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2 平穏の終わり

 その日は、朝から空気が震えていた。

 異変があったのは昼を過ぎてからだった。

 町の境界にある森の向こうから、鳥たちが一斉に羽ばたき、不穏な影が石畳の広場に落ちる。アスレイは、パン屋の店先で手伝いをしていたが、遠くから響いてくる蹄の音に手を止めた。それは、町を訪れる商人の馬車が立てる軽やかなリズムとは全く違う、大地をえぐるような重々しい響きだった。

「アスレイ、中に入って!」

 パン屋の主人が、血相を変えてアスレイを店の奥へ押し込もうとした。町人たちは、この日が来ることをずっと恐れていたのだ。彼らは、エレーヌとアスレイが「普通」の親子ではないことを知りながら、あえて何も聞かず、その気品を愛し、平穏という名の盾で二人を守り続けてきた。

 だが、その盾は今、音を立てて砕け散ろうとしていた。

 現れたのは、白銀の鎧を纏った一団だった。陽光に反射する鎧は眩いばかりに輝き、馬の嘶きが森の静寂を切り裂く。先頭を走る一頭の馬が、アスレイの家の前で止まった。

 扉が開き、エレーヌが出てきた。

 彼女は、いつもの裁縫仕事で使うエプロンを外し、質素な麻の服のまま、凛とした姿でそこに立っていた。アスレイはこっそりと店の陰から駆け出し、母の背後にしがみついた。

 馬から降りたのは、顔に深い皺を刻んだ初老の騎士だった。彼は兜を脱ぐと、その場に膝をついた。

「……エレーヌ様。ようやく、ようやく見つけ出しましたぞ」

 その声は震えていた。

「カイン」

 カインと呼ばれたその騎士は、かつてエレーヌの生家である伯爵家に仕え、彼女が幼い頃からその成長を見守ってきた人物だった。

「お探しいたしました。あの日、お姿を消されてから今日まで、一刻たりとも貴女様のことを忘れた日はございません。没落の折、力及ばず……このような暮らしを強いてしまったこと、このカイン、一生の不覚」

「いいえ、カイン。私はこの村で、本当に幸せだったのです。この子と一緒に……」

 エレーヌが背後に隠れたアスレイの肩を抱き寄せると、カインの鋭い視線がアスレイを射抜いた。

 アスレイは、思わず息を呑んだ。カインの瞳が、驚愕と歓喜に大きく見開かれたからだ。

 エレーヌは落ち着いた茶色の髪と瞳を持っていたが、アスレイは違った。陽光の下で、彼の髪は純度の高い黄金のように輝き、その瞳は、透き通った空のような青色を湛えていた。それは、この国の王家のみに許された、高貴なる血の証明だった。

「おお……なんという……。陛下と、若き日の陛下と瓜二つではありませんか」

 カインは震える手でアスレイを指し示し、その場にいる兵士たちに向かって叫んだ。

「者共、控えよ! このお方こそが、失われた第一王子、アスレイ様であらせられるぞ!」

 町人たちがざわめき、その場に跪き始める。アスレイは混乱した。昨日まで「アスレイ」と呼ばれていた自分が、今は「王子様」と呼ばれている。

 カインは再びエレーヌに向き直ると、苦渋に満ちた表情で告げた。

「陛下が、お待ちです。城へ、お戻りください」

 それは願いではなく、拒むことのできない勅命だった。

 用意されたのは、金糸の刺繍が施された豪奢な馬車だった。中の座面は滑らかなベルベットで、アスレイは自分の泥のついた靴で入るのを躊躇うほどだったが、エレーヌは静かに彼を隣に座らせた。

 町を出る時、アスレイは何度も何度も振り返った。パン屋の主人が涙を拭いながら手を振っている。村長が、いつまでも深々と頭を下げている。自分を愛してくれた人たちの姿が小さくなっていく。

 馬車が町の境界を越え、深い森へと入ると、エレーヌはアスレイの小さな手を両手で包み込んだ。彼女の手は、昨日まで見ていた力強いお針子の手ではなく、一人の女として、そして母として、激しく震えていた。

「母さん……僕、王子様なの? お父様は、お城にいるの?」

 アスレイの問いに、エレーヌはゆっくりと頷いた。

「そうよ、アスレイ。あなたの本当のお父様は、この国の王様なの。とても勇敢で、誰よりも心優しい方。私が心から愛し、そしてあなたという命を授けてくださった、大切なお方よ」

 エレーヌは遠い目をして、語り始めた。

 かつて、王家の侍女として城に仕えていたこと。若き王と出会い、恋に落ちたこと。だが、エレーヌの生家である伯爵家が没落し、彼女の存在が王の立場を危うくすることを恐れた彼女は、自ら姿を消したこと。

「私はね、あなたを権力争いから守りたかったの。お城という場所は、ナイフよりも冷たい言葉が飛び交う場所。そこで、誰かに恨まれたり、誰かを恨んだりしながら生きてほしくなかった。だから、この八年間……私はあなたに嘘をつき続けました。ごめんなさいね」

 アスレイは、母の頬を伝う一筋の涙を、小さな指で拭った。

「謝らないで、母さん。僕は、母さんと暮らせて幸せだったよ」

 エレーヌはアスレイを強く抱きしめた。その抱擁は、まるで今この瞬間に、彼のすべてを自分の中に刻み込もうとしているかのようだった。そして、彼女はアスレイの目を見つめ、これからの人生で最も重要な「教え」を口にした。

「アスレイ、よく聞きなさい。これからお城に着けば、あなたを温かく迎えてくれる人ばかりではないでしょう。あなたの存在を快く思わない人や、意地悪なことを言う人がいるかもしれません。……でもね、アスレイ」

 エレーヌの声には、鋼のような意志が宿っていた。

「誰も恨んではいけません。あなたの父様も、あなたを冷たくあしらうかもしれない人たちも、みんなそれぞれの孤独と戦っているの。憎しみは、王冠よりも重くあなたの心を縛り付け、本当の幸せを見えなくしてしまうわ。……いい? 私は、誰も恨んでいないわ。あなたという宝物をくれたこの運命を、愛しているのよ」

「……誰も、恨まない?」

「ええ。母さんとの約束よ。どんな時も、心の中に一本の美しい花を咲かせ続けなさい。優しさは、どんな剣よりも強くあなたを守る鎧になるのだから」

 馬車の窓から差し込む夕日が、アスレイの黄金の髪を赤く染めていた。

 やがて、視界が開けると、夕闇の中に聳え立つ巨大な王城が現れた。空を突くような尖塔、幾重にも重なる城壁。それはアスレイが夢想していたおとぎ話の城よりもずっと大きく、圧倒的な威圧感を持って迫ってくる。

 重々しい城門が開く音が、馬車の中にまで響いた。

 アスレイは、母の手を握りしめた。

 母の温もりを感じられるのは、これが最後かもしれない。そんな予感が、幼い胸を締め付けた。

「さあ、アスレイ、背筋を伸ばして。あなたは、私の誇り。そして、この国の希望なのですから」

 エレーヌに促され、アスレイは涙を堪えて前を向き、その宿命の扉を潜ろうとしていた。

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