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第九話 船を作る

オオカミ岩で獲れる魚は、やがてコタの名物になった。


「オオカミ岩産、獲れたてだよ!」


久しぶりに活気を取り戻した魚市場には、近隣の島からも商人が訪れるようになった。


魚を求めて、人が集まる。

人が集まれば、物が集まる。

物が集まれば、情報が集まる。


そして、少しずつ新しいものが生まれ始めた。


ある日、スカラは木灰から取った灰汁と、ココナッツから搾った油を混ぜ始めた。


「何作ってるの?」


「石けんだ」


「石けん?」


「汚れを落とす道具だよ」


アルスは半信半疑で鍋を覗いた。


「……まだ?」


「まだ」


しばらくして。


「もういい?」


「まだ」


「腕、疲れたんだけど!」


「頑張れ」


「スカラも交代してよ!」


「私は火加減を見ている」


「絶対そっちの方が楽じゃん!」


やがて混ぜ合わせたものが固まり始め、スカラは小さく切り分けた。


一か月後。

市場には、香りの違う石けんが何種類も並んでいた。


「スカラさん!虫が嫌がる草を入れてみたの!」


「こっちは油の配合を変えてみたらお肌がすべすべになったの」


気づけば、スカラの知らない石けんまで売られるようになっていた。


三か月後。

港には何基もの簡単なクレーンが立っていた。


「よく思いついたな」


「アルスのおかげだよ」


漁師が笑った。


「こいつが、滑車を二つ組み合わせればもっと軽くなるって言い出したんだ」


「……アルスが?」


スカラは振り返った。


アルスは照れくさそうに頭を掻いた。


「いや、車輪も滑車もスカラに教わったものだよ」


「それでも」


スカラはもう一度、クレーンを見た。


「私は、この組み合わせを教えていない」


「……そうだっけ?」


「そうだ」


アルスは笑った。


「じゃあ、俺が考えたって事!?」


「……ああ」


スカラも小さく頷くと、しばらくクレーンを見上げていた。


それから、


雨期が来て、乾季が来た。


港の子どもたちは背が伸び、魚市場には新しい店が並んだ。


スカラが名前を覚えたばかりの赤ん坊が、いつの間にか市場を走り回っていた。


その間も、スカラは船を造り続けていた。


木材を替え、帆を改良した。職人たちと何度も試験を繰り返して、失敗するたびに新しい方法を探した。


けれど。


北へ向かう船だけは、どうしても完成しなかった。


そして、三年が過ぎた。


カーン!


カーン!


カーン!


港の工房から、金槌の音が響いていた。


クレーンの向こうに、巨大な船体が姿を現していた。まだ板を張っていない部分から、太い肋骨が覗いている。


「おお!来た来た!」


アグレオが手を挙げた。


「待ってたんだよ!」


スカラは船体を見上げた。


大きい。


三年前、浜に転がっていた船とは比べものにならない。


近づいて竜骨を撫で、木と木の接合部を確かめる。船体を支える肋骨へ指を滑らせた。


「……すごいな」


「だろ?」


「竜骨の接合部にほとんど隙間がない。肋骨も、木の癖を読んで曲げている」


スカラはアグレオを見た。


「素晴らしい出来だよ」


「へへっ」


アグレオは鼻の下を擦った。


「こいつがあれば、もっと遠くまで漁に出られる。いつかは、嬢ちゃんを大陸へ連れていけるかもしれねぇ」


「……」


スカラは静かに頷いた。


だが、その顔を見てアグレオは察した。


「そんな顔するなよ」


「?」


「分かってるって。これでもまだ、“吠える海域”は越えられねぇんだろ?」


「……ああ」


スカラは船板の隙間を指した。

そこには麻が固く詰め込まれている。


「この方法は理にかなっている。麻が水を吸って膨らめば、隙間を塞いでくれる」


「昔っからの漁師のやり方だ」


「いい技術だ。ただし、船体が激しくねじれ、隙間が広がり続けるような航海では、それだけに頼るのは危険だ」


アグレオは腕を組んだ。


「……やっぱりか」


「もっと水に強く、船の動きにも追従できる防水材が必要になる」


「樹脂とかってやつか?」


「ああ」


スカラは船板に触れた。


海水を防ぎ、木材の動きに合わせて伸び縮みするもの。


知識の中には、いくつも候補がある。


だが、この島で安定して手に入れられるものは、まだ見つかっていない。


三年。


村の暮らしは驚くほど変わった。


港にはクレーンが並び、市場には見たこともない商品が増えた。


それなのに、北の海はまだ遠かった。


「なぁ、スカラ」


アグレオが声をかけた。


「?」


「スカラは、俺とアルスの命の恩人だ」


照れくさそうに頭を掻く。


「だから望むことなら、何でも叶えてやりたいと思ってる。もちろん、大陸にも渡らせてやりたい」


少し間があった。


「でもさ」


アグレオは船ではなく、スカラを見た。


「万が一でも、コタに残るって選択肢はねぇか?」


「……」


「ここで暮らすのも悪くねぇぞ。気候もいい。飯もうまい。村の連中もみんな嬢ちゃんを頼りにしてる」


アグレオは笑った。


「アルスも、すっかり懐いてるしな」


スカラは巨大な船を見上げた。


三年。


書院で過ごしていた頃なら、一瞬のように感じただろう時間。


だが、この三年にはたくさんの顔があった。


石けんを初めて作った時、嬉しそうに笑った女性。


クレーンを完成させ、自慢げに胸を張った職人。


魚が獲れた日、港で抱き合って喜んでいた漁師たち。


そして。


いつも隣にいた、あの少年。


それでも。


「ない」


スカラは言った。


「私に、その選択肢はない」


「……そうか」


アグレオは、それ以上何も言わなかった。


その時。


「スカラ!」


背後から声がした。


振り返ると、アルスが走ってくる。


三年前にはスカラより低かった目線が、いつの間にか同じくらいの高さになっていた。


「こんなところにいたの?市場に買い出し行こうよ!」


「ああ」


スカラはアルスを見上げた。


「また背が伸びた?」


「え?」


「前に測った時より、二センチほど高い気がする」


アルスが笑った。


「いつの話だよ。それ、半年くらい前だよ!」


「そんなに経った?」


「経ったよ!スカラって時間の感覚おかしいって」


「そうかな」


「そうだよ」


アルスは先に歩き出した。


「ほら、早く!」


スカラはその背中を追った。


肩幅が広くなった。歩く速さも変わった。


昔は自分の後ろをついてきた少年が、いつの間にか前を歩いている。


なのに、スカラ自身は何も変わっていないような気がした。


「……」


ふと、足を止める。


「アグレオ」


「ん?」


「船の防水については、まだ方法がないか考えてみる」


「おう」


「それと」


スカラは一度、アルスの背中を見た。


「アルスは優秀だ」


「……」


「この三年で、私が教えなくても自分で考えるようになった」


スカラは淡々と続けた。


「私がいる間に、できるだけ多くの知識を伝えておく。そうすれば、私がいなくなった後も、コタは大丈夫だ」


アグレオは答えなかった。


「じゃあ、また後で」


スカラはアルスを追いかける。


「スカラ、遅い!」


「今行く」


アルスが差し出した籠を、スカラは片手で受け取った。


二人は並んで、市場へ向かっていった。


アグレオはその背中を見送っていた。


「……嬢ちゃん」


小さく笑った。


「お前はそのつもりでも」


並んで歩く二人を見る。


「アルスは、そうじゃねぇんだよ」


アグレオは、もう一度巨大な船を見上げた。


いつか、この船が完成したら、あの少女は本当に行ってしまう。


アグレオには、それを喜ぶ息子の顔が、どうしても思い浮かばなかった。

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