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1 母との暮らし

 王都から遠く離れた、豊かな森と清流に抱かれた小さな町。

 そこには、都会の喧騒も宮廷の陰謀も届かない、穏やかな時間が流れていた。

 八歳のアスレイにとって、この町と母エレーヌが世界のすべてだった。


 夕暮れの鐘が、町の中心にある古い教会から低く響いた。

 その音を合図にしたように、石畳の路地を歩く人々の足取りがゆっくりと家路へ向かい、露店の商人たちは布をかけ、店仕舞いを始める。空は茜色から紫へと変わり、遠くの山影が夜の気配をまとい始めていた。

 アスレイは、母エレーヌと並んで家へ向かっていた。

 市場で買った野菜の入った籠を、両手でしっかり抱えている。母の歩幅に合わせて歩くのは、もうすっかり慣れたものだった。

「アスレイ、重くない?」

「大丈夫。今日は僕が持つって言ったんだよ」

 エレーヌは微笑んだ。

 その笑みは、いつもどこか影を含んでいる。けれどアスレイは、その影の意味をまだ知らない。

 ただ、母の笑顔が好きだった。

 家に着くと、エレーヌは手際よく夕食の準備を始めた。

 小さな家だが、台所にはいつも温かい匂いが満ちている。アスレイは薪をくべ、火を調整しながら母の動きを眺めた。

「今日はね、少しだけいい肉が手に入ったのよ」

「ほんと?」

「ええ。市場のおじさんが、あなたのことを気に入っているみたいでね。『あの子は礼儀正しい』って。裁縫の依頼と一緒に、おまけしてくださったの」

 アスレイは照れくさくなって、鼻の頭をかいた。

 母はそんな息子を見て、くすりと笑う。

 鍋の中で野菜と肉が煮え、香りが部屋いっぱいに広がった。

 やがて、木の皿に盛られた温かなシチューが食卓に並ぶ。

「いただきます」

「いただきましょう」

 二人は向かい合ってスプーンを手に取った。

 アスレイが勢いよくスプーンを口へ運ぼうとしたとき、エレーヌが優しく、けれど凛とした声で彼を止めた。

「アスレイ、背筋を。……そう。スプーンは、すくうのではなく、器の向こう側から手前へ滑らせるように」

 アスレイはハッとして姿勢を正した。

 この町の誰も、そんな食べ方はしていない。けれど母は、どんなに質素な食事のときでも、こうした「作法」に厳しかった。

「騎士様は、戦っていないときこそ、その振る舞いで自分が何者であるかを示すのよ」

 エレーヌ自身もまた、使い古された木の椅子に座りながら、まるで宮廷の晩餐会にいるかのような優雅さでスプーンを動かしていた。その指先の動き、スープを口に運ぶ角度のひとつひとつが、まるで完成された絵画のようだった。

「おいしい!」

「よかった。今日は少しだけ塩を贅沢に使ったの」

 エレーヌは、アスレイが食べる様子をゆっくりと眺めていた。

 その視線には、深い慈しみと、言葉にならない願いが宿っている。

「母さん」

「なあに?」

「今日も騎士様の話、してくれる?」

 エレーヌはスプーンを置き、少しだけ目を伏せた。

「……騎士様のお話、ね」

 アスレイの期待に満ちた眼差しを受けて、エレーヌはゆっくりと息を吸い、そして吐いた。

 その仕草は、遠い記憶を呼び起こすときのものだった。

「アスレイ。騎士というのはね、剣を振るうために生まれたわけじゃないの」

「うん」

「誰かの涙を拭うために、剣を持つのよ。力は、守るためにある。奪うためじゃない」

 アスレイは真剣な表情で聞いていた。

 母の語る“騎士様”は、町の人々が噂するような荒々しい戦士ではない。

 もっと静かで、もっと強い存在だった。

「母さん、その騎士の人……どんな人だったの?」

「そうね……」

 エレーヌは少しだけ目を細めた。

 その表情は、懐かしさと痛みが混ざったような、複雑な光を帯びている。

「とても優しい人だったわ。強くて、誇り高くて……でも、誰よりも人の心に寄り添える人だった。いつか、あなたにも会わせてあげたかったけれど……」

 言葉の最後は、消え入るような吐息に変わった。

「母さん、その人のこと、好きだった?」

「……ええ。とても」

 アスレイは胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。

 それが嫉妬なのか、憧れなのか、自分でも分からない。

「アスレイ」

「なに?」

「あなたも、いつか誰かを守れる人になれるわ。そのためには、自分を律することを忘れないで」

 エレーヌはそう言って、息子の頬にそっと手を添えた。

 その手は、裁縫のせいで少し指先が荒れていたが、触れ方は驚くほど洗練され、温かく、けれどどこか震えていた。

 夕食を終えると、エレーヌはランプに火を灯し、寝室へ向かった。

 アスレイは布団に潜り込み、母が隣に座るのを待つ。

「母さん、今日も歌ってほしい」

「守護の歌?」

「うん。あれ、好き」

 エレーヌは微笑み、アスレイの髪を撫でた。

 そして、静かに歌い始める。

 それは古代語の歌――

 この国がまだ小さな部族の集まりだった頃から伝わる、守りの祈り。

 本来、王家の血を引く者のみが子守歌として、そのゆりかごの中で聴くことを許される聖域の旋律。

 エレーヌの声は、夜の空気に溶けるように柔らかく響いた。

「ラナ・シェルヴァ……

  ミリエ・オルナ……

  アスレイ・ルナ・フェル……

  光は汝を離れず……」

 意味は、アスレイにも完全には分からない。

 けれど、母の声が胸の奥に温かく染み込んでいく。

「母さん、この歌……誰に教わったの?」

「昔、とても大切な人に」

「騎士の人?」

「……ええ。そうね。……私が、私でいられた頃に出会った、大事な人よ」

 エレーヌはアスレイの額にそっと口づけた。

「この歌はね、聞く人を守るための祈りなの。

 あなたが眠るとき、悪いものが近づかないように」

「僕、守られてるの?」

「もちろん。あなたは私の宝物だもの」

 アスレイは安心したように目を閉じた。

 母の歌声は、波のように優しく寄せては返し、彼の意識をゆっくりと眠りへ誘っていく。

 ――この穏やかな夜が、永遠に続くと信じていた。

 だが、翌日の昼。

 白銀の鎧を纏った一団が町に現れ、アスレイの運命は音を立てて動き始める。

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