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第六十二話 地獄の門

砂丘を越えようとした時、アルスが足を止めた。


「……何だ、あれ?」


砂漠の真ん中。


砂の中から、錆びた金属の管が突き出ている。


それは大人の腕ほどもある太さで、地面から斜めに伸びている。


その先端は折れ曲がり、周囲には赤茶けた金属片が散らばっていた。


「……旧文明のものか?」


スカラはしゃがみ込み、管の表面を調べた。


厚い錆。継ぎ目には、何かを繋いでいたらしい金具が残っている。


「……地下へ続いている」


「井戸?」


アルスが聞いた。


「いや、水を汲むためのものには見えない」


管は砂の下へ潜り、地獄の門がある方角へ延びていた。


さらに進むと、また同じような金属管が現れた。


「まただ……」


その後も、点々といくつも。


それを横目に進んでいくと、今度は崩れた石壁と、砂に埋もれた金属の台座が現れた。


「かつて、ここには大きな施設があったらしい」


「旧文明の?」


スカラは頷く。


「ああ。これはおそらく……」


その時。


「……うわっ!」


先頭の男が声を上げた。


隊商の前の地面が、突然なくなっていた。


ーー巨大な穴。


大地そのものが抉り取られたような、深い陥没。底には暗い泥のようなものが溜まっている。


「……蟻地獄?まさか、これが地獄の門?」


アルスが聞いた。


「違う。火が出てない。地獄の門はもっと先だ」


ラシードが答えた。


スカラは穴から十分に距離を取り、底を見た。


「……地下が崩れたのかもしれない」


「どういうこと?」


「地面の下に空洞があれば、上の土を支えきれずに落ちることがある」


「ふーん。地面の下に穴が……」


「おっと」


穴を覗こうとするアルスの襟首を、ラシードが掴んだ。


「うっ!」


「それ以上、近づくな。落ちたら助けるのが面倒くさい」


隊商の先では、さっき落ちた男が足元が崩れる中、皆に引き上げられていた。


穴を大きく迂回した。


夜明けの空は少しずつ青くなっている。それなのに、西の砂丘の縁だけはますます燃えるように赤くなっている。


そして。


その砂丘を越えた瞬間、全員の足が止まった。


今度はもっと巨大な穴。


その底で、炎が燃えていた。


轟々と、何十本もの炎が地面から噴き上がっている。


赤。


橙。


青。


砂漠の薄明かりの中、そこだけが昼のように明るい。


「……すごい。これが千年続く火」


アルスが呟いた。


離れているのに、熱が顔へ届く。スカラの金色の髪まで、炎を映して赤く染まっていた。


地獄の門。


そう呼ばれる理由が、一目で分かった。


「本当に、地獄だ……」


子どもが小さな声で言った。


スカラは炎と、周囲の金属管を見比べた。


「……やはり、昔、ここの地下を掘った人間がいたんだ」


「地下を?」


「ああ。おそらく天然ガスーーこの燃える気体を取り出そうとしたんだろう」


「燃える気体……?千年続く炎って、まさか?」


スカラは頷いた。


「地下から噴き出すガスによるものだ。旧文明はこれを集めて、燃料にしていた。この穴もその掘削によるものだろう」


スカラは地図を取り出した。白い塔で写し取った、旧文明の地図。


サマラ。


かつての街道。


そして、砂漠の西に記された名前のない点。


そこからは、細い線が遠くの山へ延びていた。


「……間違いない。私たちが目指していたのは、この辺りだ」


ラシードが周囲を見回した。


砂。


岩。


どこまでも砂。


「だが、水場らしきものは見えんな」


「この線は、地獄の門の少し先へ延びている」


スカラは地図を指さした。


「カナートなら、この先に縦穴が並んでいるはずだ」


ラシードは隊商を振り返った。


疲れ切った人々。水を求めるラクダ。ライラの腹を支えるナディア。


革袋には、ほんのわずかな水しか残っていない。


「外したら、もう次はないぞ」


「分かってる」


ラシードは地図を見た。


「……行こう」


***


それからはひたすら炎を背に、遠くの山並みの方へ歩いた。


スカラは時折立ち止まり、地図と地形を見比べた。


そして、


太陽が昇り、気温が上がり始めた頃。


久しぶりに砂漠に一本の柱が現れた。


倒れかけた金属の柱。その根元には、半分砂に埋もれた建物。


「……あれだ!」


スカラが足を速めた。


崩れた壁。壊れた機械。建物の脇には、石を積んだ低い壁が続いている。


「旧文明の建物」


その先に。


「……あった!」


アルスが声を上げた。


砂の中に、石で囲まれた円形の穴。


「これ、サマラの近くで見たやつだよね?」


「ああ。カナートの縦穴だ」


ラシードが駆け寄った。


「水は!?」


「確かめよう」


男たちが砂を取り除き、石の蓋をずらした。


暗い。


スカラは小さな石を落とした。


一秒。


二秒。


三秒。


カン。


乾いた音が響いた。


「……底だ」


水音はしない。


「……枯れてる」


ラシードの顔が曇った。


「ほかの穴を探そう」


スカラが言った。


「カナートなら、縦穴は山の方へ続いているはずだ」


地図の線に沿って歩く。


しばらくして、二つ目の穴が見つかった。


そこも乾いていた。


「……またか」


スカラは答えなかった。


自分が示した場所へ、全員を連れてきた。


地図は正しかった。


カナートも見つかった。


だが、水がない。


後ろでは、座り込む子どもの背中をナディアが支えている。ライラも苦しそうに岩陰で休んでいた。


ラシードが革袋を傾けると、最後の数滴が落ちた。


「……もう空だ」


スカラは唇を噛んだ。


「……もう一つ、探そう」


ラシードは空の革袋を腰へ戻した。


「ここまで来たら、地獄まで付き合ってやる」


スカラは顔を上げた。


「……ありがとう」


「礼なら、水が出てから言え」


ラシードは先頭へ歩き出した。


三つ目の穴は、さらに山に近い場所にあった。


石の蓋をずらす。


「……あれ?」


アルスが声を上げた。


「こっちは、濡れてる」


底には黒っぽい泥があった。


スカラが耳を澄ませる。


さらさら。


かすかな音。


「……水だ」


アルスの顔が明るくなった。


「あるんだ!」


「ああ。少なくとも、上流には水が残っている」


スカラは二つ目の穴の方角を見た。


「水がなくなったんじゃない。途中で止まっているのかもしれない」


「どういうことだ?」


ラシードが尋ねた。


「上流には水がある。でも、下流には届いていない」


スカラは二つの穴の間を見渡した。


砂が不自然に盛り上がった場所がある。


駆け寄って砂を払うと、崩れた石積みが現れた。


かつて、もう一つの縦穴があったらしい。


スカラは周囲の地形を調べた。


「……ここは水路が浅い」


「どういうこと?」


「地面が低くなっている。水路まで、そう深くないはずだ」


「じゃあ……?」


アルスが声を上げた。


「ここなら上から掘り出せるかもしれない」


「できるのか?」


ラシードが尋ねた。


スカラは少し考えた。


「……やってみる」


ラシードは人々を振り返った。


「動ける者だけでいい!掘る者、石を運ぶ者、休む者に分かれろ!」


「みんなで掘った方が速いんじゃない?」


アルスが尋ねた。


「全員倒れたら、誰が続きをやるんだ?」


「……なるほど」


「感心してないで石を運べ!」


作業が始まった。


崩れた縦穴の周囲を広く掘り、砂が流れ込まないようにする。


「穴の中には入らないで。崩れるかもしれない」


スカラの指示で、男たちは地上から作業を進めた。


掘り出した石を積み、崩れやすい場所の側面を押さえながら、少しずつ深くしていく。


スカラは水路の位置を確かめた。


「そこは掘りすぎないで。こっちの石は支えに使って」


ラシードも上着を脱いだ。


「俺もやる」


商人が驚いた。


「旦那!」


「見てるだけじゃ水は出ん!」


だが、すぐに誰も喋らなくなった。


砂は重い。石は熱い。喉は渇く。太陽は容赦なく高くなっていく。


やがて、一人の男が膝をついた。


「……すみません」


ラシードが駆け寄った。


「もういい。岩陰で休め!」


「ですが……」


「倒れたら余計に手間が増える!」


男は仲間に支えられ、ライラと子どもたちがいる岩陰へと運ばれていった。


水は、もうない。


スカラは掘り口を見つめた。


自分がここへ連れてきた。この場所に水がなければ、全員が。


「……スカラ」


アルスが声をかけた。


「大丈夫!」


スカラは無言で頷いた。


掘り出した石の下には、黒い泥が詰まっていた。その向こうから、かすかな水音がする。


そこからひたすら掘り進める。


やがて。


「……あった!」


アルスが叫んだ。


崩れた石の下に、水路の口が現れた。


奥には泥と小石が詰まっている。


「これが塞いでたんだ!」


「……そのようだ」


スカラは奥を覗いた。


泥の向こうには、水が溜まっている可能性がある。一気に崩せば、土砂や水が噴き出すかもしれない。


「全員、正面から離れて」


スカラが言った。


「少しずつ外す。急に水が出ても逃げられるように」


男たちは長い棒を使い、横から泥を崩した。


ぽた。


水滴が落ちた。


ぽた。


また一滴。


アルスが息を呑む。


「……水」


泥を取り除く。


石を外す。


すると。


ちょろ。


小さな流れが現れた。


「出た!」


アルスが叫んだ。


だが、スカラは首を振った。


「まだ足りない」


細い糸のような流れ。


二十二人と、十八頭のラクダには到底足りない。


アルスが振り返った。


岩陰では、ライラが目を閉じていた。ナディアが何度も声をかけている。


さっきまで水が出たことを喜んでいた男たちも、黙り込んでいた。


スカラは細い流れを見つめた。


これでは足りない。


全員を救うには、まだ足りない。


スカラはもう一度、水路の奥へ耳を澄ませた。


さらさら。


その向こうに、もっと大きな流れがある。


「……まだ塞がっている」


「え?」


「上流側にも、石が残っている」


アルスはスカラを見た。


「外せば、もっと流れる?」


「可能性はある」


スカラは頷いた。


作業は、さらに続いた。


男たちの手には、いくつもの傷ができた。


ラシードは息を切らしながら石を運んだ。


「……こんなに働いたのは、何年ぶりだ」


アルスが笑う。


「いつも何してるの?」


「人に働かせてる」


「それ、自慢?」


「商人の仕事だ!」


「二人とも!」


スカラが声を上げた。


「喋ってないで運んで!」


「おう!」


二人の声が重なった。


最後の石が動いた。


ゴロッ。


その瞬間。


奥から、水の音が変わった。


さらさら。


ざあ……。


「……来る」


スカラが呟いた。


「下がって!」


全員が水路から離れた。


次の瞬間。


ざああああっ!


濁った水が、勢いよく流れ出した。


「うわっ!」


アルスが尻もちをついた。


水は石の水路を走り、下流へ向かって流れていく。


止まっていた水路が、再び動き始めた。


誰もが、息を呑んだ。


「……水だ」


ラシードが呟いた。


「水が……流れてる」


アルスは立ち上がった。


「スカラ!」


スカラは水路を見つめていた。


流れは、さっきまでの細い糸ではない。水路の底を満たしながら、確かに下流へ向かっている。


「……通った」


その瞬間。


歓声が上がった。


「やった!」


「水だ!」


「助かった!」


男たちが抱き合う。


ラシードはその場に膝をつき、顔を覆った。


しばらく動かなかった。


「……まったく」


誰に言ったのかも分からない声だった。


「とんでもない賭けをさせやがって」


アルスがスカラへ駆け寄った。


「すごいよ!」


スカラは首を振った。


「……私だけじゃない」


泥だらけになった人々を見渡す。


「……みんなが諦めずに掘ってくれたからだ」


アルスは笑った。


「そうだね!」


だが、スカラはまだ水路から離れなかった。


「……ラシード」


「何だ?」


「少し待ってくれ。流れが続くか、確かめたい」


ラシードは水路を見た。


「……分かった」


しばらくしても、水は途切れなかった。


スカラは器を使い、一定の時間に溜まる量を何度か確かめた。


「……大丈夫そうだ。今の流れなら、全員の水を確保できる」


「ラクダもか?」


「ああ。ただし、時間はかかる。順番に汲もう」


ラシードは大きく息を吐いた。


「……よし!」


最初の濁った水を流すと、やがて砂や泥が減り、水が澄み始めた。


スカラは水面を調べた。


油膜は見えない。異様な臭いもしない。


「……どうだ?」


ラシードが尋ねた。


「見た目だけでは、安全とは言い切れない」


「じゃあ、どうする?」


「飲む分は泥を沈めて、布で濾してから火にかけよう。煮沸すれば、病気の原因になるものの多くは減らせる」


「それで大丈夫なのか?」


「……できる限りのことはしておきたい」


「分かった!残った燃料を持ってこい!」


蒸留を途中で打ち切ったおかげで、薪と炭はまだ少し残っていた。


人々は水を汲み、泥を沈め、布で濾して火にかけた。


ラクダには、水路から離れた場所に置いた水桶へ水を運ぶ。


やがて、人々の手に飲み水が渡っていった。


ライラ。子どもたち。若い護衛。そして、ラシード。


最後に、スカラとアルスも水を受け取った。


アルスが一口飲む。


「……ああ!」


「何?」


「生き返る!」


スカラも飲んだ。


温かいし、少し土の匂いがする。


それでも。


「……おいしい」


ラシードは水路へ目を向けた。


「……これだけ水があるなら、ここは立派な水場になるな」


崩れた建物。砂に埋もれた道。誰もいない荒野。


「井戸を整えて隊商宿を作れば、また人が集まるかもしれん」


「畑だって作れるかもね」


アルスが言った。


「水が続けば。だが、水路は放っておくとまた埋まる。定期的に土砂を取り除いて、壊れた場所を直す必要がある」


スカラの言葉に、ラシードは顎を撫でた。


「……帰りに、サマラの商人たちへ話してみるか。新しい水場ができたってな」


スカラは地図を広げた。


古い水路の線。そして、今、流れを取り戻した場所。


そこへ、小さな印をつけた。


「……何してるの?」


アルスが覗き込む。


「ここに、水があることを記しておく。次にここを通る人間に伝えるために」


ふと、ハキムの声が蘇った。


――残された人が、迷わないための道標としてな。


スカラは、地図に記した小さな印を見つめた。


そして、そっと地図を畳んだ。


「さあ、先を急ぐぞ!」


ラシードが声を上げた。


「水は手に入ったが、旅はまだ終わっちゃいない!」


隊商は出発の準備を始めていた。


「……行こう」


アルスが言った。


「ああ」


スカラは地図を畳んだ。


その片隅には、新しい印が一つ増えていた。


二人は走り出した。


地獄の門を後ろへ残して。新しい道を、西へ。

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