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4 父王と3人の妃と5人の姉

 重厚なカーテンの隙間から差し込む朝陽が、絹のシーツの上を滑る。

 アスレイが深い眠りから引き上げられたのは、枕元に立つ気配と、静かな衣擦れの音だった。

「殿下。朝でございます。お目覚めくださいませ」

 昨日も会った、年嵩の女官がそこに立っていた。アスレイがまだ眠気の残る目をこすりながら起き上がると、彼女は背筋を伸ばし、深々と一礼した。

「改めて名乗らせていただきます。私は侍女頭のライリーと申します。今日より、殿下のお世話と、宮廷における言葉遣い、そして振る舞いの基本をお教えする役目を仰せつかりました」

 アスレイは、まだ頭がぼんやりとしたまま、母を呼ぶような心地で口を開いた。

「おはよう、ライリーおばさま」

 その瞬間、ライリー夫人の眉がわずかに動いた。彼女はアスレイの前に跪き、その水色の瞳を真っ直ぐに見つめて、静かだが断固とした口調で訂正した。

「……殿下。まずは最初の教えでございます。私のことは『ライリー夫人』とお呼びください。この城において、情に流された呼び方は、貴方様の品位を損なうだけでなく、隙を与えることになります」

「……はい。ごめんなさい、ライリー夫人」

 素直に、そして淀みなく言い直したアスレイに、ライリー夫人はわずかに目を細めた。彼女は控えの女官たちに目配せをし、洗面と着替えの準備をさせた。女官たちが、音もなくぬるま湯や真っ白な手拭いを用意していく。

 朝食のテーブルには、贅沢な果物や焼きたてのパンが並んだ。ライリー夫人は、アスレイが「野育ち」であることを前提に、厳しくマナーを正すつもりでその横に立った。しかし――。

 アスレイは、教えられるまでもなく自ら背筋を伸ばして椅子に座った。

 カトラリーを手に取る指先の動き、スープを音を立てずに啜る角度、そしてパンを一口大に千切る所作。そのすべてが、驚くほど洗練されていたのだ。

 ライリー夫人は、注意しようとして開いた口を、思わず閉ざした。

 昨夜もアスレイの所作に驚いたが、朝食の様子を見て確信した。その動きは、単に形をなぞっただけのものではない。長年の習慣によって身についた、本物の「気品」だった。

「……殿下。その所作、どなたに教わったのですか?」

「母さんだよ。騎士様は、戦っていないときこそ自分が何者かを示すものだって。だから、どんなときも背筋を伸ばしなさいって言われてたんだ」

 アスレイが何気なく答えると、ライリー夫人の心に鋭い衝撃が走った。

 (エレーヌ……貴女は、たった一人で、これほどまでにこの子を『王子』として育てていたの)

 ただの逃亡生活ではなかった。彼女は、いつかこの日が来ることを予見し、アスレイがどこの誰にも侮られないよう、愛と誇りを持って彼を躾けていたのだ。

 ライリー夫人は、アスレイに向ける視線を、単なる「世話係」から「一人の王子を支える者」のものへと変えた。

「……素晴らしい所作でございます、殿下。なれば、私からは、まずは本日の謁見についてお伝えしましょう」



 やがて、謁見の間へと続く長い廊下。

 アスレイは、教えられた通りの完璧な歩調で、カインとライリー夫人の間を歩いた。

 巨大な扉が、重々しい音を立てて開かれる。

 広い空間の最奥。一段高い玉座に座る、黄金の髪と水色の瞳の男。

 父、エドワード王が、震える吐息と共に立ち上がった。

「……アスレイか」

 王がアスレイの小さな肩に手を置こうとした、その時だった。

「陛下。再会の悦びはそこまでに」

 冷ややかな氷のつぶてのような声が、広い間を支配した。

 王の傍らに立つ女性たちが、一斉にアスレイを射抜いた。その光景は、美しい花々が咲き乱れる庭園というよりは、鋭利な刃物を並べた武器庫のような威圧感に満ちていた。

「陛下。……行方知れずとなっておりました第一王子が見つかりましたこと、正妃として、これ以上の悦びはございませんわ」

 第一王妃クレアが、扇で口元を隠しながら優雅に立ち上がった。彼女の金髪は陽光を反射し、公爵家出身という最高位の矜持がその佇まいから溢れ出している。だが、アスレイを見つめる緑の瞳は、まるで路傍の石ころを見るように冷ややかだった。彼女にとってアスレイは、最愛の王の過去に刻まれた「汚点」に他ならない。

「あら、お姉様。ずいぶんとご立派な言い草ですこと」

 低く、挑戦的な声が響いた。側妃ミルドレッドだ。隣国の王女としての誇りを、燃えるような赤毛と共に体現している彼女は、アスレイの細い腕を一瞥し、鼻で笑った。

「私には、その子がどれほど優れた武勇を秘めているか以外、興味はないわ。……我が国の子供なら、十に満たぬうちから剣を握るもの。陛下、この子がただの飾り物でないことを祈りますわ」

 さらに、その後ろで黒髪を弄んでいた側妃サンドラが、計算高い笑みを浮かべた。

「まぁまぁ、お二人とも。そんなに冷たくしては可哀想ですわ。見てごらんなさい、この震える手。まるで迷い込んだ野兎のようですこと」

 大人たちの容赦ない言葉の刃。だが、それ以上にアスレイを圧倒したのは、その脇に控える五人の異母姉たちの視線だった。

 最年長の長女エリザベスは、母譲りの赤毛をなびかせ、冷静な水色の瞳でアスレイを観察していた。その手は腰の剣の柄に置かれ、弟を歓迎する温もりなど微塵も感じさせない。

 次女シレーネは、美しいストレートの黒髪をかき上げ、隠しきれない不快感を露わにしている。彼女にとって、正統な「王子」の出現は、己の地位を揺るがす不純物でしかなかった。

 アスレイは、足の震えを必死に抑えた。朝食後にライリー夫人に教わったのは、礼の角度と、定型通りの挨拶だけだ。けれど、今の彼にはそれだけが唯一の武器だった。

 アスレイは、教わった通りに完璧な順序で、それぞれの妃へ、そして姉たちへと深く一礼を捧げた。

「……初めてお目にかかります、妃様方。そして、お姉様方。私はアスレイと申します。以後、お見知りおきを」

 その声は大きく、凛としていた。

 三女のグウェンドリンが、巻毛を揺らしながら小さく鼻を鳴らす。「あら、野良猫にしては、最低限の礼儀だけは仕込まれているようですわね」と。

 四女のフレアは、母や姉たちの手前、厳しい顔を作ろうとしているが、同年代に近いアスレイの姿に、好奇心を抑えきれない様子で身を乗り出している。

 末っ子のリンは、おかっぱの黒髪の陰から、怯えたように、けれど救いを求めるような瞳でアスレイを見つめていた。

 王、エドワードは苦渋の表情で后たちを制したが、彼女たちの背後にある公爵家や隣国の力を一蹴することはできない。

「……アスレイ。今日からお前は、この城で生きる。明日からは教育係がつく。励むがよい」

 王の言葉は、歓迎というよりは、新たな戦場への出撃命令のように響いた。

 アスレイは、教わった通りの足運びで一歩前へ出た。

 背筋を伸ばし、顎を引き、相手の喉元あたりを静かに見据える。それは今朝、ライリー夫人に厳しく教えられた「王子の型」だった。けれど、紺色の礼服に包まれた小さな背中は、自分を射抜く悪意の視線に耐えかねて、今にも折れてしまいそうだった。

 アスレイは、深呼吸をひとつした。

 肺に吸い込んだ空気は、石と冷たい香油の匂いがした。母さんの胸の、あの陽だまりのような匂いが恋しくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

 彼はゆっくりと腰を折り、完璧な角度で頭を下げた。

「はい、父上。教えを賜り、王家に恥じぬよう、精一杯に努めます」

 淀みない、けれどどこか空虚に響くほど正しい挨拶。だが、アスレイが顔を上げたとき、その瞳には大人びた決意など宿っていなかった。

 水色の瞳は潤み、その視線は父である王を通り越し、窓の外の遠い空を探していた。

(……母さん。僕、ちゃんと言えたよ。間違わなかったよ。だから、だから早く助けにきて……)

 心の中で叫ぶ必死の悲鳴が、その震える唇から漏れそうになるのを、彼は懸命に堪えていた。

 去り際、アスレイの背中には、3人の妃と5人の姉たちの、それぞれ異なる思惑を孕んだ視線が、いつまでも消えない傷跡のように突き刺さっていた。


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