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第六十五話 おかえりなさい

夜が明けた。


昨日まであれほど荒れ狂っていた砂漠が、嘘のように静かだった。


砂丘の向こうから朝日が昇る。


風に削られた岩肌が赤く染まり、砂の上には新しい風紋がどこまでも続いていた。


まるで、昨日までの足跡をすべて消してしまったかのように。


岩陰では、ライラが赤ん坊を抱いていた。


小さな胸が、ゆっくりと上下している。


アルスがそっと覗き込んだ。


「……小さいね。指なんて、俺の半分もないよ」


スカラが答える。


「骨の数は大人と同じではない。成長するにつれて癒合する骨もある」


「へえ」


アルスは赤ん坊の手を見た。


「スカラにも、こんな時あったの?」


「……」


スカラが止まった。


「……多分」


アルスが顔を上げた。


「え?」


「覚えていない」


アルスは笑った。


「そりゃそうでしょ。赤ちゃんの頃なんて、誰も覚えてないよ」


「……それはそうだな」


スカラは頷いた。


だが、そういう意味ではなかった。


――スカラにも、こんな時あったの?


その質問の答えが、分からない。


自分はどこで生まれたのか。


誰が母親で、誰が父親なのか。


そもそも、自分にもこんな時があったのかさえ。


分からない。


その時。


赤ん坊が、小さな手を伸ばした。


スカラの指に触れる。


「……?」


反射的に指を差し出すと、赤ん坊はぎゅっと握りしめた。


「……!」


思ったより、強い。


スカラは目を見開いた。


「握った!」


アルスが笑う。


「気に入られたんじゃない?」


「把握反射だ。手のひらへの刺激で――」


「そういうことじゃなくて」


「……?」


アルスは笑った。


「いいじゃん。握ってくれたんだから」


スカラはもう一度、小さな手を見た。


赤ん坊は目を閉じたまま、指を離そうとしない。


「……そうだな」


スカラは、しばらくそのままでいた。


***


その日、隊商は動かなかった。


ナディアが母子の様子を確かめ、ライラの身体をもう少し休ませる必要があると判断したからだ。


ラシードは何度も水袋を数えた。


地獄の門で汲んだ水は、まだ残っている。だが、砂嵐の間に使った分もあり、決して余裕はなかった。


「……あと一日だ」


ラシードが言った。


「それ以上は、ここにいられん」


ナディアは頷いた。


「分かってるよ」


ライラの体調は落ち着いていて、熱もない。


赤ん坊も母親の胸元で温められながら、時折小さく泣いた。


ナディアは授乳の様子を見守り、母子の体調を確かめた。スカラもその隣で、できる限りの手伝いをした。


「……明日、出発して本当に大丈夫なのか?」


アルスが尋ねる。


ナディアは眠っている母子を見た。


「できれば、もっと休ませたいね」


「でも、ここには十分な水も食料もない」


スカラが答える。


「移動するなら、何度も休んで、二人の様子を確かめる必要がある」


「ああ。少しでも具合が悪くなったら、すぐ止まるよ」


ナディアはそう言って、ライラに布を掛け直した。


スカラも、少し考えた。


「ライラが、ラクダの背で揺られ続けるのは避けたい。荷を組み直して、身体を支えられるようにする」


「赤ちゃんは?」


「母親の胸元で温める。あと、風と砂を防げる環境を整える。


アルスが頷く。


「人間って、手がかかるね」


「まったくだ」


二人は顔を見合わせて、笑った。


翌朝。

ラシードの声が砂漠に響いた。


「出発するぞ!」


隊商の男たちが荷を積み直す。


と言っても、ほとんどの荷物は砂と岩の中。


それでも。


ここまで来た人間は、ハキムを除いて全員そろっていた。


いや、一人増えた。


「よし、ゆっくり行こう」


アルスがラクダの手綱を握る。


ライラは荷を組み直した低い座席に身体を預け、赤ん坊を胸元に抱いていた。


ナディアが隣につき、揺れや疲労に気を配る。


「無理はしないでおくれ」


「はい」


ライラは頷いた。


「ありがとう、ナディア」


「礼は村に着いてからでいいよ」


ナディアは笑った。


「まだ旅の途中なんだから」


ライラが笑うと、胸元で小さな鈴が鳴る。


ちりん。


スカラはその音を聞いた。


隊商は、再び砂漠を進んだ。


昼の暑い時間には休み、朝と夕方に距離を稼ぐ。


乾いた河床を辿り、地形の低い場所を探し、残された水を慎重に分け合った。


スカラは何度も空と大地を見た。


ハキムが教えてくれた星の位置。


風が作る砂丘の形。


岩の陰に残る、わずかな湿り気。


以前なら見落としていたものを、今は一つずつ確かめながら歩いた。


「……お腹空いたな」


「もう丸一日、何も食べてないからな」


「何か残ってないかな……」


アルスが荷袋を探る。


「あ!」


出てきたのは、白い塊。


「乳を固めたやつ!」


スカラが見る。


「……まだ持ってたのか」


「忘れてた」


アルスはしばらく眺めた。


そして。


ガリッ。


かじった。


「……しょっぱい」


「知ってる」


スカラも一つ取った。


ガリッ。


「……しょっぱい」


アルスが笑った。


「でも、最初よりおいしいかも」


「塩分濃度は変わっていない。成分も、ほとんど同じだ」


「そうだね」


スカラはもう一口かじった。


確かに、しょっぱい。


硬い。


口の中の水分を奪っていく。


それなのに。


「……不思議だな」


「何が?」


「同じものなのに」


アルスは笑った。


「食べる方が変わったんじゃない?」


スカラは立ち止まった。


「……食べる方?」


「うん」


アルスは白い塊を掲げた。


「最初は、ただの変な食べ物だったけどさ」


「今も変な食べ物だ」


「そうだけど!」


アルスは笑った。


「これを食べながら、いろんな人と歩いたから」


スカラは手の中の白い塊を見た。


サリム。


ファディ。


ナディア。


ラシード。


ライラ。


そして。


ハキム。


「……そうか」


スカラはもう一口かじった。


やっぱり、しょっぱい。


だが。


確かに、最初とは少し違う味がした。


***


翌日。

砂色の地平線を眺めていたアルスが、不意に足を止めた。


「……あれ?」


遠くに、小さな緑が見える。


「スカラ!見て!」


スカラが顔を上げる。


ナツメヤシ。


低い家々。


そして、朝日を受けて光る水面。


「……オアシスだ」


アルスが叫んだ。


「見えた!」


隊商の人々が一斉に顔を上げる。


「村だ!」


「水だ!」


歓声が上がった。


ラクダまで、歩調を速めたように見えた。


ラシードはしばらく村を見つめて、大きく息を吐いた。


「……着いたか」


アルスが笑う。


「やっとだね」


「ああ」


ラシードは荷を見た。


予定より、ずっと時間がかかった。


「……商売としては大損だったんじゃない?」


アルスが意地悪く笑うと、ラシードがいつものすました顔で言った。


「ハキムを失ったのは大きい。だが……」


ラシードは荷を見た。


「不幸中の幸いだ。商品を置いてきたおかげで、砂嵐で吹っ飛ばされずに済んだ」


「……確かに」


スカラが笑った。


「それに水場も見つかった。まだやり直せるさ」


村が近づいてくる。


人々の声が聞こえ始めた。


その時。


スカラは、ライラが黙っていることに気づいた。


誰もが喜んでいるのに、ライラだけは村を見つめたまま動かない。


胸元の鈴を、強く握りしめていた。


「……ライラ?」


声をかけると、ライラははっとしたように顔を上げた。


「……ううん。何でもない」


笑おうとした。


だが、うまく笑えなかった。


***


村の入口に着いた。


そこに立っていたのは、一人の老婆。


ライラは、その姿を見た瞬間に足を止めた。


「……お義母さん」


老婆が顔を上げる。


しばらく、ライラを見つめていた。


そして。


「……ライラ?」


声が震えた。


ライラは頷いた。


老婆が歩き出す。


最初はゆっくり。


やがて、駆け寄るように。


「ライラ!」


その声を聞いた途端、ライラの顔が歪んだ。


「……ごめんなさい」


老婆の足が止まった。


「……え?」


「ごめんなさい、お義母さん……」


ライラは赤ん坊を抱きしめた。


「一緒に帰るって、約束したのに……」


言葉が震える。


「私だけ……帰ってきちゃった……」


老婆は何も言わなかった。


ただ、ライラを見つめていた。


やがて、その視線がライラの腕の中へ落ちる。


小さな赤ん坊。


布に包まれ、すやすやと眠っている。


「……生まれたのね」


「……はい」


老婆が震える手を伸ばす。


だが、触れる寸前で止まった。


「……あの子は」


ライラは、ゆっくりと首を振った。


老婆は目を閉じた。


長い沈黙があった。


ライラは胸元へ手を伸ばし、小さな鈴を取り出した。


ちりん。


澄んだ音が響いた。


老婆の目が見開かれた。


「……それ」


「彼が、ずっと大切にしていたんです」


老婆は鈴を受け取ると、指先でそっと包んだ。


「……あの子が小さい頃にね」


ぽつりと呟いた。


「私が、あげたものなの」


ライラは頷いた。


「聞いています」


「泣き虫でね。私が畑へ出る時も、後ろをついてきて……」


老婆は小さく笑った。


「どこにいるか分かるようにって、これを持たせたの」


ちりん。


鈴が鳴った。


老婆の頬を、涙が伝った。


「……彼は」


ライラが口を開いた。


「最後まで、帰りたがっていました」


「……うん」


「お義母さんに、この子を抱いてもらいたいって……」


老婆の目から、また涙がこぼれた。


ライラは赤ん坊を見た。


「だから……せめて、この子だけでも……」


言葉が続かなかった。


老婆は、ライラの手を握った。


「……この子だけ?」


ライラが顔を上げる。


「……え?」


老婆は首を振った。


「あなたも、帰ってきたでしょう」


「……でも、私……」


「うん」


老婆の声も震えていた。


「あの子が帰ってこないのは、悲しいよ」


ライラの目から涙がこぼれた。


「……ごめんなさい……」


「でもね」


老婆は、ライラの手を強く握った。


「あなたまで帰ってこなかったら、私はどうしたらよかったの」


ライラは息を呑んだ。


老婆は、涙を流しながら微笑んだ。


「あなたも、私の家族なんだから」


ライラの顔がくしゃりと歪んだ。


「……お義母さん……」


老婆は、赤ん坊へ手を伸ばした。


「抱いてもいい?」


ライラは何度も頷いた。


老婆は小さな身体を胸へ抱き寄せた。


赤ん坊が目を開ける。


「……ふぇ……」


小さく声を上げた。


老婆が笑った。


泣きながら、笑った。


「……ああ」


赤ん坊の頬へ触れる。


「あなたのお父さんもね」


小さな手を見つめる。


「小さい頃は、よく泣く子だったのよ」


ライラも笑った。


老婆は赤ん坊を抱きしめた。


そして、ライラを見た。


「……おかえりなさい」


ライラの目から、また涙が溢れた。


「……ただいま」


ちりん。


老婆の手の中で、鈴が鳴った。


スカラは、その音を聞いていた。


砂嵐の中でも、ライラが手放さなかった鈴。


帰れなかった人の、大切なもの。


それが今、帰ってきた。


***


夕暮れ。


ラシードが、荷を降ろす隊商の男たちを眺めていた。


「……お前に、礼を言わなきゃならんな」


隣に立ったスカラが顔を向ける。


「何が?」


「諦める前に、ほかの方法を探すってことだ」


スカラは少し考えた。


「……でも、ハキムは助けられなかった」


ラシードは黙った。


「これからも、助けられない人はいると思う」


「……そうだろうな」


「それでも、探すことはやめたくない」


ラシードはスカラを見た。


そして、小さく笑った。


「……面倒な生き方だな」


「そうだな」


ラシードは広場へ目を向けた。


老婆に抱かれた赤ん坊が、また泣いている。


「まったく。一人増えただけで、ずいぶん騒がしくなった」


スカラも笑った。


「……そうだな」


ラシードは荷の一つを持ち上げた。


「さて、俺たちはここで商売の立て直しだ」


「商品を取りに戻るのか?」


「時期を見てな。隠し場所が無事なら、取り返せる」


アルスが近づいてきた。


「じゃあ、俺たちも手伝う?」


「いや」


ラシードは首を振った。


「お前たちは、北の果てへ行くんだろう?」


スカラは顔を上げた。


「……ああ」


「だったら、ここから西の海峡へ向かう隊商を探せ」


「西の海峡?」


「ノブールだ」


アルスが目を丸くした。


「ノブール?」


「ああ。海峡を挟んで二つの大陸が向かい合う、大きな都だ」


ラシードは遠くを見た。


「東から来たものも、西から来たものも、最後はあそこに集まる。商人も、学者も、船乗りもな」


スカラの目が輝いた。


「……二つの大陸?」


「そうだ。海を渡れば、もう別の世界だ」


アルスが笑った。


「なんだか、すごそうだね」


ラシードは鼻を鳴らした。


「ここまで来たんだ。どうせなら、世界の果てまで行ってこい」


「世界に果てはない」


スカラが即座に答える。


ラシードは笑った。


「……そうだったな」


その夜。

スカラとアルスは、村の外れに寝転んでいた。


頭上には、数え切れないほどの星。


村から、赤ん坊の泣き声が聞こえる。


「……また泣いてる」


アルスが笑った。


「赤ん坊は泣くものだ」


「知ってる」


「呼吸器の機能を――」


「それは今いい」


「……そう?」


二人は空を見た。


しばらく、何も言わなかった。


「……ハキムさん、見てるかな」


アルスが呟いた。


スカラは北極星を見た。


あの老人が教えてくれた星。


「……分からない」


「そっか」


「でも」


スカラは少し考えた。


「見ているといいな」


アルスが顔を向けた。


「……スカラがそんなこと言うなんて」


「何だ?」


「変わったね」


「……そうか?」


「うん」


アルスは笑った。


スカラは星を見上げた。


ハキムは、もういない。


それでも、教わった星は今もそこにある。


砂漠の歩き方も。


風の読み方も。


一緒に歩いた時間も。


消えていない。


「……アルス」


「何?」


「人間は、生まれた時のことを覚えていないんだな」


「そりゃそうでしょ」


「……そうか」


少しだけ、沈黙があった。


「私は、自分がどこで生まれたのか知らない」


アルスが顔を向けた。


「……うん」


「誰が名前をつけたのかも」


スカラは星を見た。


「……誰か、喜んだのだろうか」


アルスは少し考えた。


「……いたと思うよ」


「なぜ、そう思う?」


「分かんないけど」


アルスは笑った。


「俺だったら、嬉しいから」


「……?」


「ずっと一緒に旅してきたからさ。俺は、スカラが生まれてきてくれてよかったと思ってるよ」


スカラは黙った。


根拠はない。


証拠もない。


それでも。


「……そうだといいな」


アルスが笑った。


「うん」


その時。


スカラの目が、空の一点で止まった。


星々の間を、一つの光が動いていた。


ゆっくりと、音もなく。


白い塔が指していた、あの方角。


「……まただ」


スカラが身体を起こす。


「何?」


アルスも空を見た。


「……星?」


「違う」


「じゃあ、何?」


「……分からない」


アルスが笑った。


「スカラにも分からないこと、あるんだ」


「山ほどある」


スカラは光を見つめた。


自分が生まれた場所。


まだ会ったことのない人。


知らない世界。


そして、海峡の向こうにあるという都。


ノブール。


「……行こう」


スカラは、光が消えていく方角を見た。


「ノブールへ」


アルスは笑った。


「……うん!」


光は、静かに夜空の向こうへ消えていった。


村から、また赤ん坊の泣き声が聞こえた。


スカラは、しばらくその声を聞いていた。

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