第六十一話 命を賭けて
「次の井戸まで行く者と、ここに残る者に分ける」
ざわめきが広がった。
「待ってくれ、旦那!残るって、どういうことです?」
「水を持って先へ進む人数を絞る。そうすれば、何人かは次の井戸まで辿り着ける」
ラシードは護衛たちを見た。
「道を知る者、ラクダを扱える者、最低限の護衛は先へ行く。残りの枠は、くじで決める」
「……くじ?」
「他に公平な決め方があるか?」
アルスが一歩前に出た。
「残る人は?」
「ここで待つ。迎えには戻るが、間に合うとは約束できん」
「……それじゃ、見殺しじゃないか」
ラシードは答えなかった。
アルスは積み荷を見た。
「だったら、荷物を置いていこうよ!ラクダが軽くなれば、弱った人も乗せられるし、もっと速く進める!」
「無論、それも考えている。だが、それだけでは水が足りん」
ラシードは革袋を見下ろした。
「全員で進めば、全員死ぬ。だったら、一人でも多く生き残る方法を選ぶしかない」
「そんなの……」
アルスは言葉を失った。
しばらくして、ラシードが言った。
「……それと、俺は残る」
「え?」
「勘違いするなよ。誰かの身代わりになるつもりじゃない。商人が、自分の商品を置いて逃げるわけにはいかんだろ」
「でも、それじゃ……」
「俺は商人だ。それだけだ」
ラシードは革袋を置いた。
「さあ、くじを引くぞ」
スカラはラシードを見つめていた。
限られた資源。最大の生存者数。誰かを生かすために、誰かを切り捨てる。
――最適解。
オオカミ岩で、自分も同じことを考えた。
アルスを気絶させてでも、生き延びる方を選んだ。あの時は、それが正しいと思っていた。
でも。
スカラは人々を見渡した。
腹を抱えるライラ。ナディアの服を掴む子どもたち。乾いた唇を噛む、若い護衛。
この中の誰かが、くじを引く。そして、残る。
「待って!」
スカラが声を上げた。
「まだ何かあるのか?」
「本当に、ほかに方法はないだろうか?」
「考えてる間にも水は減るんだぞ」
「分かってる」
スカラはラシードを見た。
「でも、あなたも一緒に行ってほしい。ここにいる全員で」
「欲張りな奴だな。水は半日分もないんだぞ」
「だから、考える」
スカラは砂の上にしゃがみ込んだ。
人数、二十二。ラクダ、十八。
水の残量。気温。移動速度。そして、荷物。
数字を書いては消し、また書く。
アルスが覗き込んだ。
「……何か分かった?」
「まず、昼間は休んで、涼しい夜に進む。そうすれば、暑さで失う水を減らせる」
「どれくらいだ?」
ラシードが尋ねた。
「明日の夜明けまでは持たせられるかもしれない。ただし、弱った人には優先して水を渡す必要がある」
スカラは積み荷を指さした。
「それから、アルスの言う通り、荷物を減らす。ラクダに人を乗せて休憩を減らせば、二日の行程を一日半程度まで縮められる可能性がある」
「……水は明日の夜明けまで。次の井戸までは一日半」
ラシードは首を振った。
「結局、足りんじゃないか」
「だから、次の井戸には行かない」
スカラは懐から、白い塔で写し取った地図を取り出した。
「もっと近くに、水があるかもしれない」
地図の一点を指す。
「旧文明の地図……地獄の門か」
ラシードが呟いた。
「この線を見て。山から地形の高低差に沿って伸びている。カナートの可能性がある」
「サマラの近くで見た、地下の川だ!」
アルスが声を上げた。
ラシードは地図を覗き込んだ。
「地獄の門なら、一日ほどで着く。だが、古い地図だぞ。水路が枯れていたら?」
「……引き返す分の水は残らない」
周囲が静まり返った。
「つまり、水がなければ全滅か」
「ああ」
「俺の方法なら、何人かは助かるかもしれん。それでも全員で行くべきだというのか?」
スカラは砂の上の数字を見た。
「どちらが正しいかは、まだ分からない。でも、こっちなら全員が助かる可能性がある」
ラシードは大きく息を吐いた。
「賭けか。俺の一番嫌いな言葉だ」
長い沈黙。
やがて、ラシードが頷いた。
「……分かった。お前の賭けに乗ってやる」
「本当!?」
アルスが声を上げた。
スカラが言いにくそうに言う。
「ただし、荷は置いていく。それが条件になる」
ラシードは積み荷を見た。
「……となると、俺はここまでだな」
「そんな!」
「商人だから」
ラシードは木箱を見つめていた。
やがて。
「……待てよ」
顔を上げる。
「置いていくからといって、捨てる必要はないな」
「どういうこと?」
「隠すんだよ。これから夏だ。後続の隊商は少ない。秋まで見つからなければ、取りに戻れる」
アルスの顔が明るくなった。
「じゃあ、ラシードも一緒に行ける!」
「隠し場所さえ見つかればな」
ラシードは周囲を見渡した。
「砂は動く。だが、岩は動かん」
遠くの岩山に目を留める。
「……ついてこい」
隊商宿の裏手には、砂丘の間から黒い岩盤が顔を出していた。大きな岩の陰に、深い窪みがある。
「ここなら、風も当たりにくい」
アルスが覗き込んだ。
「本当に見つからないかな?」
「さあな。だが、商売ってのは、いつだって賭けだ」
スカラが振り向いた。
「……さっき、賭けは嫌いだと言ってなかったか?」
ラシードは鼻で笑った。
「命を賭けるのは嫌いなんだよ。商売なら慣れてる」
「なんだ、それ!」
アルスが笑った。
ラシードは遠くの割れた岩山を指さした。
「あの山と手前の尖った岩が重なる場所を目印にする。そこから隠し場所までの方角と歩数を記録するんだ」
「それなら、砂に埋もれても探せる」
スカラが頷く。
「念のため、別の岩からも同じ場所へ辿れるようにしておこう」
二人は、異なる目印から同じ岩陰へ戻るための道筋を地図に記した。
「……これなら見つけられる」
「何年、砂漠で商売してると思ってる」
ラシードは商人たちを振り返った。
「さあ、荷を降ろせ!」
木箱を布で包み、岩の窪みに並べる。石を積み、周囲の砂を薄くかぶせれば、遠くからはただの岩陰にしか見えなくなった。
最後まで残ったのは、ラシードの大きな木箱だった。
スカラが尋ねる。
「それは?」
「高い」
「どれくらい?」
「お前二十人分くらいだ」
「私の値段を勝手に決めるな」
アルスが吹き出した。周囲にも、ほんの少し笑いが戻った。
ラシードは箱を見つめた。
そして。
「……置け」
男たちが運んでいった。
スカラとラシードは地図を二枚に写し、それぞれ懐へしまった。
「どっちかが失くしても、もう一枚ある」
スカラは頷いた。
荷を減らしたラクダには、弱った人間を乗せられるようになった。
ラシードは革袋を手に、ライラの元へ歩いていった。
「飲め」
「でも、私だけ多くもらうわけには……」
「お前が倒れたら、二人とも危ない」
ラシードの目が、ライラの腹へ落ちる。
ライラはしばらく革袋を見つめ、やがて口へ運んだ。
一口。
今度は誰にも渡さなかった。
スカラは若い護衛へ声をかけた。
「疲れたらラクダに乗って」
「でも、俺は護衛ですから」
「護衛でも、倒れたら守れない」
「……そうですね」
「返事ばっかりするな」
「……はい」
言ってから、青年自身が気づいた。
アルスも、ナディアも、ラシードも少し笑った。
スカラだけが、なぜ笑われたのか分からない顔をしていた。
***
夜。
昼よりずっと涼しい中、隊商は動き始めた。
荷を減らしたラクダには、弱った人間が交代で乗っている。
先頭の男が足を止めた。
「……どっちだ?」
誰もすぐには答えなかった。
スカラは北極星と岩山を確かめ、白い塔の地図を広げた。
「……あの岩山の右側へ向かおう」
ラシードが遠くの砂丘を見た。
「待て。あの辺りは砂が積もっている。少し北から回った方がいい」
スカラは地図を見直した。
「……そうだな」
そして、護衛たちを振り返った。
「皆も、気づいたことがあれば教えてほしい」
男たちは頷いた。
「進め!」
ラシードの声で、隊商が動き始めた。
月明かりの下、砂丘を越えていく。
後ろには、置いてきた荷物と飲めない井戸。
そして、さらに遠くに、小さな石の墓。
前には、まだ何も見えない。
やがて、夜明け前。
地平線の向こうが、ぼんやりと赤く染まり始めた。
「……朝?」
アルスが顔を上げる。
だが、太陽が昇る方角ではない。赤い光は、西の地平線から滲み出していた。
「何だ、あれ……」
ラシードが足を止めた。
「……地獄の門だ」
「地獄?」
「千年燃え続ける、火の蟻地獄。隊商の間では、地下の神が人間を砂の底へ引きずり込み、食ってしまうと言われている」
「……人間を?」
「ああ。近づいた者は、二度と戻らんそうだ」
アルスは赤く燃える地平線を見た。
「……怖っ」
そして、隣のスカラを見る。
「スカラ、気をつけてね」
「なぜ?」
「絶対、何がいるのか確かめに行くでしょ」
「……当然だ」
「ほら!」
ラシードが呆れたように笑った。
「神様も、面倒な奴を捕まえることになるな」
スカラは西の空を見た。
赤い光。
千年燃え続ける火。
白い塔の地図に描かれていた、一本の線。
「……なるほど。地獄の門とはよく言ったものだな」
砂丘の向こうで、赤い光が揺らめいていた。
夜が明けようとしているのに、西の空はますます赤く燃えていた。




