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第六話 怖くてもやる

スカラは崖に向かって全力で駆けた。


足音が岩棚に響く。


呼吸が速くなる。


心臓が激しく脈打つ。


その瞬間、獣がこちらを向いた。


「……やはり」


スカラはさらに速度を上げる。


オオカミが追ってきた。


崖まで十歩。


七歩。


五歩。


背後から、鋭い爪が地面を叩く音。


「恐怖そのものではなく――」


三歩。


「心拍や呼吸の変化を……」


二歩。


「恐怖の兆候として検知していたのか」


一歩。


崖の縁で、スカラは急停止した。


すると、背後から黒い獣が飛びかかる。


その瞬間、スカラは身を伏せた。


巨大な体が頭上を越える。


そのまま――。


崖の向こうへ消えた。


数秒後。


遥か下から、金属が岩に叩きつけられる音が響いた。


「……アルス」


アグレオはすぐに倒れた息子の元へと駆け寄る。


「アルス!おい、アルス!」


倒れた息子を抱き起こした。


「しっかりしろ!目を開けろ!」


嵐はいつの間にか過ぎ去り、千切れた雨雲の向こうに満天の星が広がり始めている。


「心配はいらない」


スカラはそう答えると、黒焦げになったオオカミのそばへしゃがみ込んだ。


獣の瞳から、最後の青白い光が消える。


スカラはその体を裏返した。


裂けた腹から覗いていたのは、金属の骨組みと樹脂、無数の細い導線。


そこに血も肉もなかった。


「……やはり、機械だったか」


指先で焼け焦げた金属に触れる。


その瞬間。


チリッ。


何かが頭の奥をかすめた。


「……?」


スカラは反射的に自分の腕を見た。


消えたはずの光の輪が、袖の下で一瞬だけ浮かび上がり、すぐに消えた。


今のは何だ?


もう一度、黒い獣を見る。


動かない。


それなのに、なぜかこちらを見られているような気がした。


「……妙だな」


「おい、嬢ちゃん!」


鋭い声に振り返る。


アグレオがアルスを抱きかかえ、こちらを睨みつけていた。


怒っている。


「息子に何したか聞いてんだよ!」


「ああ、気づかず悪い。気を失わせた」


「……はぁ?」


「こいつらの標的にならないよう、アルスの意識を失わせて恐怖を消した。生存確率を最も高める選択だ」


スカラは淡々と答えた。

自分の計算に、何一つ誤りはない。


「気を失わせただぁ!?」


アグレオの顔が真っ赤になる。


「大丈夫。後遺症にならないよう調整してあるから」


「じゃあ、アルスは無事なんだな!?間違いねぇな!」


「とはいえ、意識が戻るまでは状態を確認する必要が――」


アグレオは答えを待たず、息子の口元へ耳を寄せた。


かすかな呼吸。胸が上下している。


「……よかった」


大きく息を吐き、アルスを抱きしめる。


スカラは不思議そうに首を傾げた。


「なぜ、そんなに怒っている?」


「はぁ!?」


「あのままでは崖から落ちていた。結果として、アルスの命は助かった」


「お前なぁ……!」


アグレオは言葉を詰まらせた。


「正しい選択をしたのだから、感謝されるのが論理的帰結だろう」


しばらくスカラを睨みつけていたが、やがてアルスへ目を落とした。


「……正しいのかもしれねぇ。実際、俺もコイツも命を救ってもらったのは事実だし」


「?」


「でもな」


息子を抱く腕に、ぐっと力がこもる。


「親にとっちゃ、目の前で息子が倒れるだけで怖ぇんだよ」


アグレオの声が、夜の岩場に響いた。


「正しけりゃ何されても平気ってわけじゃねぇ!」


スカラは黙った。


「正しい事が否定されるなんて……理屈が合わない」


「だから理屈じゃねぇんだよ!」


その時だった。


「うぅ……」


アグレオの腕の中で、アルスが小さく身じろぎした。


「アルス!」


ゆっくりと目が開く。


「……父さん?」


「大丈夫か!?どこか痛くねぇか!?」


「うん……ちょっとクラクラするけど……」


「そうか……そうか!」


アグレオは息子を抱きしめた。その腕がわずかに震えている。


スカラには、その理由が分からなかった。


アルスは父親の肩越しにスカラを見つけると、弱々しく笑った。


「スカラさんも……無事でよかった……」


「……え?」


スカラは目を瞬いた。


あれほど怖がりながらも、自分を守ろうとした少年。彼は今も目覚めて最初に自分の事を気にかけている。


「……」


なぜか胸の奥が、妙に温かくなった。


先ほど機械に触れた時の、何かが流れ込んでくるような感覚とは違う。


これは一体、何なのだろう。


スカラはアルス、そしてその体を抱きしめるアグレオを見つめた。


さっきまで怒っていた父親が、今は泣きそうな顔で笑っている。


目覚めたばかりの少年は、自分のことよりスカラの無事を気にかけていた。


胸の奥が、妙に温かい。


「……すまない」


思わず、言葉がこぼれた。


アグレオが顔を上げる。


「……ん?」


「私は、何かを間違えたんだろうか」


スカラは胸に手を当てた。


「どれだけ本を読んでも、あなたの言う『理屈じゃないもの』が、どういう感覚なのか分からない」


アグレオはしばらくスカラを見つめていた。


そして、大きく息を吐く。


「……ったく。調子が狂う嬢ちゃんだな」


「?」


「命を助けてもらったのは感謝してる。そいつは本当だ」


アグレオは腕の中のアルスを見た。


「でもな、次からは勝手に息子を気絶させんじゃねぇぞ」


「……なぜ?」


「お前が正しいと思ったからって、アルスの気持ちまで勝手に決めていいわけじゃねぇんだ」


そう言って、息子の頭をそっと撫でた。


しばらくの間があって、アルスは頷いた。


「それに、スカラさんなら、きっと分かるよ。その理屈じゃないもの」


「……なぜ?」


「だって、泳げないのに海へ飛び込んで父さんを助けてくれたじゃん」


「それは生存確率を――」


「ほら、また計算!」


アルスは笑った。


「助けようって思ったんでしょ?それだって理屈じゃないよ」


スカラは黙った。


「それに引き換え、俺なんか……」


アルスが視線を落とす。


「怖がってばっかりで、結局何もできなかった」


「いや」


スカラは静かに首を振った。


「アルスのおかげで、一つ分かったことがある」


「え?」


「勇気だ」


スカラはその言葉を、ゆっくりと口にした。


「古い辞書には、勇気とは恐れを知らないことだと書かれていた。だが、それだけではないらしい」


アルスが顔を上げる。


「怖くても、やる」


「……」


「アルスは怖がっていた。それでも私の前に立った。ヤシの木にも登った」


スカラは少し考えた。


「恐怖がなければ、勇気も必要ない。そういうことなんだな」


アルスは目を丸くして、やがて照れくさそうに笑う。


「……そう言われると、ちょっとかっこいいね」


「実際、かっこよかったぞ!」


アグレオが豪快に笑い、息子の頭をくしゃくしゃに撫でた。


「や、やめろよ父さん!」


二人が笑う。スカラはその光景を、じっと見つめていた。


命が助かった。それは間違いない。


なのに、さっきまで怒っていたアグレオが、今は笑っている。


正しいはずの自分が怒られ、何もできなかったと思っているアルスが褒められている。


……妙だ。


どうやら、自分の知らない答えがあるらしい。


***


翌朝。

オオカミ岩を離れた小舟が、朝日に包まれながら北へ進んでいく。濡れた帆が、心地よい風をはらんでいた。


スカラはそっと袖をまくった。

腕には、もう光の輪がない。


オオカミ岩から離れるにつれ、あの奇妙な感覚も消えていた。


「……」


初めて訪れたはずの場所で感じた、あの懐かしさ。


そして最後のオオカミ。

アルスが倒れた後も、なぜか自分だけを追いかけてきた。


もし、あの機械に別の目的があったとしたら――。


「スカラさん?」


アルスの声に、スカラは顔を上げた。


「どうしたの?」


「いや。何でもない」


袖を戻し、遠ざかるオオカミ岩を見つめた。青い海の向こうで、その異形の姿が少しずつ小さくなっていく。


「あっ!」


突然、アルスが空を指さした。


「ほら、見て!」


海と空の境目に、大きな虹が架かっていた。

鮮やかな七色の橋が、水平線をまたいでいる。


「おお!こりゃ見事だ!」


アグレオも顔をほころばせると、二人並んで手を組み、目を閉じる。


「神様、今日もいいことがありますように」


スカラは首を傾げた。


「なぜ祈る?」


「コタではね、虹には神様が住んでるって言われてるんだ」


アルスが嬉しそうに答えた。


「虹を見ると、幸運が訪れるんだって!」


スカラは虹を見上げた。


「ただの自然現象だ」


「やっぱり言うと思った!」


「太陽の光が空気中の水滴に入り、屈折と反射を繰り返すことで――」


「うん。きっと、スカラさんの言ってることは正しいよ」


アルスが笑った。


「なら、なぜ祈る?」


「だってさ」


アルスはもう一度、虹を見上げた。


「虹を見ると、確かに幸せな気持ちになるから」


「……幸せ?」


その言葉に、スカラはふと、ある人の声を思い出した。


――スカラ。虹は、どうして美しいと思う?


あの人の声。


「色が綺麗だから?」


――うん。でも、それだけじゃない。


あの人は笑った。


――虹はね。雨が太陽と出会う交差点だから。


懐かしい横顔。


あの時も、空には大きな虹が架かっていた。


スカラはもう一度、虹を見上げた。


光が屈折し、反射する。それが虹の仕組みだけど。

『雨が太陽と出会う交差点』もまた、同じ虹なのだ。


「……不思議だな」


「何が?」


アグレオが尋ねた。


「一つのものに、二つの答えがあってもいいらしい」


「何だそりゃ!」


アグレオは豪快に笑うものだから、アルスもつられて笑う。


「それにしてもさ」


アルスがスカラを見た。


「スカラさんって、本当に物知りだよね」


「世界三千言語の知識を学習した」


「三千!?すごっ!」


アルスが目を丸くする。


「父さんが倒れた時だって、まるで体の中で何が起きてるのか見えてるみたいだったもん!」


「そりゃ、まるで魔法使いだな!」


「本当にそうだよ!見えないものを見る魔法」


アルスは目を輝かせる。


スカラは少し考えた。


「私は学習した知識を組み合わせただけだ」


「それがすごいんだって!」


「知識があれば、誰でもできる」


「でも、俺にはできないよ」


「……そうか」


スカラは海へ目を向けた。


しばらくして。


「他には?」


「え?」


「私がすごかったところ」


アルスが吹き出した。


「あははっ!褒められて嬉しかったんだ!」


「違う。評価の根拠を確認している」


「絶対嬉しかったじゃん!」


「違う」


アグレオも豪快に笑った。


「嬢ちゃん、意外とかわいいとこあるじゃねぇか!」


「だから、何がおかしい?」


「そこだよ!」


二人の笑い声が、朝の海に響く。


スカラは納得できない顔でアルスを見つめたが、やがて思い出したように口を開いた。


「一つ、勘違いを訂正しておきたい」


「え?」


「アグレオを助けたのは、私じゃない」


アルスは首を傾げた。


「どういうこと?」


「ヤシの木に登ったのも、重いアグレオを運んだのも、私ではない」


スカラはまっすぐアルスを見た。


「アルス。君だ」


「……俺?」


「私は方法を知っていただけだ」


スカラは静かに続けた。


「知識があっても、それを使う人間がいなければ、何も変わらない」


アルスは黙って聞いていた。


「そして、怖くても行動したのは私ではない」


スカラは言った。


「君だ、アルス」


「……」


「怖くてもやる。それを、勇気というんだろう?」


アルスは少し驚いた顔をして、それから笑った。


「……うん!そうだよ!」


アグレオがニッと笑い、息子の背中を叩いた。


「よっしゃ!勇敢な漁師さん、そろそろ帆を見てくれや!」


「分かってるって!」


アルスは慌てて立ち上がり、帆の綱を握った。


朝の風が、三人の髪を揺らす。スカラはその姿を、少し不思議な気持ちで眺めていた。


三千の言葉を知っている。それでも、この少年から教わることがある。


もしかすると、世界にはまだ本に書かれていないことがたくさんあるのかもしれない。


小舟は朝日の中を進んでいくと、やがて水平線の向こうにコタの漁師町が見えてきた。


スカラにとっては、北へ向かう旅の、ほんの小さな経由地にすぎなかった。


だが、この時はまだ誰も知らない。


この町で、スカラの知識が人々の暮らしを変えていくことを。


そして――人々との出会いが、スカラ自身をも変えていくことを。

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