第十話 北へ渡る鍵
「スカラ、これとこれ、どっちがいい?」
アルスが二つの果物を持ち上げた。
「……」
「スカラ?」
「船板の隙間を完全に塞ぐには……」
アルスは小さく息を吐いた。
「……もう。聞いてないじゃん」
市場は今日も賑わっていた。
オオカミ岩で獲れた魚。色とりどりの石けん。近隣の村から運ばれてきた野菜や果物。
三年前にはなかったものが、今では当たり前のように並んでいる。
だが、スカラはそのどれも見ていなかった。
「せっかく一緒に来たのに」
アルスは口を尖らせた。
「?」
「……なんでもない」
スカラは首を傾げると、すぐにまた考え始めた。
「麻だけでは、強い波で船体がたわんだ時に限界がある。もっと水に強くて、木の動きにも追従できる素材が……」
アルスはその横顔をちらりと見た。
船のことを考えている時のスカラは、いつも少しだけ楽しそうだ。
港では今も、大陸へ渡るための船が造られている。
完成すれば、スカラはこの島を出ていく。
分かっている。
最初から、そのために船を造っているのだから。
それなのに、この三年間、スカラがいつかいなくなることを、できるだけ考えないようにしていた。
「……」
アルスは籠を持ち直した。
ゴロゴロ――。
空が鳴った。
スカラが顔を上げる。
「来る」
「え?」
次の瞬間。
ザアアアアアッ!
滝のような雨が市場へ降り注いだ。
「うわっ!」
「アルス、こっち」
この時期には、毎日のようにスコールがやってくる。
店主たちは慣れた手つきで商品に布をかけ、客たちは一斉に軒下へ駆け込んでいった。
つい先ほどまで人で溢れていた市場が、あっという間に空になる。
その真ん中に。
一人だけ、少女が立っていた。
小さな体に、ずぶ濡れの服。
雨に打たれながら、両手で古びた籠を抱きしめている。
「……あの子」
アルスが近くの男に尋ねた。
「親とはぐれたのかな?」
男の顔が曇った。
「ああ……あの子は一人だよ。時々、山から物を売りに来るんだ」
「こんな雨なのに?」
「……」
男は答えなかった。
アルスが首を傾げる。
「なんで誰も声をかけないの?」
「それは……」
男が口ごもる。
「あ、おい!」
アルスはすでに走り出していた。
「関わらない方がいいって!」
雨を跳ね上げながら少女の前へ行き、目線を合わせるように屈んだ。
「やぁ、君」
少女が顔を上げる。
誰かに話しかけられるとは思っていなかったのだろう。大きな目が、さらに大きくなった。
「……」
「俺はアルス」
自分を指す。
「あっちがスカラ」
遅れてスカラも雨の中を歩いてくる。
「君の名前は?」
少女は少し迷った。
「……ヤナ、です」
「ヤナ」
アルスが笑った。
「こんなところにいたら風邪引くよ。雨の当たらないところへ行こう」
手を差し出す。
だが、ヤナは動かなかった。
「ダメです……」
「どうして?」
俯く。
「私が近くに行くと……みんなが嫌がります」
「なんで?」
ヤナは籠をぎゅっと抱きしめた。
「呪われてるから」
アルスの表情が止まった。
「……呪われてる?」
「私は……」
ヤナが顔を上げた。
「呪われた村の子だから」
「まさか……」
アルスの声が小さくなる。
「山向こうの村?」
ヤナが頷いた。
アルスの頭に、子どもの頃から聞かされてきた噂が浮かんだ。
山の向こうには、呪われた村がある。
近づいてはいけない。
村人に触れてはいけない。
関われば、災いが起きる。
アルスは差し出した自分の手を見た。
ほんの一瞬だけ迷った。
ヤナもそれに気づいたのだろう。
小さな手を、籠の後ろへと隠そうとした。
「……あっ」
アルスは慌てて手を伸ばした。
「ごめん。違うんだ」
ヤナが顔を上げる。
「俺、君のこと、まだ何も知らないからさ」
アルスは笑った。
「知らないまま怖がるのは、もうやめようと思って」
そして、もう一度手を差し出した。
「ほら。こっちへ」
ヤナが恐る恐る手を伸ばすと、アルスはその手を取り、近くの大きな木の下へ連れていった。
荷物から乾いた布を取り出し、ヤナへ渡す。
「ほら、これ使って。びしょ濡れだよ」
「……ありがとう、ございます」
「スカラ、何か温かい飲み物買ってきてくれない?」
「ああ。そうしたいところだが」
「ん?」
スカラが周囲を見る。
「売る人がいない」
「え?」
アルスも顔を上げた。
いつの間にか、周囲には誰もいなかった。
さっきまで軒下に避難していた人たちまで、ずっと遠くへ移動している。まるで三人の周囲だけ、目には見えない円が描かれているようだ。
「……本当に、避けてるんだ」
ヤナが俯いた。
「だから言ったんです」
アルスは唇を噛んだ。
それから、できるだけ明るい声を出した。
「ヤナは、なんで一人なの?」
「……」
「お父さんとか、お母さんは?」
「お母さんは、病気です」
「病気?」
ヤナは抱えていた籠を見た。
「だから私がお金を稼いで、食べ物を持って帰らないと……」
「一人で?」
「はい」
「ここまで、どれくらいかかるの?」
「朝に村を出て……昼前くらいに着きます」
アルスが山を見る。
「そんなに遠くから?」
ヤナは小さく頷いた。
「村の人たちも、病気なんです」
「みんな?」
「全員じゃないです。でも……ずっと昔から」
少し間があった。
「だから、呪いなんです」
スカラが口を開いた。
「さっきから言っている“呪い”とは何だ?」
「それは……」
アルスが言葉に詰まる。
代わりに、ヤナが答えた。
「私たちの村では、昔から不思議な病気が流行っているんです」
雨が葉を叩く。
「病気になるのは、決まって村の人ばかりで……島の人たちは、私たちが前世で悪いことをしたからだって」
声が少し震えた。
「神様から、罰を受けているんだって」
アルスの顔が曇った。
「ごめん、ヤナ」
それからスカラを見る。
「とにかく、そういう噂があるってこと。スカラ、この話はもう――」
「病気とは、具体的にどんな症状だ?」
「スカラ!」
ヤナの肩がびくりと動いた。
「村の人以外には……話したらダメって言われてます」
スカラは口を閉じた。
三年前なら、そのまま質問を続けていたかもしれない。だが今は、目の前の少女が怯えていることに気づいた。
「……分かった」
スカラは頷いた。
「答えたくないことは、答えなくていい」
ヤナが驚いたようにスカラを見る。
「ただ、私は病気の原因を知りたい。いくつか質問してもいいだろうか?」
ヤナは迷いながら頷いた。
「高い熱が出る人?」
コクン。
「熱が下がった後も、何度も繰り返す?」
コクン。
「脚が大きく腫れて、皮膚が厚く固くなる人がいる?」
ヤナの目が大きくなる。
「……はい」
アルスがスカラを見る。
「なんで分かるの……?」
「症状に覚えがある」
「じゃあ、治せる!?」
「まだ分からない。似た症状は、他にもある。何が原因かも調べる必要がある」
ヤナは俯いた。
「……やっぱり分からないんですね」
「今はね」
スカラは静かに言った。
「だから、確かめにいきたい」
その言葉に、ヤナの瞳が揺れた。
スカラはもう一つだけ尋ねた。
「ヤナも、自分はいつかその病気になると思っている?」
ヤナは動かなかった。
雨の音だけが続く。
やがて。
……コクン。
一粒の涙が頬を伝った。
「だって……」
小さな声。
「これは、呪いだから」
「……」
「神様が、私たちに与えた罰だから……」
アルスが俯く。
「スカラ、もうこれ以上は――」
スカラは少し考えた。
人を傷つけない言葉を、彼女はいまだ十分には知らない。だから、自分の知っている言葉の中から選んだ。
「私は」
ヤナを見る。
「君が呪われているとは思わない」
「……え?」
「人間は、理由が分からないものを恐れる」
雨が葉を叩く。
「例えば、それが病気や、災害や、突然の死だったりする時、それを“呪い”とせいにすることがある」
ヤナは黙って聞いていた。
「だがそれは分からないだけだ」
スカラは続けた。
「原因があるなら、調べられる」
「……」
「調べられるなら、変えられるかもしれない」
ヤナの瞳がわずかに揺れた。
「……本当に?」
「まだ約束は出来ない」
スカラは答えた。
「でも、確かめずに諦める理由もない」
その時だった。
カラン。
ヤナの抱えていた籠が傾き、小さな器が一つ転がり落ちた。
「あっ!」
雨水の溜まった地面へ落ちる。
ヤナが慌てて拾おうとした。
だが。
「待って」
スカラが先に手を伸ばした。
器を拾い上げる。
「……?」
アルスが覗き込んだ。
「どうしたの?」
スカラは器の表面を見つめた。
泥水に落ちたはずなのに、水が染み込んでいない。
丸い水滴が、表面を転がっていく。
親指でこする。
「……妙だな」
「何が?」
「表面に何かが塗られている」
スカラはヤナを見る。
「この器、どこで手に入れた?」
「山に落ちてました」
「山?」
「はい。木の下に、たくさん」
「木の下に?」
ヤナが頷く。
「丸い実みたいなものが落ちていて……中身を取ると、器になるんです」
「……なるほど」
アルスが目を丸くする。
「器がなる木?」
「そんな木はない」
スカラが即答した。
「分かってるよ!」
だが、スカラはもう聞いていなかった。
器をもう一度見る。
「器の材質ではない。表面に塗ってあるものが、水を弾いている」
スカラは、ヤナの籠にも目を留めた。
「……この籠にも、同じものを塗っているのか?」
「はい。水が漏れないように」
スカラは内側に塗られた膜を指で摘まんで引っ張る。
引っ張ると伸びる。
手を離すと、元へ戻った。
さらに、水を一滴落とすと、丸い水滴が表面を滑り落ちていく。
「……ヤナ」
「はい?」
「内側に塗ってあるものは、村の近くでとれるのか?」
ヤナは首を傾げた。
「はい。森の木から出てくる白い汁です」
スカラの目が輝いた。
「その木がある場所へ案内してほしい」
「待って、スカラ。ヤナのお母さんは?」
スカラはヤナへ目を戻した。
「もちろん、病気のことも調べる。そのためにも、村へ行きたい」
スカラはヤナの籠を見た。
「それに、この素材が十分な量で手に入り、加工できれば……」
ふと、港の方へ目を向ける。
「船を完成させられるかもしれない」
アルスの表情が、一瞬だけ止まった。
ーー船を完成させられるかもしれない。
三年間、待ち望んだ言葉のはずなのに、今は素直に喜べなかった。




