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おやすみ、良い子の悪い夢  作者: 黒羊ねむり
第二幕 人間はなかなか懲りない

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7/9

嘘つきの鏡

挿絵(By みてみん)

昔々、怒りっぽい男がおりました。


友人が約束に遅れると、怒鳴りました。

早く来ると、まだ支度ができていないと怒鳴りました。

ぴったりに来ると、戸の叩き方が気に入らないと怒鳴りました。


「お前のために言っているんだ」


男は、いつもそう言いました。


友人たちは、初めのうちは謝りました。

そのうち、黙るようになりました。

やがて、訪ねてこなくなりました。


最後まで残っていた友人は、ある雨の日、男に傘を届けに来ました。


「帰りに困ると思って」


男は傘を開きました。


端に、小さなほころびがありました。


「こんなものを、わざわざ持ってきたのか」


「ほかの傘は、家族が使っていてね」


「わしには、破れた傘で十分だということか」


友人は、しばらく戸口に立っておりました。


それから傘を持ち直し、雨の中へ帰ってゆきました。


男は戸を閉めました。


「まったく、気の利かんやつだ」


次の雨の日には、誰も来ませんでした。


晴れた日にも、来ませんでした。


男は一人で食事をし、一人で茶を飲みました。


向かいの椅子に座る者がいないので、腹の立つことは減りました。


けれど、話したいことも、聞いてくれる者がいなくなりました。


ある朝、男は鏡に向かって言いました。


「みんな、わしを誤解しておる」


鏡には、眉間にしわを寄せた男が映っておりました。


「こんなに優しい人間なのに」


すると、鏡の中のしわが、一本消えました。


男は顔を近づけました。


指で眉間に触れました。


指には深いしわが触れるのに、鏡の中では、なめらかになっておりました。


「わしは、一度も怒ったことがない」


もう一本、消えました。


男は長いこと鏡を眺めておりました。


それから、久しぶりに笑いました。


翌日、男は隣の村へ出かけました。


そこには、男を知る者がおりませんでした。


茶屋で向かいに座った客へ、男は穏やかな声で話しかけました。


「私は、人と争うのが苦手でして」


客は、にこやかにうなずきました。


「腹を立てるくらいなら、こちらが折れることにしております」


家へ帰って鏡をのぞくと、つり上がっていた目元が柔らかくなっておりました。


次の日、男は市場へ行きました。


「困っている人は、必ず助けます」


そう言うと、物売りの女が感心しました。


「立派な心がけですね」


鏡の中の口元が、優しくなりました。


「子どもには好かれる方です」


頬に、温かみが差しました。


「友人を何より大切にしています」


背筋が伸びました。


男は、だんだん鏡の前にいる時間が長くなりました。


どうやら、この鏡は本当の自分をわかっている。


そう思うと、嬉しくてたまりませんでした。


やがて男は、隣の村へ引っ越しました。


古い家からは、鏡だけを大切に包んで持ってゆきました。


新しい家には、人が訪ねてきました。


男は茶を出し、自分がどれほど親切に暮らしてきたか話しました。


道に迷った旅人を泊めた話。

飢えた子どもに、自分のパンを与えた話。

友人の借金を、黙って肩代わりした話。


どれも、聞いた者の胸が温かくなる話でした。


話に出てきた旅人も、子どもも、友人も、誰一人、訪ねては来ませんでした。


「よいことをしても、名乗らぬことにしているのです」


男がそう言うと、人々はますます感心しました。


その村には、男の立派な話を知っている者が大勢おりました。


男の昔を知っている者は、一人もおりませんでした。


ある日、客が茶碗を落としました。


床に、かけらが散りました。


男は椅子から立ち上がりました。


顔が熱くなりました。

喉まで、大きな声が出かかりました。


そのとき、壁の鏡が目に入りました。


鏡の中には、穏やかに微笑む紳士がおりました。


客たちが、男を見ておりました。


男はゆっくり腰を下ろしました。


「気になさらず。私は、物に執着しませんので」


客は何度も礼を言いました。


その晩、鏡の中の紳士は、これまでで一番立派に見えました。


ただ、右手の小指が、少し透けておりました。


男は鏡を磨きました。


変わりませんでした。


翌朝には、指先が見えなくなっておりました。


男は右手を振りました。


鏡の中の紳士も手を振りました。


小指だけが、ありませんでした。


男は布をかけました。


けれど、その日の夕方には、また布を外しました。


自分の顔を見ずに一日を終えるのは、どうにも落ち着かなかったのです。


村人から褒められるたび、男は新しい話をしました。


「昔から、誰かの役に立つのが喜びでした」


鏡の中で、両手が薄くなりました。


「人を恨んだことなどありません」


肩の向こうに、壁の模様が見えるようになりました。


「私は、誰に対しても正直です」


紳士の胸を通して、椅子の背が見えました。


それでも顔は、美しいままでした。


男は顔だけを見ることにしました。


ある朝、男が鏡をのぞくと、そこには誰も映っておりませんでした。


寝台がありました。

椅子がありました。

窓から差す光もありました。


男だけが、おりませんでした。


男は鏡の前で腕を振りました。


跳びました。

口を開けました。

両手で頬を叩きました。


音はしました。


鏡の中では、何も動きませんでした。


「わしだ」


男は言いました。


「ここにいるのは、わしだ」


名前を言おうとしました。


口は開きました。


けれど、続く言葉がありませんでした。


男は机へ駆け寄りました。


引き出しを開け、手紙をつかみました。


そこには、確かに名前が書かれておりました。


村へ移ったとき、立派に聞こえるよう、自分で選んだ名前でした。


その前は、何と呼ばれていたのでしょう。


母親は。

子どもの頃の友人は。

雨の日に傘を届けてくれた、あの男は。


男は、その友人の名前も思い出せませんでした。


家を飛び出し、親しくしている者たちを訪ねました。


「私は、どんな人間だ」


人々は驚きましたが、すぐに笑いました。


「誰よりもお優しい方ですよ」


「困っている人を、必ず助ける方です」


「一度も怒ったことがないのでしょう?」


どれも、男が話したことでした。


「そうではない。その前は」


「昔から、そうだったとおっしゃっていたではありませんか」


男は、何も言えなくなりました。


人々は心配して、男を家まで送ってくれました。


温かい茶をいれ、椅子に座らせました。


「いつも人のことばかり考えて、疲れたのでしょう」


男は茶を受け取りました。


否定する言葉を、見つけられませんでした。


それからも男は、その村で暮らしました。


人に会えば微笑みました。

褒められれば、静かに頭を下げました。


腹が立つことがあっても、誰よりも優しい紳士なら何と言うだろうと考えてから、口を開きました。


いつしか、それが腹立たしさなのか、悲しさなのかも、わからなくなりました。


鏡には、布をかけたままにしておきました。


男が死んだとき、村人たちは立派な葬式を出しました。


墓には、立派な名前が刻まれました。


その下に、こう添えられました。


――生涯、誰にでも優しかった人。


葬式に来た人々は、みんな、その紳士をよく知っているつもりでした。


亡くなった本人だけが、最後まで、自分が誰なのか知りませんでした。

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