第十二話 呪われた村
峠を下るにつれ、森は急速に深くなっていった。
木々が空を覆い、湿気と熱気を含んだ空気が肌へまとわりつく。
アルスは長袖の襟元を引っ張った。
「あっつい……」
汗が首筋を流れる。
「スカラ、これ本当に着なきゃダメ?」
「着ておいた方がいい」
「でも、この暑さで長袖はつらいって」
「我慢して」
「理由は?」
「まだ確証がない」
「……?」
スカラは周囲を飛ぶ小さな虫を見た。
発熱。脚の腫れ。
長年、高温多湿の湿地帯、しかも特定の地域だけで繰り返される病気。
いくつかの情報が、少しずつ繋がり始めていた。
だが、まだ結論を出すには早い。村人たちの暮らしも、病気が広がる時期も、この森にどんな虫がいるのかさえ知らない。
「……村を見てから考える」
「珍しいね」
「何が?」
「スカラが、すぐに答えを出さないなんて」
「まだ調べていないからね」
アルスは少し笑った。
「……そっか」
スカラは周囲を飛ぶ虫へ目を戻した。
***
「着きました。私の村です」
ヤナが指さす先。沈みかけた西日が茅葺き屋根を赤く照らしている。
その手前。村の入口には小川が流れ、その上に一本の橋が架かっていた。
アルスが足を止める。
「……これ、橋?」
「はい!」
ヤナが嬉しそうに頷いた。
「村のご神木なんです。ずっと昔から、私たちを守ってくれているんですよ」
見上げると、両岸には二本の巨木。
そこから伸びた無数の根が川の上で幾重にも絡まり合い、一本の橋を形づくっていた。
「……すごい!」
アルスが目を輝かせる。
スカラもゆっくり近づいた。
「生きた根を、人の手で誘導したのか……」
太く編み込まれた根に触れる。足元を支える根の間からは、新しい芽が伸びていた。
「よくできている」
アルスが振り返った。
「スカラが褒めた!」
「私だって褒める」
「珍しいから」
スカラは橋を見上げた。
「普通の木材なら、湿気や虫で傷んでいく。だが、この橋は生きている」
「生きてる……」
「手入れを続ければ、根が成長し、さらに丈夫になる。何世代にもわたって育てられる橋なんだ」
「へぇ……!」
ヤナが嬉しそうに言った。
「おじいちゃんのおじいちゃんより、ずっと昔からあるそうです!」
「なら、何世代もの人が手をかけてきたんだな」
スカラは、もう一度根を撫でた。
「私の知らない技術だ」
「世界中の本を読んだのに?」
アルスが笑う。
「当然だ。私が読んだのは、誰かが書き残した知識だからね」
スカラは橋の向こうを見た。
「世界には、まだ本になっていない知恵がたくさんあるんだろう」
アルスは少し驚いたように、スカラを見た。
三年前。
書院から出てきたばかりの彼女なら、同じことを言っただろうか。
その時だった。
「……これは」
スカラの指が止まった。
傷ついた根の表面から、白い液体が滲み出している。
指先に少し取ると、粘り気がある。
「スカラ?」
スカラは白い液体を見つめた。
ヤナの籠の内側に塗られていた、水を弾く素材。
あれも、木から採れると言っていた。
「ヤナ」
「はい?」
「籠に塗っていたものは、この木から採ったのか?」
「違います」
ヤナは首を振った。
「あれは、もっと森の奥にある木です」
「……そうか」
見た目が似ていても、同じ性質とは限らない。
だが、ヤナの籠に使われていた素材には、確かに弾力があった。
「……やはり、実物を調べる必要があるな」
「何を?」
アルスが尋ねる。
「船に使えるかもしれない素材だよ」
「ああ……例の?」
スカラが頷く。
アルスは橋の向こうを見た。
「でも、まずは村の人に会わないとね」
「ああ」
スカラは指先の樹液を拭った。
橋の向こうには、夕暮れの村がある。
長い間、病気に苦しんできた人々。
そして、森の奥から聞こえてきた奇妙な声。
「……まずは、この村のことを知ろう」
三人は、生きた橋を渡った。
***
珍しい来客を、村は温かく迎えた。
日が落ちる頃には広場に料理が並び、村長のオサは特別な日しか出さないという肉を振る舞ってくれた。
「長い山道だったでしょう。よくお越しくださいました」
オサは穏やかな笑みを浮かべ、芋から作ったという酒を杯へ注いだ。
「僕たち、まだお酒は飲めないので……」
アルスが慌てて頭を下げる。
「ああ、そうでしたか」
オサは笑い、別の飲み物を用意させた。
焚き火を囲む老人たち。駆け回る子どもたち。料理を運びながら、楽しそうに言葉を交わす女性たち。
アルスは少し意外に思った。
――呪われた村。
そんな名前から想像していたのは、暗く沈んだ場所だった。
けれど、ここにも普通の暮らしがある。
家族がいて、食事があって、笑い声がある。
「ヤナには市場で会って、いろいろと――」
「大変お世話になりました」
料理を運んでいたヤナが、ぺこりと頭を下げた。
八時間もの山道を歩いた後なのに、休む様子もなく、細い腕で皿を抱えている。
「いい子ですよね」
アルスが笑った。
「働き者だし、お母さん思いだし……」
その瞬間、空気が変わった。
笑っていた村人の表情が消え、杯を運ぶ手が止まった。
ほんの一瞬前まで聞こえていた話し声が、嘘のように静まる。
アルスはすぐに気づいた。
――しまった。
病気のことは、村の外の人間に話してはいけない。
ヤナから聞いていたのに。
「えっと……」
アルスが言葉を探す。
だが。
「彼女の母親は病気だと聞きました」
「スカラ!」
アルスが小声で止める。
「今、その話は……!」
「この村の人間がよく罹る病気だとか」
「だから!」
スカラは口を閉じた。
周囲の視線が、一斉に自分へ向いている。
「……まずかった?」
「遅いよ!」
オサは静かに杯を置いた。
「……確かに」
先ほどまでの柔らかな表情が、消えていた。
「ヤナの母親は“呪い”にかかっています」
ヤナが俯いた。
「ですが、それは原罪を背負って生まれた我々の定めなのです」
「定め?」
スカラが聞き返した。
「ええ。どうにもならぬことです」
「どうにもならない?」
「……」
「それは、治療法が存在しないという意味ですか?」
オサの眉が動いた。
「そういう話ではありません」
「では、どういう――」
アルスが慌ててスカラの服を引いた。
「スカラ!」
「何だ?」
「今は質問するところじゃない」
「なぜ?」
「……あとで説明する」
スカラは不満そうな顔をした。
オサが口を開く。
「よそ者であるあなた方には、関係のない話です」
声は丁寧だった。
だが、その奥には明らかな拒絶があった。
「この話は、もう終わりにしましょう」
「……一つだけ」
スカラが言った。
アルスがぎょっとする。
「まだ聞くの!?」
「質問ではない」
スカラはオサを見た。
「私は、その病気を治せると断言するつもりはない」
「……」
「だが、原因を調べる方法なら、いくつか知っている」
オサは黙っていた。
「呪いと呼ばれているものが、病気であるなら。原因を確かめ、広がるのを防ぐ方法が見つかるかもしれない」
村人たちの視線が集まる。
「その可能性まで、捨てる必要があるのだろうか?」
誰も答えなかった。
ただ一人。
ヤナの目が、わずかに大きくなった。
アルスはその顔を見た。
ヤナは何も言わない。けれど、その目には期待があった。
アルスは腹を決めて立ち上がった。
「村長さん!」
オサが顔を上げる。
「スカラは、医学だけじゃありません。工学も、天文学も、昔の文明にあったいろんな知識を知っています」
アルスは村人たちを見渡した。
「僕らの村も、魚が獲れなくなって困っていました。でもスカラと一緒に原因を調べて、少しずつ漁場を回復させる方法が見つかったんです」
「……」
「だから、聞くだけでも損はないと思うんです」
しばらくの沈黙。
オサはゆっくりと立ち上がった。
「大変ありがたい申し出です」
穏やかな声だった。
「……ですが」
その表情から笑みが消えた。
「我々は、この病を受け入れねばならないのです」
「どうして?」
アルスが思わず尋ねた。
オサは答えない代わりに、広場の奥へ一瞬だけ目を向けた。
そこには、花や布で飾られた古い祭壇があった。
中央には、黒いものが置かれている。
だが、暗くてよく見えない。
スカラが目を凝らした時、オサが言った。
「……一つ、お聞かせください」
「何ですか?」
「あなた方は、いつかこの村を去るのでしょう?」
アルスが口を閉じた。
スカラは頷く。
「ああ。私は大陸へ向かうつもりだ」
「では」
オサは静かに尋ねた。
「あなたが去った後、この村で暮らしていくのは誰です?」
「……」
「病が治るかもしれない。そう言ってくださるお気持ちは、ありがたい」
オサは広場の人々を見渡した。
「ですが、あなた方が帰った後も、我々はここで生きていかねばならないのです」
スカラは答えられなかった。
「どうか、ご理解ください」
オサは深く頭を下げた。
「余計なお気遣いは無用です」
「でも――」
「この話は終わりです」
それ以上を拒むように、オサは男たちへ目配せした。
「夜も遅い。今夜は休んでいただき、朝になったら村をお発ちください」
ヤナが何か言おうとした。
だが、隣にいた年配の女性に肩を引かれ、口を閉じた。
その表情を、アルスは見逃さなかった。
***
その夜。
スカラとアルスは、村の端にある小さな竹小屋へ案内された。
外には屈強な男が二人。
見張りだった。
「……追い出されるだけかと思ったら、監視までついたね」
アルスが竹の床へ寝転ぶ。
スカラは壁にもたれた。
「病気で苦しんでいるのに、原因を調べること自体を拒否する理由が理解できない」
「怖いんじゃないかな」
「何が?」
「今まで信じてきたことが、間違ってるかもしれないって認めるのが」
スカラは黙った。
「間違っているなら、訂正すればいい」
「スカラならそうするだろうけど」
アルスは天井を見た。
「人間って、そんなに簡単じゃないんだよ」
「……またそれか」
スカラは小さく息を吐いた。
だが、それだけなのだろうか。
オサが言った言葉。
――あなたが去った後、この村で暮らしていくのは誰です?
スカラは、黙って考えた。
病気の原因を見つけることと、その後の村の暮らしを守ることは、同じではない。
オサは、ただ間違いを認めたくないだけなのだろうか。
それとも。
何かを守ろうとしている?
「……アルス」
「ん?」
「少し確かめたいことがある」
スカラは立ち上がった。
アルスが跳ね起きる。
「まさか外に出る気?」
「朝になれば追い出される」
「だからって――」
「時間がない」
スカラは竹壁の隙間から外を覗いた。
見張りが二人。その向こうには、月明かりに沈んだ村。
水の流れる音。湿地で鳴くカエルの声。
そして。
ブゥン――。
小さな虫が、耳元を横切った。
スカラの目がその動きを追う。
虫は竹壁にとまり、細い脚を折り畳んだ。
「……」
発熱。
繰り返す発作。
長い年月をかけて腫れ上がる脚。
そして、この湿地に多い小さな虫。
一つの可能性が、頭に浮かんでいるもののまだ確かめられていない。
「……見てみたい」
スカラが呟く。
「何を?」
「この村の人たちの暮らしを。病気になった人たちの様子を」
扉へ手を伸ばす。
「待って!」
アルスがその腕を掴んだ。
「勝手に調べたら、もっと嫌われるよ」
「だが、病気で苦しんでいる」
「だからだよ!」
スカラが振り返る。
「助けたいなら、まず村の人たちに俺たちの話を聞いてもらわなきゃ」
「……」
「勝手に調べて、怖がらせて、追い出されたらどうするの?」
スカラは黙った。
「知識があっても、それを使う人間がいなければ何も変わらないって、そう言ったのスカラじゃん」
「……」
「俺たちだけで全部決めちゃダメなんだよ」
スカラは扉を見た。
その向こうに、答えがあるかもしれない。
だが、強引に調べたところで、村人が協力してくれなければ、病気の広がりを止めることはできない。
「……難しいな」
スカラが呟く。
「何が?」
「人間は」
アルスが小さく笑った。
「自分も人間じゃん」
スカラは何も答えなかった。
やがて、扉から手を離す。
「……分かった」
アルスがほっと息をつく。
「よかった」
「明日、もう一度話してみよう」
「うん」
二人は竹の床へ腰を下ろした。
その時、外から見張りの声が聞こえた。
「夜明けになったら、二人を村の外まで送れ」
足音が遠ざかる。
朝になれば、この村を追い出される。
病気のことも、湿地のことも、まだ何も確かめられていないのに。
「……時間がないな」
アルスは何も言わなかった。
竹壁の向こうで、湿地の虫が鳴き続けていた。




