2「エステル」
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エステル。懐かしい名だ。
最後に会ったのは魔王討伐の式典の数日後。王都で別れて以来、彼女からの手紙は二度目だった。
一度目は、魔王討伐から一年後。
近況を知らせる手紙だった。彼女は勇者として王都に残り、魔王なき世界を立て直ため平和の象徴として各地を回っている。
忙しいが私たちが勝ち取ったものを見られて充実してる、と書かれていた。
俺は簡単な近況報告だけを短く書いた気がする。改まって手紙を書くとなると、なにを書けばいいのかわからなかった。
その時以来の手紙だ。
俺は家に入り居間ではなく寝室の机に腰を下ろした。寝室にした理由はとくにない。なんとなくだ。
封筒を開けると中には一枚の便箋が入っていた。
『アレンへ。
お元気ですか。私は元気です。
突然の手紙でごめんなさい。
さっそくですがこの度王都では、魔王討伐三周年の記念式典を行う運びとなりました。あなたにもぜひ出席してほしいという声が上がっています。
もちろん、無理にとは言いません。
けれど私個人としては、あなたに会いたいです。
あれから三年が経ちました。世界は少しずつ、本当に平和になっています。
子供たちは夜を怖がらずに眠れるようになり、街道には商隊が戻り、北の砦の兵士たちが畑を作り始めたそうです。
全部、あなたがいてくれたからです。
あなたがいなければ、私は魔王城の門にたどり着くこともできませんでした。
もし少しでも時間があるなら、王都に来てください。
式典でなくても構いません。人の少ない場所で、少し話ができればそれでも。
私はあなたにちゃんとお礼を言えていない気がしています。
あなたに会いたいです。
お返事、お待ちしています。
エステル』
読み終えて便箋を机に置いた。白い紙に窓から差し込む夕暮れの光が長く伸びている。風が吹き庭の薬草のにおいを運んでくる。……ちょっと枯れた匂いがする。
エステル——王都に行けば彼女に会える。
彼女だけじゃない。旅をともにした仲間たちも集まるだろう。
机に置いた白の便箋を眺めていた。丁寧な文字。上質な紙には端に朱色の縁飾りが入っていて、その色が彼女の髪を思い出させた。
返事を書かなければならない、と引き出しから紙を取り出した。
ただ改めて書くとなるとなにを書けばいいか、やっぱりわからない。
ひとまずペンを取ろうと手を伸ばす。右手を伸ばしかけて手を止めた。
手のひらを見つめてゆっくり握る。開く、握る、開く。
動いた。痺れも震えもない。見た目にも問題ない。昼間、カゴを落としたことが嘘だったように自然に動いた。
余計、気味が悪い。
完全に壊れてくれれば、諦めもつく。けれどそうではない。動く。動いてしまう。だからまだ大丈夫だと思いたくなる。
現実から目を背ける理由が、増えていく。
再度、右手をペンへ伸ばした。一瞬の遅れがあった気がしたが、何事もなくペンを掴めた。
『エステルへ
お久しぶりです。
手紙ありがとう。』
そこまでは書けて、次が続かなかった。
こっちも元気にやっている——そう書こうとして、手が止まる。
嘘ではない。少なくともそう答えるぐらいの元気はある。
診療所を開けることもできるし、子供の擦り傷を治すこともできる。畑仕事で痛めた腰を診ることだってできる。
けれど昼間、右腕はカゴを支えられなかった。
俺は一度ペンを置いて、エステルの手紙を読み返す。
『全部、あなたがいてくれたからです』
違う。全部、君たちがいたからだ。勇者が前に出た。剣聖が道を開いた。賢者が術を組み上げ、聖女が祈り、大盾が俺たちを守った。
俺はその背中を見つめて——ただ、傷を治していただけだ。
そう書けばよかった。けれど書けなかった。それもまた嘘だったから。
治していただけではない。治すたびに誇らしかった。誰かが俺を呼ぶたび、胸が熱くなった。
『アレン』——仲間が俺の名を呼ぶ声を、俺は今でも覚えている。
◇ ◇ ◇
北の山脈は、一面が白だった。吹雪の中で俺たちは初めて魔王軍の幹部と相対した。
黒い四本の腕がそれぞれ異なった形の刃を振るうたび、雪と血が同じように舞う。その戦いでエステルは右腕を失いかけた。
エステルは誰よりも前に出た。いつもそうだった。
彼女は怖がらないわけではない。旅に出て初めての戦闘の後、治療しようと掴んだ彼女の手は震えていた。
痛みを知らないわけでもない。森の鋭い葉で指先を切ったときには、涙を見せていた。ただそれでも前に出る。そんな少女だった。
俺はそんな彼女の背中を、何度も見ていた。
敵の攻撃は鎧すらも斬り裂く。それでもエステルは聖剣を握りしめ果敢に踏み込んだ。
それは鎌が振り下ろされた瞬間だった。剣聖が叫んだ。大盾の彼が走った。けれど、間に合わなかった。
鎌がエステルの鎧を貫いて、右腕に大きな裂傷をつくった。鮮血が一面の白を赤く染める。彼女の聖剣が手から落ち、雪に鈍い音を立てて突き刺さる。
「エステルッ!」
誰の声だったのか分からない。俺だったかもしれない。
エステルは倒れなかった。倒れず、左手で剣を拾おうとした。
「……まだ、戦える」
彼女が絞り出したその言葉は苦痛を押し殺していた。無理だ。右腕は垂れさがっている。血が止まらない。刃に呪いが乗っている。
普通の治癒では足りない。止血だけでは間に合わない。
分かっていた。
そのときの俺は、まだ確信があったわけではない。ただ、嫌な予感はあった。
これを治せば、自分に何かが返ってくるかもしれない。そんな考えが、頭の隅をかすめた。
「——っ!」
それでも俺は走りだした。
「下げろ!」
俺が叫び駆け出すと、仲間たちが前に出て陣形を組み替える。大盾の彼が敵の射線を切り、剣聖がエステルを引きずるように後ろへ下げた。俺はその陰へ滑り込んだ。
「エステル、腕を」
「……アレン」
彼女が俺を見上げる顔は青ざめていたのに、目だけはまっすぐだった。
「ごめん。お願い」
その声はひどく静かだった。
俺は彼女の右腕に両手をかざし、魔力を流し込む。傷を塞ぐ。肉をつなぐ。骨を戻す。呪いを押し返す。
治れ。
治れ。
治れ。
勇者を立たせるのが、正義の魔法使いだ。
光があふれ、徐々にエステルの腕がつながっていく。裂けた筋肉が戻り、血が止まり、血色が戻っていく。
「ありがとう」
そう言って笑ったエステルは聖剣を握りしめ、再び敵に向かっていった。
あの時、俺は本当に救われた気がした。彼女の腕が戻ったからではない。彼女がまた前に進めるようになったからでもない。
俺の魔法が、勇者を立たせたからだ。
「アレンがいてくれるなら、私はまだ立てる」
その言葉がどれほど嬉しかったのか。
俺はいまでも思い出してしまう。
いまでも彼女の腕を治したことを後悔していない。
◇ ◇ ◇
気づけば部屋は闇に包まれていた。右手の中でペンが少し曲がっていた。どうやら強く握りすぎていたらしい。
窓の外では星が瞬いていた。この村は王都よりも星が綺麗に見える。部屋に明かりを灯し、もう一度机に向かった。
『エステルへ。
お久しぶりです。手紙ありがとう。
魔王討伐記念式典へのお誘い、とても光栄に思います。
ですが、今回は欠席させてください。
村の診療所を離れることが難しく、また、長旅に耐えられるかも分かりません。
せっかく声をかけていただいたのに、申し訳ありません。
世界が平和になっていることを、遠くから嬉しく思っています。
どうかお身体に気をつけて——』
そこまで書いて、俺は止まった。
まともな文章で失礼ではない。嘘も少ない。村の診療所を離れづらいのは本当だ。長旅に耐えられるか分からないのも本当だ。
けれど、一番大事なことが書かれていなかった。
会いたい。
その一言だけが、どこにもなかった。
俺は便箋を見つめた。右手で書いた文字はいつも通りの形をしている。エステルに比べたら汚い字だが、読めないほどではない。
この返事を出せばいい。王都には行かなくていい。そうすればエステルに右腕を見られずに済む。
それでいいはずだった。
いつかのエステルの声が蘇ってきた。
『怖くないよ。アレンが後ろにいてくれるから』
その瞬間、俺は便箋を破っていた。一度破ると止まらない。細かく、細かく、読めなくなるまで破った。部屋に紙くずが舞った。
新しい便箋を出すと、今度は右手ではなく左手でペンを持った。慣れないせいで、インクが少しにじんでしまった。
『行きます』
たった一言。子供の書き取りのようで、ひどく歪んだ文字だった。けれど嘘ではなかった。俺はその一行を見つめて、しばらく動けなかった。
今なら、まだ会える。
見ないふりをしている。
見ないふりができなくなる前に。
仲間に会いたい。
会って、なにを話すのかは分からない。けれど会わないまま終わることだけは、できなかった。
封筒に便箋を入れ、宛名を書こうとしてもう一度だけ右手を見た。
握って開く。動いた。
だから俺は、まだ大丈夫だと思うことにした。




