第七話 港街コタの悩み
スカラは、浜辺から差し込む光と、漁師たちの威勢のいい声で目を覚ました。
体を起こす。
開け放した窓の向こうには、コバルトブルーの海。白い砂浜を男たちが行き交い、濡れた網が朝日にきらめいている。
潮の匂い。魚を積み下ろす声。舟を叩く波の音。
コタの朝は、今日も騒がしい。
スカラは小さく息を吐いた。
この村へ来て、一か月。
北へ進む手立ては、いまだに見つかっていなかった。
三千の言語を学び、何千年分もの知識を頭に詰め込んだ。
それなのに、たった一隻の船が造れない。
世界の北の果てを目指す少女は、今もアグレオの作業小屋に居候していた。
はじまりは、コタへやって来た日のことだった。
「ところで嬢ちゃん、これから先はどうするつもりだ?」
アグレオにそう聞かれた時、スカラは質問の意味が分からなかった。
「もちろん、北への航路に乗り換えて大陸を目指す」
「……北への航路?」
「コタから出ているだろう」
アグレオは目を丸くした。
そして、大声で笑い出した。
「がははは!そりゃ何十年前の話だよ!」
「?」
「大陸までの海は、今じゃ一年中嵐が吹き荒れる“吠える海域”だ。定期船どころか、渡れる船すらねぇよ!」
「……そんなはずは」
スカラは黙った。
知識の中にある海と、目の前にある海が違う。
本は過去を記録できる。だが、本を閉じたあとも、世界は変わり続ける。
「……そのような環境の変化が」
「だから、北へ行くなんて諦めな」
「ならば、嵐に耐えられる船を造ればいい」
「……は?」
「船を造る」
アグレオはしばらくスカラを見つめた。
「ほんっと、浮世離れしてんな。嬢ちゃんは」
――とは言ったものの。
スカラは窓辺に頬杖をついた。
浜には、造りかけの船体が転がっていた。
一隻目は、波を受けて接合部が割れた。
二隻目は、防水材がうまく働かず、海水が入り込んだ。
三隻目は、まだ浮かべてもいない。
船の造り方なら知っている。
だが、本に書かれた材料が、この島にあるとは限らない。
「……足りないものばかりだ」
知っていることと、作れることは違う。
スカラは、一か月かけてそれを思い知らされていた。
「……まず、何から手をつけるべきか」
その時、扉の向こうから聞き慣れた声がした。
「スカラさん!起きてる?ご飯できたよ!」
食卓には、小魚とご飯が並んでいた。小さな焼き魚が、一人三匹ずつ。実に慎ましい朝食だ。
アグレオが魚を頭からかじりながら聞く。
「どうよ、船造りは?」
「何も進んでいない」
「即答だな!」
「事実だから」
「まぁ、悪いことは言わん。考え直しな」
アグレオは魚の骨を皿へ置いた。
「昔にも嬢ちゃんみたいに大陸を目指した連中はいた。だが、生きて帰ってきたやつはいねぇ」
「……」
「ここで暮らすのも、そう悪くねぇぞ」
返事がない。
スカラは皿をじっと見つめていた。
アルスが気づく。
「スカラさん、どうしたの?」
「この魚」
箸でつつく。
「どこを食べればいいんだ?」
「え?」
「小さすぎて、ほとんど骨じゃないか」
さらに首を傾げる。
「漁師の家なのに」
アグレオの眉がぴくりと動いた。
「お~い!タダ飯食らいのくせに!」
皿を取り上げようとする。
「没収だ!食わなくていい!」
「父さん!」
アルスが笑いながら止めた。
「スカラさん!何でも思ったことを口にしちゃダメだよ!」
「なぜ?」
「傷つくから!」
「事実でも?」
「事実なら余計に!」
スカラは少し考えた。
「……難しいな」
「そんなに難しくないと思うけどなぁ」
アグレオはぶつぶつ言いながら席へ戻った。
「そもそもな、最近はコタのどの漁師も魚が獲れねぇんだよ」
「魚が?」
「売り物になる魚は全部市場に出さなきゃならん。だから家で食えるのは、こんなちっこいのばっかりだ」
スカラの視線が、皿へ戻った。
「いつから?」
「何が?」
「魚が獲れなくなったのは」
「そうだなぁ……ここ数年か」
アルスも頷いた。
「父さんが言うには、昔はもっと大きな魚がいっぱい獲れたんだって」
「そうだよ!昔は網を投げりゃ、でっけぇ魚がバッサバッサと――」
アグレオが両手を広げる。
「最近じゃ小魚ばっかりだ。こいつらまで減ったら、いよいよおしまいよ」
スカラは小魚を持ち上げた。
さっきまで食べ方を考えていた魚を、今度は別の目で観察する。
「……市場を見たい」
「え?」
「ほかの魚も見せてくれ」
「船造りは?」
アルスが尋ねた。
「まだ分からない」
スカラは立ち上がった。
「だが、魚が減った理由なら分かるかもしれない」
コタの市場には、朝から島中の品物が集まっていた。
赤や黄色の果物。籠いっぱいの香草。陶器や布、木工品。
あちこちから値段を交渉する声が飛び、子どもたちが人混みを走り抜けていく。
十分に賑やかな市場だった。
ただ一か所を除いては。
市場の中心にある魚売り場。
空の台。乾いた籠。わずかに並んでいる魚も、どれも小ぶりだった。
「……確かに少ないな」
「でしょ?」
アルスが頷く。
スカラは魚売り場を端から端まで歩いた。
魚を見る。店主に漁場を聞く。季節を聞く。どの深さで獲れたのか。昔はどれほど獲れたのか。いつから減ったのか。
話を聞くたび、新しい情報が増えていった。
本には、魚の生態が書かれている。
だが、この海の魚が今どこにいて、どれほど減っているのかまでは書かれていない。
それを知っているのは、ここで暮らす人間たちだった。
「よっ!アルス!」
一人の魚屋が声をかけてきた。
「どうした?こんなかわいい子連れて!恋人か?」
「こ、恋人じゃないよ!」
アルスの顔が一瞬で赤くなった。
「ご、ごめんね、スカラさん!」
「……?」
「そこは何か反応してよ!」
周りの漁師たちから笑い声が上がった。
だが、スカラは別のものを見ていた。
店先に並んだ二匹の魚。
一匹は、手のひらに収まるほど小さい。
もう一匹は、その何倍も大きかった。
「これは何という魚だ?」
魚屋が指さす。
「こっちのでかいのがドラ。小さいのがオロコだ」
「別の魚なのか?」
「当たり前だろ。見りゃ分かるじゃねぇか」
スカラは答えず二匹を並べる。
大きなドラ。
小さなオロコ。
背びれを数える。
続いて尾びれの形。
胸びれの位置。
口元にある、小さな黒い斑点。
「……?」
スカラの指が止まった。
「……似ている」
「そりゃ魚だからな!」
魚屋が笑う。
「そういう意味じゃない」
スカラは二匹を見比べた。
「この二匹、本当に別の魚なのだろうか」
魚屋がまた笑った。
「別の魚に決まってるだろ!」
「ドラはどこで獲れる?」
「沖だよ」
「オロコは?」
「浅瀬だ」
スカラはもう一度、二匹を見た。
「……そうか」
「何が?」
「大きさも、獲れる場所も違う。……それで、別の名前がついたのか?」
アルスが首を傾げた。
「それって……?」
スカラは顔を上げた。
「同じ魚の、成長した姿かもしれない」
「……はぁ!?」
周囲の漁師たちが一斉に振り返って笑った。
「ドラとオロコが!?」
「いやいや、そりゃねぇだろ!」
するとアルスが二匹の魚を指差した。
「そうだとして、オロコが大きくなってドラになるなら、その間ぐらいのがいないとおかしくない?」
スカラの指が止まった。
「……浅瀬にも沖にもいないのか。それとも、私たちが見ていない場所にいるのか」
「え?」
スカラはもう一度、ドラとオロコを見比べた。
「この不漁、原因が分かるかもしれない」
「本当!?」
「ああ。ただし、まだ確かめたいことがある」
スカラは市場に並ぶ魚を見渡した。
「この魚たちが、生まれてからどこへ行き、どこへ帰ってくるのか」
アルスは首を傾げた。
「魚が……帰ってくる?」
スカラは小さく頷いた。
「もし私の考えが正しければ」
小さなオロコを持ち上げる。
「コタの漁師たちは、知らないうちに未来の魚を獲っていたことになる」




