19 白百合の憎悪
第一妃クレアが住まう「白百合宮」。その豪華な扉の前は、昨夜の建国祭の喧騒が嘘のように、死の淵のような静寂に包まれていた。
そこへ、絹の擦れる音を不敵に響かせながら、第三妃サンドラが歩み寄る。その背後には、まるで勝利のトロフィーのようにルカが付き従っていた。
「あら、グウェンドリン。健気にお母様の看病かしら?」
立ち塞がったグウェンドリンに対し、サンドラは扇で口元を隠し、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「サンドラ様、本宮は現在、陛下の命により慎み期間中のはず。客人を連れての勝手な立ち入りは、王宮の法に触れますわ」
「客人? 失礼ね。この子は陛下が滞在を許された『血族』ですわよ。第一妃様にも、ぜひご挨拶をと。……かつての侍女が、これほど立派な『本物』を隠していたと知れば、お加減も少しは良くなられるかと思って」
サンドラの言葉には、第一妃クレアへの挑発がこれでもかと詰め込まれていた。かつてエレーヌに「夫(王)の心」を盗まれたクレア。その彼女に、エレーヌが産んだ「本物の王子」を突きつけることは、古傷を抉る以上の屈辱であるはずだった。
「……母上は、どなたともお会いになりません」
グウェンドリンの瞳が、氷の刃のように冷たく光る。
「特に、出自の定かでない少年を連れた、礼儀を失した方など。……サンドラ様、それ以上その子を近づけるなら、わたくしが陛下に、貴女の『教育方針』について進言せねばなりませんが?」
「……っ、相変わらず可愛げのない娘ね」
サンドラは吐き捨てるように背を向けた。ルカは無表情のまま、一度だけグウェンドリンを冷ややかに見据え、サンドラの後に続いた。
二人の足音が遠のくのを確認し、グウェンドリンは重い扉を開け、母の寝所へと足を踏み入れた。
部屋の中は、昼間だというのに厚いカーテンが閉ざされ、立ち込める沈香の香りが胸を突く。
「母上。……サンドラ妃が去りました」
部屋の奥、豪奢な長椅子に横たわっていたクレアが、ゆっくりと上体を起こした。
その顔は驚くほどに白く、無機質だ。しかし、その瞳だけは、暗闇の中で鬼火のような鋭い光を宿していた。
「……グウェンドリン。あの子を、見たのね」
「……はい。アスレイに、あまりに似ておりました。ですが、母上……」
「似ているのは、髪と瞳の色だけよ」
クレアの声は、感情を完全に削ぎ落とした、硬い石が擦れるような響きだった。彼女は細い指で、手元にあった古い刺繍入りの布を、引きちぎらんばかりに握りしめた。その布には、かつてエレーヌがクレアのために刺繍したという、百合の花が描かれていた。
「母上、まさか貴女が、この事態を……」
「わたくしが、あの女を救うような真似をすると思う?」
クレアは冷たく笑った。その笑みは、悲しみよりも深い「虚無」に彩られている。
「あの子……ルカを連れてきたのは、サンドラではないわ。あの女はただ、用意された餌に食らいついただけの浅ましい女。……エレーヌを殺すのはわたくしの特権。他の誰にも、あの女を絶望させる権利などない」
クレアは立ち上がり、鏡の中に映る自分の怨念をじっと見つめた。
「グウェンドリン、行きなさい。……そして見ておくがいいわ。あのアスレイという偽物が、母親の『愛』という名の呪いで、どう壊れていくのかを」
グウェンドリンは、母の背中に冷たい戦慄を覚えた。
サンドラはただの駒に過ぎない。この残酷な舞台の幕を上げたのは、長年沈黙を貫いてきた、自分の実母の怨嗟かもしれない――その疑念が、彼女の心に重くのしかかった。
カインは独り、王都の北にある古びた孤児院の門を叩いていた。
カインの目の前に座る老いた院長は、差し出された王家の紋章に怯えながらも、古い台帳を震える手で開いた。
「……あの子、ルカのことですな。ええ、間違いありません。あの子は十年前の冬、ひどい嵐の夜に、一人の男に連れられてここへ来ました」
「その男は誰だ。エレーヌ様か?」
カインの問いに、院長は首を振った。
「いいえ。……亡きデュボワ伯爵の嫡男、つまりエレーヌ様の兄君に仕えていたという従者でした。その男は、血まみれの包みに赤子を抱いてこう言ったのです。『この子は伯爵家、最後の希望だ』と」
カインの心臓が、大きく跳ねた。
バートの言っていた「エレーヌの隠し子(アスレイの替え玉)」という話が、根底から崩れ始める。
「院長、はっきりと言え。ルカの親は誰だ」
「……あの子は、エレーヌ様の子ではありません。エレーヌ様の兄、つまり先代伯爵の嫡男が、没落の混乱の中で密かに儲けていた『落とし胤』なのです。エレーヌ様にとっては、実の甥にあたります」
背筋に冷たいものが走った。
ルカがアスレイに似ているのは当然だった。二人は従兄弟同士、同じデュボワの血を引いているのだ。
そして院長は、さらに残酷な真実を口にした。
「あの子は自分が『王子』だなんて、一度も言ったことはありませんでした。ただ、ある時から、王宮から遣わされたという『高貴な身分の女性の使い』が、あの子に特別な教育を施し始めたのです。……立ち居振る舞い、そして、自分こそが奪われた王位の継承者であるという、歪んだ憎しみを」
「その『高貴な女性』とは、第三妃サンドラか?」
「いえ……。使いの者は、こう言っていました。『白ゆりの主』からの贈り物だ、と」
「……っ、第一妃クレア様か!」
カインは立ち上がり、机を激しく叩いた。
パズルのピースが、恐ろしい精度で噛み合っていく。
第一妃クレアは、かつて自分を裏切って王の寵愛を奪ったエレーヌを憎んでいた。
彼女は、エレーヌの兄の忘れ形見であるルカを見つけ出し、彼に「自分こそが本物の王子であり、アスレイは自分からすべてを奪った偽物だ」という毒を吹き込み、復讐の道具へと仕立て上げたのだ。
そして、そのルカを「本物の証拠(印章)」と共にサンドラに拾わせることで、自分は手を汚さず、エレーヌとアスレイ、さらには政敵であるサンドラをも共倒れにさせる――。
(……なんという、底なしの悪意だ)
カインは孤児院を飛び出し、愛馬の手綱を強く握った。
離宮で絶望に暮れているであろうアスレイ。彼は偽物ではない。間違いなくエレーヌの息子だ。
(待っていてください、アスレイ様。……貴方が、誰の盾でもない、ただ一人の愛された息子であることを、私が必ず証明してみせる)
夕闇迫る街道を、カインは王宮へと向かって疾走した。
その胸には、第一妃が仕掛けた「呪い」を打ち破るための、一筋の光明が宿っていた。




