第一章10 地井義正の解決法
佐藤さんは、自身の幸せに疑問を感じていると……そういうことだろうか。
「私の人生は期待に応える人生でした。若いときは親の、年を取ってからは妻や子供達の期待に。そして、それでいいと思っていた。人に必要とされる自分を演じることは心地好いことでしたから。ただ……」
佐藤さんの瞳は揺れていた。
きっと僅か二十年そこらしか生きていない俺では、とても計り知れない感情で揺れている。
「死ぬときになって、誰の期待にも応えられなくなる時になってようやく、自分の人生について考える機会を得ました」
佐藤さんの揺れる瞳は俺を見ているようで、きっと俺以外の何かを映している。
「そう、私は何のために生きたのだろう」
老人の口から、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「自分が自分の人生に望んだものが分からない。いや、おそらく……それに向き合ってこなかった。だから今際の際に立った時に、漠然と自分にはもっとやるべきことがあったのではないかなどという無益な思考にとらわれてしまった……」
「なにか心残り、というか……やりたいことなどがあったのでしょうか」
何か思いつくなら、それを達成させるという形で現世への未練を断ち切り、転生させることができるかもしれない。
とはいえ話を聞く限り、そんな分かりやすく成仏できるような心残りがあるかと言われると、難しいような気もする。
「思いつかないのです」
佐藤さんは自嘲するようにふっと笑った。
「特筆するべきものがなかった私にとって、欲しいと思ったものが手に入ることは稀でした。初恋の人、部活動での活躍、会社での出世、ギャンブル、宝くじ、株、仮想通貨……」
こやつ途中から一攫千金を狙っているな。
「だからはじめから期待しない、諦めることが当たり前になっていた。……期待することがなければ失望することもないと思っていたのかもしれません」
傷つく可能性があることを遠ざける。それは、ある種人間の本能のようなものだろう。それを一概に悪いことだとは言い切れないのではないだろうか。
「今になってそんな人生の正しさを考えているということは……まあ私にとって、私の人生は正しくなかったのだろうという結論に傾きつつあるということでしょうな」
自分の人生が正しくない、か。
「もっと求めるべきでしたかな。なんでしょう、例えばもっと素敵な女性を探すとか」
あれ? さっき自分の奥さんは素敵な人みたいなこと言ってなかったっけ。
「妻に不満があるわけではありませんが、正直に言えば若くてキャピキャピしたギャルがタイプだったのではないかと」
この爺さん急にギャルとか言い出したよ。
「いや、今風に言えば”ぎゃう”ですか」
なめんな。
「まあそういうわけで。何が欠けているか分からず、何を求めているかも分からない。しかし満足することができずにさまようこととなった愚かな老人が一人というわけですな」
老人はくつくつと笑う。
「成仏もできずこの部屋に来たということは、自分で思っているよりもこの欠落感とでも言うべき感情は大きいのでしょうな。なんというか……情けないことです」
なんとなく、目の前の老人――佐藤さんが抱える心残りの形が見えてきたような気がする。
おそらく、自分の人生に結論を出せないのだ。正しいと信じてきたものを最後の最後で信じきれず、かといってそんなものかと自分の人生を諦めることもできないでいる。
「…………」
なんと声をかけられるだろうか。
「………………」
俺の喉は何かがつっかえてしまったようになってしまい、どうにもこうにも震えなかった。
しかしそう、何かを言わなければならないのだが……。
「あなたは正しかった」
地井さんが唐突に言い放った。
腕を組み目を瞑っていた地井さんは、いつの間にかその双眸をしかと開き、強く真摯な視線を佐藤さんに向けていた。
「正しいと、それは異なことを仰る」
佐藤さんは当然と言うべきか、懐疑的な表情をしていた。
「正しいとも。あなたは正しく生き、正しく死んだ」
「なぜそう言い切れるのです。私の人生はお話しした通りですが……」
「自明のことだ」
地井さんは巌のような口ぶりで言葉を続けた。
「佐藤さん。あなたは大きな罪を犯さず、妻を愛し、子を愛し、親を愛して、隣人を愛した」
「期待に応える、ということを“愛する”と言い換えるのであれば確かにそうかもしれませんな。ただ……」
佐藤さんの顔は悲し気でもあり、縋るようでもあった。
「ただ……私にはわからない。私の人生は、私の幸福はどこにあったのだろうかと。人の期待に応えることが、私の本当の望みであったはずがない」
人は自分本意な生き物のはずですから……と、佐藤さんは続けた。
人の期待に応えることが幸せなどという人間はありえないと、そう言いたいのだろうか。
それは……そういう面もあるのかもしれないが、少しばかり寂しいことのような気がした。
「それがどうしたというのだ」
取るに足らないものを蹴り飛ばすような口調だった。
「佐藤さん。あなたは多くの人が正しいと認める生き方をしてきた。よく学び、懸命に働き、伴侶を得て、子を育て上げた。それは大多数の人々が無意識の内に認める正しさであり幸福だ」
「しかし、そこに私の望みは……」
「些事に過ぎん」
冷たく言い放った地井さんに対し、さすがの佐藤さんもやや気色ばんだようだった。
「なにを……」
「あなたは正しかった。人間という種が、数十億の無意識がそう認めている。あなたのような人生が幸せな人生だと。それに対しあなたの疑念など些末なことだ」
そして地井さんはなにかを断ち切るように、断言した。
「――佐藤さん。あなたは正しく生き、幸福に死んだのだ」
有無を言わさない、当然のことを当然に伝える……そんな口調だった。
「………………」
佐藤さんはしばらくの間、何か考え込み、唸り、悩んだ挙げ句――
「……そうか、私は正しかったのか」
目を離したつもりはない。
新入社員として能力は及ばずとも勤勉な姿を見せるべく、佐藤さんの一挙手一投足に集中していた。そのはずだった。
しかし佐藤さんはいつの間にか消えていた。
そういうわけである。
***
「勉強になりました」
二人きりになった転生の間にて、なんとなく沈黙に耐えかねた俺は、地井さんに話しかけた。
勉強になったことは事実だ。事実だが、少なくとも今の俺に地井さんのようなやり方はできないだろう。新米が真似るには少しばかり難しい内容だった。
ただその上何か、少しだけ違和感が残っているような気もする。
はて、俺は何が引っ掛かっているのだろうか。
「――やはり、オレにこの部屋の職務は向いていないな」
そんな俺の内心を読んだわけではないだろうが、地井さんはそう呟いた。
「なぜですか?」
佐藤さんは地井さんのやり方で満足したのではないか。だから未練を自ら断ち切った。
「佐藤。彼は正しかった。正しく生きた。その終わりに迷いを覚えこの部屋に来たようだったが、自分で悩み、考え、結論を出して潔く去った。そう、正しく死んだのだ」
そして地井さんはその手助けを行った。
「しかし」
地井さんはどうも納得いっていないらしい。
「……オレは彼が正しいと思ったから、そう伝えた。いや、断言した。正しさは自由なものだが、それ故に押し付けることもできる。そうやってオレは彼に未練を断ち切らせたのだ」
地井さんは苦い声色とは裏腹に、常と変わらない毅然とした歩き姿で部屋を出る。
「彼は正しかった。しかし彼に正しさを押し付けたオレは、果たしてどうだったのだろうか」
そして先輩は去り、ぱたんと扉の閉まる音がした。




