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第十一話 山に響く呪文

翌朝。

三人は“呪われた村”を目指して、山道を歩いていた。


昨夜の雨をたっぷり吸った地面は、踏むたびに靴へまとわりつく。南国の日差しが泥を温め、むっとする湿気を立ち上らせていた。


それでもヤナは、一言も弱音を吐かない。


細い足で泥を踏みしめ、黙々と前へ進む。


アルスはその小さな背中を追いながら、昨夜のことを思い出していた。


ヤナを家に泊めたいと告げると、アグレオは反対するどころか、とっておきの魚を取り出した。


「気にしないの?」


「何を?」


「その……呪いとか」


「呪いねぇ」


アグレオは魚を捌きながら笑った。


「まるで、昔のオオカミ岩じゃねぇか」


「え?」


「よく知りもしねぇで怖がってただろ。今じゃコタ一番の魚が獲れる場所だ」


まるごと焼いた魚を、ヤナの前へ置く。


「ほら。食え」


ヤナは戸惑った。


「……私が、食べてもいいんですか?」


アグレオが眉を寄せる。


「なんでダメなんだ?」


ヤナは答えられなかった。


恐る恐る一切れ、口へ運ぶ。


その瞬間、目を見開いた。


「……おいしい」


「だろ!」


アグレオが豪快に笑った。


アルスも笑う。


ヤナはもう一切れ、身を口へ運んだ。


「……お母さんにも、食べさせてあげたい」


その言葉に、アグレオの手が止まった。


そして、残っていた魚を包み始める。


「持ってけ」


「……え?」


「お母さんの分だ」


ヤナは包みを見つめた。


「……ありがとうございます」


アグレオは照れくさそうに鼻をこすった。


「呪いの村ってのも、この目で見てから決めりゃいい」


アルスは父を見た。


三年前、オオカミ岩へ近づくことさえ怖がっていた父が、今は呪われた村の少女に、とっておきの魚を食べさせている。


アルスは、思わず笑った。


「アルス」


突然、声がした。


我に返ると、スカラが足元を指していた。


「これはレモングラスという植物だ」


一束抜き取り、アルスの籠へ入れる。


「ちょっと」


数歩進む。


今度は、別の葉を採った。


「これも使える」


また籠へ。


「スカラ」


「それから……」


さらに一つ。


「スカラ!」


「何だ?」


アルスはスカラを見た。


額には汗が浮かび、歩く速度も明らかに落ちている。


「……休憩したいだけでしょ?」


「植物調査と休息の必要性が偶然一致した」


「素直に疲れたって言ってよ!」


「疲労は認める。だが、植物調査も必要だ」


「ほんっと、負けず嫌いだなぁ!」


ヤナが小さく笑った。


スカラは首を傾げる。


「なぜ笑う?」


「……いえ」


ヤナは慌てて口元を押さえた。


「なんだか、二人は仲がいいなって」


アルスが照れくさそうに笑う。


「まぁ、三年も一緒にいるからね」


「三年……」


ヤナが目を丸くした。


「そんなに長く?」


「そうだよ!」


アルスはスカラを見た。


「ね?」


「ああ」


スカラは頷いた。


「思ったより長くなってしまった」


「……そういう言い方する?」


アルスが口を尖らせる。


スカラは少し考えた。


「……長かったが、退屈はしなかった」


「え?」


「アルスといると、予測できないことが多い」


アルスは一瞬、きょとんとした。

それから、笑った。


「それ、褒めてる?」


「事実を述べている」


「もう!」


ヤナがまた笑った。


今度は、口元を隠さなかった。


***


さらに山道を登り続けた。


木々が低くなり、やがて頭上が開ける。


歩き始めて八時間。三人はようやく峠へたどり着いた。


「はぁ……やっと着いた……!」


アルスは膝に手をついた。


ヤナが前方を指さす。


「私の村は、あの辺りです」


「……え?」


アルスは顔を上げた。


そして、息を呑んだ。


山々に抱かれた巨大な湿地帯。


深い緑の森には薄い霧がかかり、蛇行する川と大小いくつもの池が、太陽を映して銀色に輝いている。


無数の鳥が森の上を飛び交い、水面には風が渡るたび、細かな波紋が広がっていた。


「……すごい」


アルスは呟いた。


想像していた景色とは、まるで違う。


枯れた木々。荒れ果てた土地。

呪われた村には、そんなものが広がっているのだと思っていた。


だが、目の前にあるのは、どこまでも豊かな緑だった。


「海から水分を含んだ風が来る」


スカラが言った。


「その風が山にぶつかり、雨を降らせる。雨は森を育て、森の土は水を蓄える」


アルスは眼下の川を目で追った。


湿地を抜け、山間を縫い、遥か向こうの海へと流れていく。


その先には、見慣れた町があった。


コタ。


沖では火山島が、今日も噴煙を空へ伸ばしている。


「……あれ?」


アルスが身を乗り出した。


「ねえ、スカラ。この川って、コタの方へ流れてる?」


「ああ」


「じゃあ、俺たちが使ってる水も……」


「一部は、この森から届いているだろうね」


アルスはもう一度、湿地を見た。


「……待って」


何かを思い出したように、顔を上げる。


「前に言ってたよね。森の栄養って、川に流れるんだよね?」


「そうだ」


「その川が海まで行くってことは……」


スカラは黙って続きを待った。


アルスの目が大きくなる。


「オオカミ岩の魚も、この森と繋がってるかもしれないってこと!?」


「ああ。どれほど影響しているかは調べる必要があるが、十分に考えられる」


「……すごい」


アルスは湿地を見渡した。


いつも何気なく飲んでいた水。毎日食べていた魚。

その向こうに、こんな森があったなんて。


「……全部、繋がってるんだ」


スカラは小さく頷いた。


アルスはしばらく、その景色に見入っていた。


子どもの頃から、何度も聞かされてきた。


――山の向こうには、呪われた村がある。


――近づけば、災いが起きる。


でも。


目の前には、こんなにも美しい世界が広がっている。


「……違うじゃん」


ヤナがアルスを見た。


「何がですか?」


アルスは笑った。


「ヤナの故郷は、呪いの場所なんかじゃないよ」


「……え?」


「だって、この森が俺たちの村に水をくれてるんだよ」


アルスは山々を指さした。


「それだけじゃない。川が海まで繋がって、魚まで育ててくれてるかもしれない」


そして、ヤナを見た。


「呪いどころか、恵みの場所じゃん!」


ヤナは目を丸くした。


自分の生まれた場所を、そんなふうに言われたことはなかった。


いつも、呪われていると言われていた。


近づくな。

触れるな。

災いを運ぶな。


なのに。


「……恵みの、場所」


ヤナは小さく繰り返した。


もう一度、故郷を見つめる。


いつも見ていた森。いつも歩いていた川辺。


何も変わっていないはずなのに、今は少しだけ違って見えた。


「……はい!」


やがて、とびきりの笑顔を見せた。


アルスも嬉しくなって笑った。


その時だった。


チリッ。


スカラの腕に、微かな刺激が走った。


「……?」


袖をまくると、白い腕に淡い光の輪が一本浮かび上がっていた。


「スカラ?」


「……ホットスポットだ」


スカラは湿地の奥を見た。オオカミ岩でも、同じことが起きた。旧文明の通信が、こんな場所にまで届いている。


だが、今回は何かが違う。


初めて訪れた場所なのに、以前にもここに来たことがあるような。


不意に、白い建物が頭をかすめた。


細長い通路。

規則正しく並ぶ扉。

白く照らされた天井。


「……っ」


瞬きをすると、消えた。


そんな場所を見た覚えはない。なのに、知らないはずの建物がひどく懐かしかった。


「スカラ?大丈夫?」


「ああ……問題ない」


スカラが袖を下ろした、その時。


『――我々は、罪を背負っている』


「……え!?」


アルスが振り返った。


霧に包まれた森の奥から、妙に平らな声が響いてきた。


『――罰から、逃げてはならない』


ヤナの顔から笑みが消えた。


「……また」


「知ってるの?」


「村の声です。ずっと昔から聞こえるんです」


「村の声?」


「……神様の声だって、みんな言います」


『――我々は、罪を背負っている』


同じ言葉。同じ高さ。同じ間の取り方。


スカラは眉を寄せて、湿地の奥を見た。


その瞬間、腕の輪が強く明滅した。


「……っ!」


頭の奥に、何かが触れた。


声でも、映像でもない。ただ、自分の存在を確かめられているような奇妙な感覚。


スカラは息を止めた。


――機械の方が、私を見つけた?


「……スカラ?」


アルスの声に、スカラは我に返った。


「ああ。行こう」


そう答え、袖を下ろした。


するとヤナが、二人を呼び止めた。


「……村に入ったら、その声のことは聞かない方がいいです」


「どうして?」


アルスが尋ねる。


「昔、どうして私たちが罰を受けなきゃいけないのかって、聞いたことがあるんです」


ヤナは俯いた。


「そしたら、そんなことを聞くから神様が怒るんだって……」


「……」


「だから、もう聞かないことにしました」


スカラはヤナを見た。だが、何も尋ねなかった。


三人は再び歩き出す。


霧の向こうから、また同じ声が聞こえた。


『――罰から、逃げてはならない』


今度は、誰も振り返らなかった。

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