を下げられようとも、この剣の切っ先が描く円弧は、誰にも奪えない自分だけの力だった。

 ふと、階下の訓練場に視線を戻す。

 そこでは、自分をさらに下位へと押しやった元凶であるはずの少年、アスレイが、泥にまみれて木剣を振っていた。

 かつての自分と同じ、8歳。

 何も知らず、ただひたすらに「王子」という役割を全うしようと必死なその姿は、かつての自分の「なれの果て」を見ているようでもあった。

 彼が第一継承者になったと聞いた時も、エリザベスの心は動かなかった。

 彼がどんなに純粋であろうと、あるいは傲慢であろうと、今の自分には関係のないことだ。自分はただ、この城の片隅で剣を研ぎ、誰にも干渉されない静寂の中にいられればそれでいい。

(可哀想な子)

 一瞬だけ、そんな思考が脳裏をかすめた。

 彼もまた、今は期待という名の熱に浮かされているが、いつか必ず知ることになる。この城の中では、個人の意志など、権力という巨大な歯車に握りつぶされる塵に過ぎないということを。

 不意に、下から明るい笑い声が聞こえた。

 見れば、休憩中と思しきアスレイが、汗を拭いながら師を見上げて、無邪気に笑っていた。

 エリザベスは冷たい水のような瞳で、一瞬だけ少年を射抜く。そして、彼女は無言で踵を返した。

 少年の眩しい輝きが、自分の影を濃くする前に。

 彼女にとって確かなものは、今も左腰で静かに重みを感じさせる、一本のはがねだけだった。



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