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第六十四話 誕生

「次の陣痛が来るよ!」


ナディアの声に、スカラはライラの手を握り直した。


外では砂嵐が吹き荒れている。


ゴオオオオオオッ!


岩を叩く砂の音。


布が激しく揺れる。


ラクダの鳴き声。


そのすべてに混じって、ライラの苦しそうな声が響いた。


「……痛い!」


「ライラ、息を止めないで」


ナディアが声を掛ける。


「そう。ゆっくり吐いて」


ライラは言われた通りに息を吐いた。


だが、すぐにまた顔を歪める。


「……もう、無理……」


「まだ先は長いかもしれないよ。今は一つずつ乗り越えよう」


アルスが布の向こうから叫んだ。


「ナディア!お湯、できた!」


「よし!清潔な布と一緒に持っておいで!」


「分かった!」


地獄の門で満たした水袋は、まだいくつか残っていた。


だが、次の水場まで何日かかるか分からない。


ラシードは飲み水を確保したうえで、出産に必要な分をナディアへ渡していた。


しばらくして、アルスが鍋を抱えて戻ってきた。


「熱い!熱い!」


「こぼすんじゃないよ!」


「分かってる!」


鍋を地面へ置くと、アルスは大きく息を吐いた。


「……で、次は?」


ナディアが顔を上げる。


「手を洗っておいで」


「洗った!」


「もう一度!」


「なんで!?」


「さっき砂まみれの鍋を触っただろ?」


「……確かに!」


アルスが飛び出していく。


スカラはその背中を見ていた。


「……騒がしいな」


「そうだね」


ナディアが笑った。


「でも、ああいう子がいると助かるよ」


「なぜ?」


「怖いことばかり考えずに済むからさ」


スカラは少し考えた。


そして、ライラを見た。


苦しそうな顔。


汗に濡れた額。


震える唇。


「……そうか」


ライラが、スカラの手を強く握った。


「……スカラ」


「何だ?」


「……離さないで」


スカラは握り返した。


「分かった」


それからも、砂嵐は止まなかった。


陣痛は少しずつ強くなり、間隔も短くなっていく。


ナディアはライラの様子を確かめながら、落ち着いた声で話しかけ続けた。


「次の痛みが来たら教えておくれ」


「……うん……」


「今は無理に力を入れなくていい。身体に合わせて」


ライラが頷く。


スカラはその隣で、脈と呼吸を確認していた。


脈は速い。


だが、意識ははっきりしている。


出血も、今のところ多くない。


「……ライラ」


「……何……?」


「水を少し飲んで」


アルスが革袋を差し出した。


ライラは口を湿らせるように飲んだ。


「……ありがとう」


「うん」


アルスが笑う。


「赤ちゃんが生まれたら、最初に何て言う?」


ライラは少し驚いた顔をした。


「……え?」


「最初にかける言葉」


「そんなの……考えてなかった」


「じゃあ、今考えとこうよ」


「今!?」


「だって、もうすぐ会えるんでしょ?」


ライラは一瞬、呆れたような顔をした。


そして、小さく笑った。


「……そうね」


胸元の鈴へ手を伸ばす。


ちりん。


かすかな音がした。


「……ずっと、会いたかったから」


ライラはお腹を撫でた。


「ずっと……」


その言葉の途中で、また陣痛が来た。


「……っ!」


ナディアがすぐに身体を支えた。


「大丈夫。こっちを見て」


ライラが息を吐く。


「そう。その調子」


スカラは握られた手に力を込めた。


「ライラ」


「……うん……」


「ここにいる」


ライラは目を閉じたまま頷いた。


外から、ラシードの声が聞こえた。


「布が飛ばされるぞ!そっちを押さえろ!」


男たちが応じる。


風が岩陰へ吹き込み、吊るした布が大きく膨らんだ。


アルスが慌てて端を押さえる。


「うわっ!」


「しっかり持ちな!」


「持ってる!」


「だったら騒ぐんじゃないよ!」


「無理だって!」


ナディアは笑いながらも、ライラから目を離さなかった。


やがて、その表情が変わった。


「……よし」


スカラが顔を上げる。


「どうした?」


「赤ん坊が降りてきてる」


ナディアは清潔な布を整えた。


「もう少しだよ」


ライラが顔を上げた。


「……本当に……?」


「ああ」


ナディアは笑った。


「もうすぐ会える」


その言葉を聞いた瞬間、ライラの目から涙がこぼれた。


「……うん……」


次の陣痛。


ライラが声を上げる。


「痛い!」


「大丈夫。身体の動きに合わせて!」


スカラはライラの手を握った。


「息をして」


「……はぁ……!」


「そう」


また陣痛が来る。


ナディアが赤ん坊の様子を確かめた。


「頭が見えたよ!」


アルスが飛び上がった。


「えっ!?」


「アルス!」


「何!?」


「布を持ってて!」


「はい!」


ラシードが外から叫んだ。


「まだか!?」


「黙って風を防いでな!」


「……分かった!」


アルスが小声で呟く。


「ラシード、今日ずっと怒られてるね」


「アルス!」


「はい!」


スカラが睨む。


「集中して」


「スカラも喋ってるじゃん!」


「私は必要なことしか言ってない」


「今のは?」


「……必要だった」


ナディアが笑った。


「二人とも静かに!」


「はい!」


声が重なった。


ライラも、苦しそうな顔のまま少し笑った。


そして。


「……来る……!」


ナディアの顔が変わる。


「よし、ライラ!」


スカラが手を握る。


「もう少し」


「……っ!」


「もう少し!」


「もう無理!」


「無理でもやる!」


「ナディア!」


「何だい!」


「厳しい!」


「今それ言う!?」


アルスが叫んだ。


「スカラ!今は黙って手伝って!」


「分かってる!」


また陣痛が来る。


ライラが最後の力を振り絞った。


その瞬間。


小さな身体が、ナディアの両手に受け止められた。


「……!」


スカラの目が見開かれた。


赤ん坊。


本当に小さな、人間。


手。


足。


頭。


閉じた目。


本で見た通りの姿だった。


だが。


泣き声がしなかった。


「……?」


ナディアの表情が変わった。


「……呼吸が弱い」


スカラはライラの脈を確かめていた。


速い。


出血は、今のところ多くない。


「……スカラ!」


アルスだった。


「何?」


「赤ちゃん!」


振り向く。


ナディアが小さな身体を乾いた布で拭いていた。


濡れた布を取り除き、頭の位置を整える。


背中を擦る。


だが、泣かない。


胸も、ほとんど動いていなかった。


「……息をしてない」


アルスの声が震えた。


スカラの身体が凍りついた。


また。


ハキムの顔が脳裏に浮かんだ。


助けられなかった命。


そして今。


目の前で、また一つの命が消えようとしている。


「……スカラ!」


ナディアの声で我に返った。


「手伝っておくれ!」


スカラはすぐに赤ん坊のそばへ膝をついた。


「頭を支えて。身体を冷やさないように」


ナディアが頷く。


スカラは赤ん坊の胸に耳を近づけた。


心臓は動いている。


けれど、呼吸はほとんどない。


「ナディア、身体を温め続けて」


「分かった」


スカラは赤ん坊の頭の位置を整え、口と鼻を確かめた。


それでも、自分から息をしない。


「……呼吸を助ける」


小さな口と鼻を覆い、胸がわずかに上がるよう慎重に息を送り込んだ。


一度。


小さな胸が持ち上がる。


だが、自分からは息をしない。


二度。


「……」


スカラの手が震えた。


私は……本当に……できることを全部やったのか。


あの時の言葉が蘇った。


違う。


まだだ。


スカラはもう一度、赤ん坊の胸を見た。


「……お願い」


そんな言葉は届くはずがないとしても。


「諦めないで」


呼吸を確かめ、息を送り続ける。


「だって、この世界はきっと――」


言葉が止まった。


美しい?


楽しい?


素晴らしい?


ハキムは死んだ。


どれほど知識を集めても、救えない命がある。


この世界が素晴らしい場所だなんて、言い切れない。


それでも。


スカラは、小さな胸の動きを確かめながら、息を送り続けた。


まだ何も見ていない目。


何も触れていない手。


何も知らない命。


「……この世界には」


もう一度、息を送る。


「知らないことが、まだまだいっぱいあるんだ」


赤ん坊の胸が、かすかに動いた。


「……!」


スカラは息を止めた。


小さな口が開く。


自分の力で、空気を吸い込んだ。


そして。


「オギャアアアアアッ!」


砂嵐の音を突き抜けた。


「……!」


もう一度。


「オギャアアアッ!」


岩陰にいた全員が、顔を上げた。


アルスが目を見開く。


「……泣いた」


ナディアが大きく息を吐いた。


「……ああ」


「泣いた!」


アルスが叫んだ。


「スカラ!泣いたよ!」


「……ああ」


スカラは赤ん坊を見つめたまま、動けなかった。


小さな胸が上下している。


息をしている。


生きている。


ライラが顔を上げた。


「……赤ちゃん……?」


「泣いてるよ」


ナディアが笑った。


「よく頑張ったね」


ライラの目から涙がこぼれた。


「……よかった……」


外では砂嵐が吹き荒れていた。


岩を叩く砂の音。


布が激しく揺れる音。


ラクダの鳴き声。


そのすべてに混じって、赤ん坊がもう一度泣いた。


「オギャアアアッ!」


アルスが笑った。


ナディアも笑った。


布の向こうで、護衛たちが歓声を上げた。


ラシードは風除けの布を押さえたまま、大きく息を吐いた。


「……やれやれ」


スカラは、まだ赤ん坊を見ていた。


小さな指。


小さな耳。


上下する胸。


泣き声。


「スカラ?」


アルスが覗き込む。


「……何も知らなかった」


「え?」


「人間が、生まれるところ」


知識としては、知っていた。


何が起きるのかも、分かっていた。


けれど。


スカラは、もう一度赤ん坊の声を聞いた。


「……覚えておこう」


アルスが顔を向ける。


「何を?」


「この声」


スカラは赤ん坊を見つめた。


アルスは笑った。


「うん」


「さあ、まだ終わりじゃないよ」


ナディアが言った。


アルスが驚く。


「え!?もう生まれたよね!?」


「赤ん坊はね」


ナディアはライラへ向き直った。


「お母さんの身体も確かめないと」


スカラも顔を上げた。


そうだ。


出産は、赤ん坊が生まれた瞬間に終わるわけではない。


しばらくして胎盤が出ると、ナディアは出血の量を注意深く確かめた。


スカラはライラの脈を確認する。


「……少し速い」


「出血は?」


「今のところ、多くない」


ナディアが頷いた。


「よし。引き続き様子を見よう」


赤ん坊の身体を乾いた布で包み、ライラの胸元へ寄せた。


「冷やさないようにね」


ナディアが言う。


ライラは赤ん坊を抱き寄せた。


小さな手が動く。


「……こんにちは」


ライラが囁いた。


「ずっと、会いたかった」


赤ん坊は小さく声を上げた。


ライラが笑う。


泣きながら、笑った。


「……あの人にも、聞かせたかったな」


スカラが顔を上げた。


「あの人?」


ライラは答えなかった。


ただ、胸元の鈴へ指を伸ばした。


ちりん。


小さな音が響いた。


赤ん坊が、かすかに身じろぎした。


「……聞こえた?」


ライラが微笑む。


「お父さんが、いつも鳴らしてくれた音だよ」


スカラは鈴を見た。


そして、何も聞かなかった。


ナディアが母子の様子を確かめ、ようやく顔を上げた。


「……ひとまず落ち着いたよ」


その言葉に、岩陰の空気が変わった。


アルスがその場へ座り込む。


「……疲れた」


「お前は産んでないだろ」


ラシードが布の向こうから顔を出した。


「でも、めちゃくちゃ働いた!」


「確かにな」


ラシードは赤ん坊を見た。


小さな顔。


小さな手。


まだ、時々泣いている。


「……やれやれ」


大きく息を吐く。


「商品は砂漠に置いてきて、赤ん坊が一人増えた」


アルスが笑う。


「大損だね」


「ああ」


ラシードは赤ん坊を見る。


「最悪の商売だ」


そう言いながら、自分の上着を脱いだ。


「……これも使え」


ナディアへ差し出す。


「乾いてる。外套よりはましだろ」


ナディアが受け取った。


「ありがとう」


ラシードは顔を背けた。


「別に」


アルスが笑った。


「ラシード、優しいね」


「うるさい!」


「褒めてるのに!」


「だからうるさい!」


少しだけ、周囲に笑い声が戻った。


外では、砂嵐が弱まり始めていた。


岩を叩く砂の音が、少しずつ小さくなっていく。


アルスは全身砂だらけで、岩にもたれて座り込んだ。


「……疲れた」


その横をラシードが通り過ぎる。


「坊主」


「何?」


ラシードは一度だけアルスを見た。


「役に立ったな」


アルスが目を丸くする。


そして、少し笑った。


「……泳いでないけど?」


ラシードも、ほんの少し笑った。


「砂漠だからな」


少し離れたところで、スカラはライラの腕の中を見ていた。


小さな胸が、上下している。


赤ん坊が生きている。


ハキムは死んだ。


あれほど多くのことを知っていても、助けられなかった。


そして今。


自分たちの目の前で、人間が一人増えた。


失った命は戻らない。


新しい命が、その代わりになるわけでもない。


それでも。


「……不思議だな」


スカラが呟いた。


アルスが隣へ座る。


「何が?」


「一人増えただけなのに」


スカラは赤ん坊を見た。


「さっきまでとは、何かが違う」


アルスは少し考えた。


「……そうだね」


赤ん坊が、また小さく泣いた。


ライラがその背中をそっと撫でる。


ナディアが笑う。


アルスも笑う。


スカラはその光景を見つめていた。


やがて風が収まると、ラシードは出発の支度を始めようとした。


だが、ナディアが首を振った。


「少なくとも今日は動かせないよ」


「水は?」


「残りは少ない」


「食料は?」


「まだある」


ラシードは空を見た。


砂嵐は去った。


今なら進める。


だが、岩陰ではライラが赤ん坊を抱いて眠り始めていた。


ナディアがそっと布を掛ける。


「……分かった」


ラシードが言った。


アルスが驚く。


「いいの?」


「母子を置いていくわけにもいかんだろ」


「商売にならないね」


「うるさい」


ラシードは荷袋を持ち上げた。


「水の残りを確認する。出発は二人の様子を見てからだ」


スカラはその背中を見た。


少し前なら、この男は違う判断をしていたかもしれない。


そして。


少し前の自分も、きっとそれに賛成していた。


「……ラシード」


「何だ」


「ありがとう」


ラシードは振り返った。


少しだけ、驚いた顔をした。


「……礼を言われるようなことはしてない」


「そうか?」


「ああ」


ラシードは赤ん坊を見た。


「ただ、ここまで運んできた荷を、最後まで届けるだけだ」


アルスが笑った。


「赤ちゃん、荷物扱い?」


「違う!」


ラシードが怒鳴る。


「そういう意味じゃない!」


「分かってるって!」


スカラは二人を見ていた。


そして、少しだけ笑った。


夜になると、砂漠には久しぶりに静けさが戻った。


星が一つ。


また一つ。


空に現れていく。


岩陰から、小さな泣き声が聞こえた。


その声を聞きながら、スカラは空を見上げた。


ハキムに教わった北極星が、そこにあった。


「……ハキム」


返事はない。


あの老人が言っていたことを思い出す。


――俺は十分歩いた。


――誰と歩いたか、じゃないか。


スカラは赤ん坊の泣き声へ耳を傾けた。


「……一人、増えたよ」


星は何も答えなかった。


それでもスカラは、しばらく空を見上げていた。

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