第八話 恐怖の岩、恵みの岩
「うそつけ!」
港の一角で、村中の漁師たちの怒号が飛んだ。
腕の太い男たちがずらりと並ぶ前で、スカラは黒く塗った大きな板の横に立っていた。
「ドラとオロコが、同じ魚だって?」
「全然見た目が違うじゃねぇか!」
帰ろうとする漁師たちをアルスは必死でなだめる。
だが、スカラは淡々と続ける。
「背びれ、尾びれ、胸びれ。数も形も共通している
スカラは、石灰岩の白い線で描かれた二匹の魚を指した。その絵はまるで実物をそこに映し出したかのように正確だ。
「でも大きさが違う!」
「成長するからね」
「なんか話が噛み合わねぇな……」
スカラは少し眉を寄せた。
漁師たちは見るからにイライラしているが、
スカラの無愛想さがそれに輪をかける。
「はい質問!」
アルスが勢いよく手を挙げた。
「オロコがドラになるなら、その中間くらいの魚は結局どこにいるの?」
「そうだ!」
「何十年も漁してるけど見たことねぇぞ!」
スカラはアグレオにチョークを渡す。
「オロコはどこで獲れる?」
「浅瀬だ」
「ドラは?」
「沖だ」
「では、ここに海岸線を描いてくれ」
アグレオは黒板に、コタの海岸線を描いた。
「次に、オロコの漁場を」
「この辺だな」
「ドラは?」
「もっと沖。この先だ」
黒板に二つの印がついた。
「ほかに何か知っている人は?」
しばらく沈黙の後、一人の漁師が手を挙げた。
「そういや、春になると沖へ向かう小魚の群れを見ることがあるな」
「どちらへ?」
漁師が黒板を指す。
スカラが矢印を書く。
「俺も見たぞ!」
別の漁師が違う場所を指した。
「こっちの入り江からも、沖へ向かってた」
また矢印。
「待てよ……」
アグレオが顎を撫でた。
「全部、北の海に向かってねぇか?」
漁師たちが黒板を覗き込む。
コタの別々の浅瀬から出た矢印は、北へ向かっていた。
「この矢印を見る限り、オロコは成長すると北の外洋へ向かうらしい」
線が海を横切る。
「そこで大きくなり、繁殖のために戻ってくる。……もしそうなら、中間の大きさを見かけない理由も説明できる」
一人の漁師が顎を撫でた。
「たしかに俺たちの舟じゃ、北の”吠える海域”まで行けねぇからな」
アグレオが顔を上げた。
「つまり、俺たちが浅瀬で獲っているオロコは、まだ成長途中のドラなのか?」
アグレオが尋ねた。
「その可能性が高い」
スカラは頷いた。
「だから、オロコを獲りすぎない方がいい」
「……待てよ」
一人の漁師が腕を組んだ。
「そうしたら、今より魚が獲れなくなるじゃねぇか」
「しばらくは、そうなるだろうね」
「冗談じゃねぇ!」
声が上がる。
「俺たちは今日の飯にも困ってんだぞ!」
「三年後の魚のために、今日飢えろってのか!」
スカラは口を閉じた。
未来の魚を守る。その考えは正しいはず。
だが、目の前の男たちも間違っていない。
「……なるほど」
スカラは考えた。
「では、今日食べる魚を別の場所で獲れればいいんだね」
「そんな場所があるなら、とっくに行ってる!」
「一か所だけ、まだ調べていない場所がある」
スカラは黒板の地図を指さした。
「オオカミ岩だ」
広場が静まり返った。
「……冗談だろ?」
「冗談ではない」
スカラはスラスラとオオカミ岩の断面図を描く。
「前に訪れた時、岩の周囲には海藻が多かった。潮流の条件も悪くない。魚が集まる可能性がある」
「可能性って……!」
「まだ確かめていない。だから、調べる」
漁師たちは顔を見合わせた。
何人もの仲間が消えた、呪われた岩。
近づくことさえ禁じられてきた場所。
そんな場所へ、魚を獲りに行くという。
「……俺は嫌だぞ」
誰かが呟いた。
「オオカミが出るかもしれねぇんだろ?」
すると、アグレオが立ち上がった。
「俺は行くぞ」
「アグレオ!?」
「お前、本気か!?」
アグレオはニッと笑った。
「あそこから生きて帰ってきた俺が言うんだ。もうオオカミの正体も分かってる。少なくとも昔みてぇに、訳も分からず怖がる必要はねぇ」
そう言って、スカラを見る。
「なぁ、嬢ちゃん?」
「ああ」
スカラは頷いた。
「私の予測が正しいかどうかは、海に聞くしかない」
***
翌日。
南国の太陽が、容赦なく海を照りつけていた。
コタの漁船が船団を組み、海上の一点へ向かっている。その行く手に、巨大な白い岩がそびえていた。
四本の脚で海に立つ、異形の獣。
オオカミ岩。
かつて漁師たちが、名前を聞くだけでも顔を曇らせた場所だった。
「……本当に来ちまった」
誰かが呟く。
「まだちょっと怖ぇな」
スカラは岩を見上げた。
白い岩肌。海へ伸びる四本の柱。その向こうには、青く澄んだ空が広がっている。
嵐の夜とは、まるで別の場所のようだった。
「よし!準備しろ!」
アグレオが声を張った。
「まずは試し釣りだ!」
漁師たちが竿を構える。
スカラは光の地図を開こうとして、ふと手を止めた。
袖の下で、淡い光が一度だけ瞬いた。
「……?」
腕を見る。
だが、すぐに消えてしまった。
オオカミ岩を見上げる。
あの夜に感じた、何かに見られているような感覚。それが、ほんの一瞬だけ戻ってきた気がした。
「スカラさん!」
アルスが呼んだ。
「こっちでいいの?」
「ああ」
スカラは顔を上げた。
「まずは、あの柱の周辺を調べよう」
アグレオが竿を構える。
「理屈は分かったけどよ。実際に釣れなきゃ意味ねぇぞ」
「それは私にも断言できない」
「え?」
「潮の流れも魚の動きも、毎日変わるからね」
漁師たちが顔を見合わせた。
スカラは海を見る。
「だから、試そう」
次々と釣り糸が海へ落ちた。
しばらく待つ。
波の音。
海鳥の声。
誰もしゃべらない。
「……」
一分。
二分。
「……おい」
誰かが口を開いた。
「全然釣れねぇじゃねぇか」
「まだ始めたばかりだ」
アグレオが海面を見て言った。
「……この潮なら、柱の裏だ。流れがぶつかるところじゃ、餌も流されちまう。魚が待つなら、あっちだ」
スカラは柱の向こうを見た。
「なら、そこで試そう」
もう一度、竿を下ろす。
すると。
グンッ!
一本の竿が大きくしなった。
「……おっ?」
漁師が慌てて握り直す。
「来た!」
海面が割れた。
銀色の魚が、水しぶきを上げて跳ねる。
「うおおおっ!」
大きな歓声。
さらに隣の舟でも。
「こっちもだ!」
「また来たぞ!」
次々と竿がしなる。
「すげぇ!」
「本当にいた!」
静かだった海が、一気に歓声に包まれた。
アグレオが大きな魚を釣り上げ、船底へ放る。
「がははは!見ろよ!久しぶりにこんな大物釣ったぜ!」
「オオカミ岩、すげぇ!」
「こんなところに魚がいたなんて!」
漁師たちの顔に、久しぶりの笑みが戻っていた。
だが、スカラは釣り上げられた魚を見つめていた。
「おい嬢ちゃん!」
アグレオが笑う。
「まだそんな難しい顔してんのか!大当たりだぞ!これで、しばらくは食いつなげる」
スカラは釣り上げられた魚を見た。
「だが、魚が増えたわけではない。獲る場所が変わっただけだ」」
スカラは顔を上げた。
「ここで獲り尽くせば、また同じことの繰り返しになる」
漁師たちが手を止めた。
「まず、小さい魚は戻そう。それから、今日どこで何が何匹釣れたか、覚えておいてくれ」
「面倒くせぇな」
「でもよ」
アグレオが大きな魚を持ち上げた。
「またこいつが獲れなくなるのは、もっと嫌だろ?」
漁師たちは黙った。
やがて、一人が笑う。
「……そりゃそうだ!」
再び海に笑い声が広がった。
アルスは、その光景を不思議な気持ちで眺めていた。
あの日、自分はここをただ恐ろしい場所だと思っていた。
近づいてはいけない。
知ろうとしてはいけない。
そういう場所だと信じていた。
でも今は、同じ岩の周りで大人たちが笑っている。
「……すごいね」
アルスが呟いた。
「何が?」
「あの時は、オオカミ岩なんて怖いだけの場所だと思ってた」
釣り上げられた魚が、陽の光を跳ね返した。
「でも、ちゃんと知ったら、みんなが笑顔になれる場所になった」
アルスはスカラを見る。
「知識って、すごいな」
スカラは少し考えた。
「知識だけじゃない」
「え?」
「私は、この海のことを知らない。魚がいつ沖へ向かうのかも、潮がどこで変わるのかも」
笑い合う漁師たちを見る。
「それを知っていたのは、彼らだ」
スカラは続けた。
「私の知識だけでは、この漁場は見つからなかった」
アルスは少し考え、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあさ!」
「?」
「これからも、いっぱいやろうよ!」
アルスは指を折り始めた。
「魚だけじゃなくてさ。村には困ってること、まだいっぱいあるんだ。重い荷物を運ぶのも大変だし、病気になっても薬は少ないし、それから――」
次から次へと言葉が出てくる。
スカラは黙って聞いていた。
「スカラさんの知ってることと、俺たちの知ってることを合わせたら、もっと色んなことができるはず!」
アルスは嬉しそうに笑った。
「これから忙しくなるね!」
「……」
スカラは答えなかった。
アルスの向こう、遥か北の水平線へ目を向ける。
自分は、北へ行く方法が見つかれば、ここを出る。それは、明日かもしれないし、一か月後かもしれない。
その時が来れば――。
「スカラさん!」
スカラは振り返ると、少年の顔は期待でいっぱいだった。
「次は何やる?」
潮風が、金色の髪を揺らした。




