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3 母との別れ

 巨大な鉄の城門が、地響きを立てて背後で閉ざされた。

 馬車の車輪が、町の土の道とは違う、冷たく無機質な石畳を叩く音が馬車の中に響き渡る。窓の外を流れるのは、威圧的な石壁と、抜き身の槍を抱えて直立不動で並ぶ兵士たちの列だった。

「着きましたな。アスレイ様、エレーヌ様」

 カインの声に導かれ、馬車の扉が開かれた。そこは、高い城壁が夜の闇に吸い込まれているかのような、広大な城の中庭だった。

 アスレイが馬車から一歩踏み出した瞬間、夜の冷気が肌を刺した。

 アスレイが母の手を握り直そうとした、その時だった。

「――そこまでです」

 冷徹な声と共に、数人の兵士たちが二人の間に割り込んだ。彼らは感情を排した鉄の仮面のような顔で、エレーヌの行く手を遮る。

「何をするの! 母さんを放して!」

 アスレイが叫び、エレーヌの元へ駆け寄ろうとしたが、屈強な兵士の腕に阻まれた。

「これより先、王子殿下と部外者の同道は許されません。これは王妃様の命令です」

 兵士の言葉は機械的で、一切の情状を挟む余地がなかった。「部外者」という言葉が、アスレイの胸を鋭くえぐる。つい数時間前まで、自分たちの世界は二人きりだったはずなのに、この城の門を潜った瞬間、母は「部外者」にされてしまったのだ。

「アスレイ、大丈夫よ。落ち着いて」

 引き立てられるエレーヌが、懸命に声を上げた。彼女の顔は蒼白だったが、その瞳だけは強くアスレイを見つめていた。

「母さんは、少し別の場所でお休みするだけ。カインもついてきてくれるわ。だから、泣かないで。さっきの約束を、忘れないでね」

 エレーヌは、兵士に腕を掴まれながらも、アスレイを安心させるように、いつもの穏やかな微笑みを無理に浮かべた。その微笑みが、かえってアスレイの涙を誘う。

 傍らにいたカインが、苦渋に満ちた表情でアスレイの前に膝をついた。彼は王妃の命令に逆らえない己の無力さを噛み締めるように、アスレイの小さな肩に手を置いた。

「……アスレイ様。このカイン、命に代えてもお嬢様――エレーヌ様をお守りいたします。かつてお守りできなかったあの日から、この時をずっと悔いて参りました。今度こそ、必ず。ですから、今はどうか、前をお向きください」

 カインの武骨な手から伝わる震えが、彼もまた戦っていることを伝えていた。アスレイは、溢れそうになる涙を掌で乱暴に拭い、小さく頷いた。母さんが「大丈夫」と言うなら、自分も強くあらねばならない。それが母さんとの約束だからだ。

「さあ、殿下。こちらへ」

 兵士たちに促され、アスレイは母が連れ去られていく闇の向こうとは逆の方向へ、重い足を動かした。

 案内されたのは、広大な城の最上階に近い一角だった。

 重厚な黒檀の扉が開かれた先には、八歳の子供が過ごすにはあまりに不釣り合いな、冷たい静寂に包まれた広間が広がっていた。

「ここが、今日から貴方様のお部屋となります」

 そこは「子供部屋」と呼ぶには程遠い場所だった。

 天井からは巨大な水晶のシャンデリアが吊り下げられ、床には異国の職人が数年かけて織り上げたという深い真紅の絨毯が敷き詰められている。壁を飾るのは歴代の王たちの肖像画で、その鋭い眼差しは、新参者のアスレイを値踏みするように見下ろしていた。

 置かれている家具も、大人が使うような重厚な造りばかりだった。彫刻が施された巨大な書斎机、背もたれが高すぎてアスレイがすっぽり埋まってしまうような椅子。寝台は、町の家の一部屋分ほどもある大きさで、真っ白な絹のシーツが、雪原のように冷たく広がっている。

 兵士たちが退室し、重い扉が閉まると、部屋には完全な沈黙が訪れた。

 アスレイは、真ん中にぽつんと立ち尽くした。

 あまりに広すぎる。あまりに豪華すぎる。

 窓の外を見れば、城下の街の灯りが遠くに見えるが、この部屋の窓は分厚い硝子で閉ざされ、外の音は一切聞こえてこない。

 アスレイは、部屋の隅にある大きな椅子の影で丸くなった。

 ここには、薪がはぜる音もしない。スープの温かい匂いもしない。

 何より、自分を呼ぶ母の優しい声がない。

「……ラナ・シェルヴァ……ミリエ・オルナ……」

 アスレイは、消え入りそうな声で、母に教わった守護の歌を口ずさんだ。古代語の調べが、冷たい空気の中に小さな波紋を作る。

 母さんは「誰も恨んではいけない」と言った。けれど、この広すぎる黄金の檻の中で、アスレイは生まれて初めて、底知れぬ孤独という名の恐怖に震えていた。

 アスレイが自分の膝を抱えて丸まっていた時、重厚な扉が音もなく左右に開かれた。

 入ってきたのは、数人の女性たちだった。彼女たちは一様に、糊のきいた黒い服に白いエプロンを纏い、髪を一つにきっちりとまとめ上げている。その顔には喜びも悲しみも、あるいは新しく現れた王子への好奇心すら浮かんでいない。まるで精巧に作られた能面が、音もなく床を滑っているかのようだった。

「殿下、お食事の用意が整うまでの繋ぎとして、お茶とお菓子をお持ちいたしました」

 先頭に立つ年嵩の女官が、感情の欠落した声で告げる。

 彼女たちは無言のまま、アスレイの目の前にある巨大な黒檀のテーブルに、白磁の器と銀のトレイを手際よく並べていった。

 立ち昇る香ばしい紅茶の香りと、見たこともない色とりどりの小さな塊に、アスレイの鼻先がぴくりと動いた。

「これ……食べていいの?」

 アスレイが恐る恐る尋ねると、女官の一人が短く「左様でございます」と答えた。

 アスレイは椅子によじ登り——それは彼にはあまりに高く、足が宙に浮いてしまった——トレイの上の一番小さな、雪のように白い粉が振られたお菓子を指先で摘んだ。

 口に入れた瞬間、アスレイの瞳が大きく見開かれた。

「あまい……!」

 それは、蜂蜜よりもずっと濃密で、それでいて口の中で淡雪のように儚く消えていく。バターの豊かな香りが鼻を抜け、噛むたびにナッツの香ばしさが弾けた。

「おいしい! ねぇ、これ、すっごくおいしいよ! 母さんにも食べさせてあげたいなぁ……」

 アスレイは、先ほどまでの恐怖や寂しさを一瞬忘れたように、椅子の上で足を揺らして喜んだ。その表情は、先刻まで兵士たちに囲まれて震えていた「王子様」ではなく、ただの八歳の少年そのものだった。

「おばさんたちも食べる? まだこんなにあるよ!」

 無邪気に皿を差し出すアスレイ。その屈託のない笑顔と、自分たちを「おばさん」と呼ぶ純朴な響きに、能面のように固まっていた女官たちの表情に、わずかな亀裂が走った。

 彼女たちは城という、嘘と毒が当たり前の場所に長年仕え、感情を殺す術に長けていた。けれど、目の前の少年が放つ、濁りひとつない純粋な光に、凍てついた胸の奥がわずかに疼くのを感じていた。

「……いえ、私たちは結構でございます。殿下、口の端に粉がついておりますよ」

 一人の女官が、自分でも無意識のうちに、いつもよりいくぶん柔らかな手つきでアスレイの頬をナプキンで拭った。彼女たちの瞳には、微かな、本当に微かな憐憫と慈しみの色が灯っていた。

「さあ、殿下。次はお召し替えと入浴の時間でございます。旅の汚れを落としましょう」

 促されるままに向かった浴室は、広場ほどもあるかと思われる広さで、床一面が滑らかな大理石で覆われていた。湯船からは豊かな蒸気が立ち昇り、香油の甘い香りが満ちている。

 女官たちの手によって丁寧に体を洗われ、アスレイは村での泥や埃をすべて洗い流された。鏡の中に映った自分は、村にいた頃よりもずっと白く、そしてどこか遠い存在のように見えた。

 用意された寝間着は、これまでに触れたこともないほど滑らかな絹だった。肌に触れるたびにひんやりと心地よく、けれどどこか心許ない。母さんの継ぎ接ぎだらけの麻の服の、あのゴワゴワとした、けれど太陽の匂いのする温もりが、どうしようもなく恋しくなった。

 客間に戻ると、そこには湯気の立つ軽食が整えられていた。鶏の出汁で煮込まれた温かな大麦のスープと、ふっくらとした白身魚のソテー。

「わぁ、今度はポカポカする匂いだ」

 アスレイは夢中でスープを啜った。

 その様子に女官たちは目を見張った。食事の作法が身に付いている。王子といえど、田舎町で育った少年である、さぞや礼儀知らずの粗野な子供であるだろうと思っていた彼女たちは驚いた。

 食事を終え、温かなミルクを一杯飲み干すと、アスレイの瞼は急激に重くなっていった。年嵩の女官が、大きな寝台の羽毛布団を丁寧にめくる。

「さあ、殿下。明日は陛下との謁見、そしてお姉様方との対面がございます。今夜はゆっくりとお休みください」

 アスレイは絹のシーツに潜り込み、吸い込まれるような柔らかさの中で呟いた。

「……みんな、ありがとう。おやすみなさい、……明日、母さんに会えるかな……」

 扉が静かに閉まり、暗闇に包まれた部屋で、アスレイは深い眠りへと落ちていった。

 その扉の向こう側では、三人の女官がしばらくの間、音を立てずに立ち尽くしていた。

「……なんて可哀想な。こんなに良い子が、あの姉姫様たちの前に出されるなんて」

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