18 2人の王子
翌朝、アスレイを揺り起こしたのは、いつもの穏やかな光ではなく、絶望に染まったライリー夫人の震える手だった。
鏡の中の自分を見ることさえ許されず、着替えを済まされたアスレイは、事情を飲み込めぬまま冷たい石造りの回廊を引かれていく。
ライリー夫人の顔は、まるで死人のように蒼白だった。彼女はアスレイの手を、痛いほどに、しかし縋るように握りしめている。
「……ライリー夫人、どこへ行くのですか?」
「……前を、前だけを見て。殿下」
辿り着いたのは、謁見の間だった。
だが、そこには重苦しい沈黙と、居並ぶ貴族たちの突き刺さるような視線が満ちている。
玉座に座る父王エドワードの傍ら。そこには、第三妃サンドラと、そして一人の少年が立っていた。
「……あ」
アスレイは、息を吸うのを忘れた。
そこにいたのは、鏡を置いたかのように自分と似た、しかし決定的に違う「影」を纏った少年だった。
少年――ルカは、困惑したような、それでいて深い憐れみを湛えた瞳でアスレイを見つめていた。
「陛下」
サンドラが、勝利を確信した鋭い声を響かせた。
「これこそが真実。エレーヌが隠し続けていた、本物の王子ルカ様です。……そして、そこにいる少年は、貴方を欺き、王家の慈悲を盗んだ、ただの『盾』に過ぎません」
父王の瞳を見るが、そこにあるのは深い困惑の色だった。
「……君が、アスレイ?」
ルカが、一歩前へ出た。
その声は、震えていた。あまりに完璧な、傷ついた子供の演技。
「僕のふりをして、温かいベッドで眠っていたのは……君なんだね。……母様は、君には優しかった?」
「ち、違う……。僕は……」
「これ以上、王子を弄ぶのはお止めなさい!」
サンドラの叱咤が、アスレイの言葉を叩き潰す。
静まり返った謁見の間には、昨日までの祝祭の熱狂など、どこにもなかった。
頼みの綱である姉姫たちも、自分を導いてくれたカインの姿もそこにはない。広大な空間に、ただ独りきりで立たされているような、形容しがたい孤独がアスレイを襲った。
「……陛下」
サンドラが、絹を裂くような鋭い声で宣告を促す。
玉座に座るエドワード王は、苦渋を貼り付けたような表情で、アスレイを見つめていた。その隣で、ルカが不安げに、潤んだ瞳でアスレイを見つめている。
「……アスレイ」
王の声は、かつてないほど低く、そして遠かった。
「事の真偽が判明するまで……お前を王子として扱うことはできぬ」
その言葉が、見えない刃となってアスレイの胸を貫いた。
昨夜、姉さまたちに囲まれて感じた温もりは、幻だったのか。
「……エレーヌと共に、離宮へ行け。沙汰があるまで、そこから出ることは許さぬ」
それは、事実上の追放だった。
アスレイは絶望に視界を曇らせながら、傍らに立つルカを見た。ルカは一瞬だけ、王からもサンドラからも見えない角度で、口角を微かに吊り上げた。
しかし、
「そしてルカ。お前の身元が確認できるまで、客間への滞在を許可する」
「……客間への、滞在を?」
サンドラの勝ち誇ったような笑みが、一瞬で凍りついた。ルカの瞳に宿っていた微かな嘲笑も、予期せぬ言葉に凪いでいく。
エドワード王の眼差しは、ルカを「息子」として認めた温かなものではなかった。むしろ、得体の知れない異物を見定めるような、冷徹な統治者のそれであった。
「バートと名乗る男の証言、そしてその印章。無視できぬ重みはある。だが――」
王はゆっくりと立ち上がり、広場を見下ろすテラスの方へと視線を向けた。
「我が国の血脈を、物言わぬ銀の細工一つで決めるわけにはいかぬ。カイン、おるか」
背後の闇から、鉄の音をさせてカインが進み出た。その表情は、アスレイさえも戦慄くほどに険しい。
「はっ」
「ルカの身辺、およびバートなる者の足取りを徹底して洗え。一点の曇りも許さぬ。……それまで、ルカは『賓客』として扱う。王子としてではない」
「陛下! それではあまりに、この子が不憫でございますわ!」
サンドラが詰め寄るが、王は一瞥もくれなかった。
「……ライリー。アスレイを連れて行け」
その一言が、幕引きの合図だった。
アスレイは、崩れ落ちそうな膝をライリー夫人の細い腕に支えられ、逃げるように謁見の間を後にした。去り際、振り返った視線の先にいたルカは、もはや怯える子供の顔をしていなかった。無機質な、深い闇のような瞳でアスレイの背中を射抜いていた。
幾重にも重なる重厚な扉が閉じられ、鉄の閂が下りる。
北の離宮。そこは豪華な本宮とは切り離された、石造りの静寂の世界だった。
部屋の奥、使い古されたソファに座り、窓の外をじっと見つめていた影が立ち上がった。
「アスレイ……!」
エレーヌが駆け寄り、アスレイを壊れ物を扱うように抱きしめた。
王宮に来てから、ずっと「王子」であることを強いてきた母。完璧なマナーと気品を叩き込んできた厳しい母。だが、今、自分を抱きしめるその肩は、驚くほど小さく震えていた。
「母様……ごめんなさい。僕、上手く言えなかった。あの子が……ルカが、母様の印章を持っていて……。僕のこと、『おとり』だって……」
アスレイの胸に溜まっていた泥のような不安が、涙となって溢れ出した。
エレーヌは、アスレイの黄金の髪を何度も撫で、その耳元で、祈るように囁いた。
「いいえ。……いいえ、アスレイ。あなたは、私のたった一人の息子よ。……たとえ世界中があなたを偽物と呼んでも、私が、この命を賭けて証明するわ」
エレーヌの瞳には、かつてないほど激しい、狂気にも似た「母」の決意が宿っていた。
彼女は知っていたのだ。サンドラが連れてきたあの少年が持っていた印章が、なぜ「本物」であったのかを。そして、誰がそれを手引きしたのかを。
離宮の庭には、昨夜までの華やかさが嘘のように、ひっそりと冷たい風が吹き抜けている。
アスレイは母の腕の中で、昨夜、姉さまたちが自分のために剥いてくれた果実の甘さを思い出していた。
(エリザ姉様……シレーネ姉様……グウェン姉様……フレア姉様……リュシー姉様……)
王子でなくなった自分を、彼女たちはまだ「弟」と呼んでくれるだろうか。
隔離された静寂の中で、アスレイの本当の戦いが始まろうとしていた。
一方、その頃。
客間へと案内されたルカの元へ、カインが音もなく姿を現した。
「……王子ごっこは、今のうちに楽しんでおけ、少年」
カインの低い声が、ルカの背中を打つ。
ルカは振り返り、嘲笑を浮かべた。
「あんた、まだ『お人形』に未練があるのか? 騎士なら、真実に従うべきだろ?」
ルカが掲げたのは、あの銀の印章。
カインはそれを一瞥もしないまま、冷たく言い放った。
「私は、あの子に『王子の型』を教えた。あの子の指先に宿る気品は、その印章よりも遥かに重い。……化けの皮を剥いでやる。私が、この手でな」




