第六十三話 砂嵐の中で
砂漠の色が変わったのに最初に気づいたのは、ラクダだった。
グルルル……
一頭が喉の奥で低く唸った。
それに応えるように、ほかのラクダたちも落ち着きなく首を振り、ブフッ、ブフッと荒い息を吐き始めた。
同時に、それまで一定だった風向きが乱れ始め、頬へ当たる砂粒が増える。
「何だ?」
スカラはゴーグルをかけて西の地平線を見る。
空と大地の間を、巨大な茶色い壁が埋め尽くしていた。
「……まずい」
ラシードが叫んだ。
「砂嵐だ!」
隊商が一斉に動いた。
ラクダを伏せさせ、荷を縛り直す。人々は口と鼻を布で覆い、互いの腰を縄でつないだ。
「岩陰へ!」
前方に低い岩山が見える。
だが、茶色い壁は恐ろしい速さで迫ってきていた。
「間に合うか!?」
アルスが叫ぶ。
スカラは砂丘を見た。
表面の砂が、まるで生き物のように一斉に舞い上がっている。
「間に合わせろ!」
その瞬間。
ゴオオオオオオオッ!
世界から色が消えた。
砂。
砂。
砂。
顔を上げられない。
目を開けられない。
腕を伸ばした先すら見えない。
スカラは腰の縄を掴んだ。
前には護衛の男。
後ろにはアルス。
「アルス!」
「いる!」
「縄を離すな!」
「分かってる!」
ラクダの鳴き声。
人々の叫び声。
風の轟音に、すべてが飲み込まれていく。
その時。
ブツンッ!
腰に伝わっていた力が、突然消えた。
「……!?」
スカラが振り返る。
前方へ続いていた縄が切れていた。
「止まれ!」
ラシードの声が響いた。
「全員、身を伏せろ!」
人々がその場にしゃがみ込む。
風を避けるように身体を丸め、互いの位置を確かめた。
幸い、岩山はすぐ近くだった。
護衛たちが手探りで岩肌を見つけ、次々に仲間を呼び寄せる。
ラクダを伏せさせ、荷を風除けにして、どうにか全員が身を寄せられる場所を作った。
「人数を数えろ!」
一人。
二人。
三人。
名前を呼ぶ声が、風の中で交錯する。
「……ライラは?」
ナディアの声だった。
返事がない。
「ライラ!」
誰も答えなかった。
ライラが乗っていたラクダもいない。
アルスが立ち上がった。
「探さないと!」
ラシードが腕を掴む。
「馬鹿か!」
「でも!」
「この中へ入ったら、お前まで戻れなくなる!」
「だからって!」
「一人を探して、もう一人死なせられるか!」
アルスが唇を噛んだ。
スカラは風の向こうを見た。
視界はほとんどない。
風向きも定まらない。
ライラがどこにいるのかも分からない。
今、飛び出したところで、二人とも助からないかもしれない。
それでも。
あの中に、ライラがいる。
生まれてくる子どもも。
「……私が行く」
「おい!」
ラシードが振り向いた。
スカラは荷袋から長い縄を取り出した。
「岩に結ぶ。戻る道を残しておけば、捜せる範囲が分かる」
「だから危険だと言ってるだろう!」
「分かってる」
「なら――」
「だから、一人では行かない」
スカラは縄の一端を岩へ固定し、もう一端を自分の腰へ結んだ。
結び目を確かめ、アルスへ向き直る。
「ここにいてくれ」
「俺も行く!」
「駄目だ」
「なんで!」
「二人とも行ったら、戻る場所がなくなる」
アルスが止まった。
スカラは岩に結んだ縄を指した。
「これを見てて。私が二回引いたら、引き返すから縄を張ってくれ」
「……分かった」
「三回引いたら、助けが必要だ」
アルスは強く頷いた。
「絶対に離さない」
「岩から外すなよ」
「分かってるって!」
スカラは少し笑った。
「……頼む」
そう言うと、ゴーグルをしっかりかけ直した。
そして。
砂の中へ踏み出した。
一歩。
二歩。
三歩。
何も見えない。
ゴーグルの向こうには、砂しかなかった。
スカラは身体を低くした。
ライラが最後にいた位置。ラクダが逃げた方向。風速。経過時間。
頭の中で、いくつもの数字が組み合わさる。
「……こっち」
歩き出す。
だが、すぐに足が止まった。
風が変わった。
先ほどまで右から吹いていた砂が、今度は正面から叩きつけてくる。
「……違う」
計算の前提が崩れる。
砂丘の形も変わっている。
足跡など、とっくに消えていた。
見えない。
分からない。
数字はある。
なのに、位置が分からない。
その時。
――俺は五十年、砂を読んできた。
ハキムの声が、頭の中に蘇った。
スカラは足を止めた。
そして、目を閉じた。
頬へ当たる砂粒。
足の裏に伝わる傾斜。
風の強さ。
しゃがみ込み、地面に触れる。
砂の表面は激しく流れている。
だが、岩の近くには吹き溜まりができていた。
スカラは顔を上げた。
砂嵐に驚いたラクダは、風を避けようとする。
ならば。
逃げ込むのは、風下の岩陰か、砂丘のくぼみ。
「……」
――見ているものが、足りなかった。
ハキムの声が蘇る。
スカラはもう一度、足元の砂に触れた。
そして、風下へ向きを変えた。
その時だった。
カラン。
「……!」
顔を上げる。
風の轟音に混じって、かすかな金属音がした。
耳を澄ます。
カラン。
もう一度。
「……鈴?」
ラクダの首につけられた鈴だろうか。
スカラは音のした方へ進んだ。
だが、数歩で腰が引かれた。
縄が張っている。
「……くっ」
あと少し。
確かに、あの向こうから音がした。
だが、これ以上進めば、戻るための縄を失う。
スカラは歯を食いしばった。
その時。
腰の縄が、後ろから二度引かれた。
「……?」
振り返る。
砂の向こうに、人影があった。
「何してる!」
「……ラシード!?」
布で顔を覆ったラシードが、縄を辿って近づいてきた。
肩には、もう一本の長い縄を担いでいる。
「なぜ来た!」
「お前だけじゃ、あの女を運べんだろう!それに、二人も死なせたら今後の信用に関わる!」
スカラはラシードを見ると、ニヤリと笑った。
「……そう言いながら、心配で来たんだろ?」
「うるさい!早く探せ!」
ラシードはスカラの腰の縄を確かめた。
「少し戻れ。縄を延ばす」
二人は縄を緩められる場所まで引き返し、岩から伸びる縄の途中に、持ってきた縄をしっかりつないだ。
「アルスには岩を離れるなと言ってある!これで、もう少し進める!」
「……分かった」
二人は再び、砂の中へ踏み出した。
カラン。
鈴の音。
一度、消える。
もう一度。
カラン。
「こっちだ!」
スカラが声を上げた。
風の向こうに、黒い影が見える。
ラクダだった。
砂丘のくぼみに身を伏せ、必死に首を低くしている。
その傍らに。
「ライラ!」
人影があった。
スカラが駆け寄る。
ライラは身体を丸め、砂に埋もれかけていた。
「聞こえる!?」
「……スカラ……?」
「大丈夫。迎えに来た」
ライラの肩を抱き起こす。
「ラクダが急に暴れて……」
意識はある。
呼吸もしている。
だが。
「……痛い」
ライラが顔を歪めた。
「どこが?」
震える手が、お腹へ伸びる。
「……お腹……」
スカラの表情が変わった。
「いつから?」
「……さっきから……何度も……」
ライラは苦しそうに息を吐いた。
しばらくして、また顔を歪める。
「……陣痛?」
ライラは首を振った。
「まだ……生まれるまで、少しあるはずなのに……」
その時。
ライラの足元へ、液体が流れ落ちた。
砂へ染み込んでいく。
スカラが目を見開いた。
「……破水」
ラシードが振り返る。
「何だと!?」
ライラはスカラの腕を掴んだ。
「……赤ちゃん……」
「落ち着いて」
スカラはライラの目を見た。
「ナディアのところへ連れていく」
「……お願い……」
ライラは苦しそうに息を吸った。
その拍子に、胸元から小さな鈴がこぼれた。
ちりん。
風の中で、かすかな音が鳴った。
ライラが慌てて手を伸ばす。
「……待って」
「何?」
「……これ……」
指先が鈴を探している。
スカラはそれを拾った。
「これか?」
ライラは頷いた。
スカラは鈴をライラの手へ握らせた。
「なくしてない」
ライラは小さく息を吐いた。
「……よかった……」
ラシードが声を上げた。
「早く戻るぞ!」
ライラを立たせようとしたが、動けなかった。
「……足が……」
見ると、ラクダの背からずり落ちた水桶と野営道具が、ライラの片足を押さえていた。
「……ラクダが暴れて、落ちた時に……」
ラシードが水桶を持ち上げようとする。
「くそっ!引っかかってやがる!」
荷を固定していた縄が、ラクダの鞍に絡みついていた。
スカラも手を貸すが、動かない。
「縄を切ろう!」
ラシードは迷わず腰の短刀を抜いた。
「離れろ!」
荷を固定していた縄を断ち切る。
水桶と野営道具が、砂の上へ崩れ落ちた。
ライラの足が自由になった。
「動かせるか?」
スカラが確認する。
ライラは痛みに顔を歪めながら頷いた。
「……うん……」
「無理に歩かなくていい」
ラシードが片側を支えた。
スカラも反対側へ回る。
「縄を辿って戻る!」
三人は身を低くして歩き始めた。
一歩。
二歩。
三歩。
そのたびにライラの顔が歪む。
スカラは腰の縄を握った。
先へ続いている。
見えない向こうに、アルスがいる。
「……アルス」
スカラは縄を二度引いた。
少しして、向こうから引き返された。
「……よし」
ラシードが叫ぶ。
「何だ!?」
「道はある!」
スカラは縄を握り直した。
「戻れる!」
「スカラ!」
砂の向こうからアルスの声がした。
「こっち!」
縄が張る。
少しずつ、岩陰が見えてきた。
「ライラ!」
ナディアが駆け寄った。
「こっちへ!」
大きな岩の風下側。
ラクダを伏せさせ、荷物を積んで風除けを作っていた。
その内側に布を張り、砂が吹き込みにくい小さな空間ができている。
ライラを横たえると、ナディアが手早く様子を確かめた。
「痛みはいつから?」
「……少し前から……」
「どれくらいの間隔で来る?」
ライラは答えようとした。
だが、また顔が歪む。
「……っ!」
ナディアはその様子を見て、スカラへ振り返った。
「陣痛が始まってる。予定より早いけど、もう出産が進んでいるかもしれない」
「破水もした」
「……そうかい」
ナディアは一度だけ目を閉じた。
そして、すぐに顔を上げた。
「出産の準備をするよ!」
アルスが固まった。
「……え?」
「聞こえなかったのかい!」
「いや、聞こえたけど!」
「なら動きな!」
アルスが飛び上がった。
「何すればいい!?」
「清潔な布!湯を沸かす道具!それから手を洗う水!」
「分かった!」
走り出して、すぐに戻ってくる。
「……どこにある!?」
「荷袋だよ!」
「どの!?」
「私の!」
「最初からそう言って!」
ナディアは呆れた顔をした。
「まったく、騒がしい子だね」
だが、その声は落ち着いていた。
ナディアはサマラを出る時から、出産に備えた布や石鹸、臍の緒を処置する道具を用意していた。
出産が近いライラと旅をする以上、必要になるかもしれないと考えていたのだ。
それでも。
砂嵐の真ん中で使うことになるとは、思っていなかった。
ラシードは入口の布を押さえている。
「ここで産むのか!?」
「ほかにどこがあるんだい!」
「村まで運べないのか!」
「この陣痛で砂嵐の中を歩かせる気かい!」
「……分かった!」
ラシードは布を握り直した。
外では風が唸っている。
砂が岩を叩く。
その内側で、ライラが苦しそうに息を吐いた。
「……怖い……」
スカラが隣へ座った。
「ライラ」
目が合う。
「私を見て」
ライラが顔を向ける。
「息を吐いて」
「……はぁ……」
「そう。ゆっくり」
スカラは手を握った。
自分の手が震えていることに気づいた。
知識ならある。
妊娠。出産。胎児の発育。危険な兆候。
何冊も読んだ。
何を確認すべきかも知っている。
だが。
目の前のライラは、本に書かれていた文字ではない。
苦しんでいる。
怖がっている。
自分の手を、必死に握っている。
「……」
スカラは震える指を見つめた。
その手を、ナディアがそっと包んだ。
「あんたの手、いい手だね」
「……?」
「ちゃんと震えてる」
「よくないだろう」
「そうかい?」
ナディアは微笑んだ。
「私は、悪くないと思うけどね」
スカラは顔を上げた。
「でも、私は――」
「全部一人でやろうとしなくていい」
ナディアは清潔な布を広げた。
「私が赤ん坊を取り上げる。あんたはライラのそばにいておくれ」
「……分かった」
ライラが再び声を上げる。
「……痛い!」
スカラはその手を握り返した。
「ライラ」
「……うん……」
「私も怖い」
ライラが目を開けた。
「……え?」
スカラは、その目を見つめた。
「でも、一緒にいる」
ライラの目から涙がこぼれた。
「……ありがとう……」
スカラは頷いた。
その時、ナディアが声を上げた。
「次の陣痛が来るよ!」
外では、まだ砂嵐が吹き荒れている。
だが、岩陰の小さな空間では今、一つの命が生まれようとしていた。




