1「勇者からの手紙」
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ドテン、と大きな音がして振り返ると、子供が転んでいた。
村の広場の端。木箱の近くで木剣を握った六、七歳の男の子が地面にうつ伏せに倒れている。向かいには、同じ年頃の女の子が立っていて、こちらも木剣を持っている。
顔には勇者のお面と魔王のお面。どうやら勇者ごっこの最中だったらしい。
「う、うう……」
男の子は膝を押さえながら、泣くのを必死にこらえていた。
俺は近づき、腰を落とす。
「見せてごらん」
「せ、先生……」
すり傷だ。少し血がにじんでいるがそれだけ。これなら問題ない。
左手を傷口にかざすと、淡い光が子供の傷口を包んだ。すると傷口がゆっくりと閉じていく。赤みが引いていき、またたく間に転んだ跡さえ残ってなくなった。
「はい。もう大丈夫」
男の子は目を丸くして、自分の膝を何度も撫でた。
「すげえ……! やっぱり先生、勇者様の仲間だったんだ!」
「すり傷を治しただけだよ」
「でもすげえ!」
女の子が寄ってきて、少し不満そうに頬を膨らませる。
「次、わたしが勇者役ね。ルカばっかり勇者やるのずるい」
「だって俺の方が強いし」
「今、負けたじゃん。せかいほろびましたー」
「立ち上がるまでが勇者だろ!」
二人はすぐに言い合いを始めた。膝の痛みなど、もう頭のどこにもないらしい。それでよかった。立ち去ろうとすると、背中に声が飛んでくる。
「ありがとう、先生!」
「どういたしまして。あまり井戸の近くで走らないように」
振り返り左手を振る。二人は「はーい!」と返事だけは元気にして、今度は広場の中心へ駆けていく。
その背中を見送りながら俺は手を下ろし、進もうとしたところで声をかけられた。
「先生、この前はありがとね」
農婦がカゴを抱えながらこちらへ歩いてきていた。カゴの中にはまだ土のついた野菜が山のように入っている。
「いいえ、腰の具合はどうですか」
「おかげさまでね。畑仕事もだいぶ楽になったよ。今年の野菜、期待しててよ」
「それは楽しみですね」
「今年は南の畑も広げるんだ。うちの人が張り切っちゃってねえ。来年には倉も一つ増やすって言ってるし——」
来年。その言葉を村人たちは当たり前のように口にする。
魔王が勇者に討たれて三年。村人たちは未来の話をしている。顔が上を向いていて、生気に溢れていた。今年の野菜、来年の倉、再来年の祭り、子供が大きくなったら誰に畑を継がせるか。そんな話を当然のように話す。
平和になった。俺たちの旅は無駄ではなかった。村を歩くたび、そう思える。
「先生もうちに食べに来なよ。採れたてを煮込んであげるから」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
農婦が笑う。その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなった。
この村に来てよかったと思う。誰かの明日の話を聞きながら静かに暮らす。
怪我をした子供を治し、腰を痛めた老人を診る。
『元勇者パーティー』という肩書きは、この村では大げさな昔話だ。
それくらいでいい。それくらいが俺にはちょうどよかった。
「そうだ! これ、持っていってよ」
農婦が手に持っていたカゴを俺に差し出した。
「代金を」
「いいっていいって。先生には世話になってるんだから」
「ですが——」
「こういうのは受け取っておくもんだよ」
そう言われてしまうと断りづらい。俺は礼を言って、野菜を受け取ろうとした。
腕を伸ばして野菜を受け取る。
はずだった——。
ごとり、ごとりと野菜が地面に落下する。じゃがいもがひとつ割れた。
受け取ろうとした右手に力が入らず、カゴを落としてしまった。
農婦の顔から笑みが消え、うかがうように俺を見る。
「おいおい、大丈夫かい先生? 疲れてるんじゃないか?」
「……ははは、かもしれないですね」
「まったく、心配させないでおくれよ」
農婦はしゃがんで野菜を拾い始める。俺もしゃがんで左手で野菜をカゴに戻し、左腕でカゴを抱え上げた。
右腕はただ垂れ下がっていた。感覚はあるし指先もまだ動く。腕を上げることも、まだできそうだ。
「最近、働きすぎなんじゃないのかい? 先生はすぐ無理するから」
「大丈夫です。少し休めば戻りますよ」
「ならいいんだけどねぇ」
少し休めば戻る。そうでないことは俺がいちばんわかっている。そう思えた時期はとっくに過ぎているのだから。
目を背け続けてきたことが現実になった。
農婦はそれ以上追及しなかった。心配そうに眉を寄せながらも、「ちゃんと寝るんだよ」と言い残して去っていく。
俺は野菜を抱えたまま、広場の隅に立ち尽くした。
子供たちはまだ勇者ごっこをしている。いつの間にか大人数に増えていた。
「魔王め、覚悟しろ!」
木剣がぶつかり合う乾いた音がする。
勇者。その言葉を聞くたび、胸の奥がわずかに軋む。
かつて俺は本物の勇者のとなりにいた。彼女はいつも前に出た。誰よりも先に魔物の群れへ飛び込み、誰よりも深く傷ついた。
それで振り返ると笑うのだ。「アレンが治してくれるから戦える」と。俺はその信頼が嬉しかった。
「勇者様、こっちです!」
「いざ、参る!」
勇者と魔王だけでなく、剣聖、聖女、賢者、大盾の彼の役までいた。
そしてその最後尾に——回復術師がいた。
彼は正義の魔法使いになれたのだろうか。
◇ ◇ ◇
家に戻る頃には、空が茜色に染まり始めていた。
今日の散歩もなかなか時間がかかった。村を歩くたび、村人に声をかけられるから。嫌ではない。
彼らの瞳を見ていると、俺も英雄譚の中の一人になれた気がするから。
診療所を兼ねた家は村の外れにある。ほかの家と特に代わり映えのない石造りの建物。
庭には薬草を植えているが、手入れはほとんどできていない。
薬草がなくても回復魔法があるからどうとでもなると考えてしまうのは、傲慢な考えなのかもしれない。
家に入ろうとして、ふと足を止めた。
珍しくポストになにか入っていた。抱えたカゴを置いてからポストの中を確かめた。白い封筒だ。上質な紙。村ではまず見ないものだ。
表には丁寧な字で俺の名が記されている。
差出人を見た瞬間、息が止まった。
『エステル・アーデライト』
それは、三年前に共に戦った勇者。彼女からの手紙だった。




