第六十話 命の水
「次はどっちへ進めばいい?」
隊商の一人が道を尋ねると、ほんの一瞬、皆の視線が先頭へ向かった。
だが、そこには誰もいない。
ハキムの死から、隊商の先頭にぽっかり穴が空いたようだった。
水場と水場の距離が長い、旅慣れた隊商でも緊張を強いられる区間。
ラシードは慎重に古い道筋を確かめ、護衛たちは遠くの岩山を目印に歩いた。スカラも時折、星や地形を見て方角を確かめる。
それでも、誰かが道を尋ねるたび、皆は無意識に先頭を見てしまう。
不安で、長い、無言の道のり。
数日を経て、ようやく。
一行は次の隊商宿へ辿り着いた。
「やっと水にありつける!」
アルスが声を上げた。
他の者たちにも、安堵の表情が広がる。
だが。
「……何か変だ」
ラシードが足を止めた。
「どうした?」
「人がいない」
井戸を囲むように建てられた隊商宿。
本来なら旅人や商人が集まり、ラクダが休み、荷が行き交う場所だ。
夏が近づくこの時期は賑わいが減るものだが、それにしても人の気配がない。
建物の入口には砂が溜まり、井戸のそばには壊れた桶が転がっていた。
「まさか……水枯れか!?」
ラシードが駆け寄り、井戸の底を覗き込む。
だが、そこには水があった。
「水はある……どうなってる?」
その声に、商人たちが一斉に集まった。
久しぶりに見る、たっぷりとした水。
「水だ!」
一人の男が桶を引き上げ、そのまま口元へ運ぼうとした。
「待って!」
スカラが腕を掴んだ。
「何だよ!」
「飲まないで」
スカラは桶を覗き込んだ。
水そのものは透き通っている。
だが、井戸の縁には白い結晶がこびりついていた。古い桶にも、同じものが残っている。
「……塩分が多いのかもしれない」
「塩?」
「乾燥地帯では、地下水に塩分が溜まることがある」
ラシードは桶の水を指先に取り、ごくわずかに舌へ触れさせた。
すぐに吐き出す。
「……しょっぱい」
周囲が静まり返った。
目の前に水はある。
なのに、飲めない。
ラシードが舌打ちした。
「次の水場まで、まだ二日はあるぞ」
スカラは桶の水を見て、それから空を見上げた。
容赦のない太陽が照りつけている。
日差しが落ち着くまで、どのみち移動はできない。
「……試せることはある」
アルスが振り向いた。
「何?」
「塩と水を分ける」
「どうやって?」
「水を蒸発させて、もう一度集める」
スカラは隊商の荷を探り始めた。
「金属の器と蓋。それから、細い管が欲しい」
「管?」
「蒸気を冷やして、水に戻すためだ」
アルスが荷をひっくり返す。
「そんな都合のいいもの、あるかな……」
「探して」
ラシードが眉をひそめた。
「商品を壊す気じゃないだろうな」
「命と商品、どっちが大事?」
「……命に決まってる。だが、壊さずに済むならそうしてくれ」
「なら、手伝って」
ラシードは苦い顔をしたが、男たちへ指示を出した。
金属の器。陶器の蓋。細い金属管。水を受ける小さな容器。
スカラは器へ井戸の水を張り、蓋をかぶせた。
隙間を布と泥で塞ぎ、蒸気が管へ流れるように組み立てる。
管の外側には、井戸の水で湿らせた布を巻いた。
その先に、清潔な器を置く。
「……これで?」
アルスが覗き込んだ。
「水を温めると、水が蒸気になる」
「塩は?」
「ほとんどが器の中に残る。その蒸気を冷やせば、また水になる」
スカラは管の先を指した。
「ここへ集める」
アルスは太陽を見上げた。
「じゃあ、日に当てておけばいいの?」
「……それでは遅い」
スカラは器の下へ小さな火を起こした。
「太陽の熱だけで十分な量を集めるには、もっと大きな装置が必要だ。今は火を使う」
しばらくして。
管の先から、水滴が落ちた。
ぽた。
もう一滴。
ぽた。
アルスが目を見開いた。
「出た!」
スカラは最初に出てきた水を捨て、次に集まった水を別の器へ受けた。
「……塩分は大きく減っているはずだ」
「本当に?」
アルスは少量を慎重に口へ運んだ。
「……しょっぱくない!」
周囲から歓声が上がった。
「本当か!」
「飲める水になったのか!」
ラシードが叫んだ。
「使える器を全部持ってこい! もっと作るぞ!」
隊商が動き出した。
一つ。
二つ。
三つ。
小さな蒸留器が並んでいく。
ぽた。
ぽた。
水滴が落ちるたび、歓声が上がった。
これで助かる。
誰もが、そう思った。
だが、日が傾き始める頃。
ラシードが集めた水を確かめると、その量は小さな器の底に、わずかに溜まっているだけだった。
それが、いくつか。
全部を合わせても、革袋一本を十分に満たせない。
「……これだけか?」
スカラは黙った。
「次の井戸まで二日もあるんだぞ」
「分かってる」
「二十二人だ。ラクダも十八頭いる」
「……分かってる」
スカラは並べた器を見た。
水滴は今も落ち続けている。
ぽた。
ぽた。
確かに、水は増えている。
だが、焼け石に水だった。
「……蒸発させられる量が少なすぎる」
アルスが聞いた。
「もっと火を強くすれば?」
「燃料が足りない。隊商が持っている薪と炭を全部使っても、必要な水には届かない」
「じゃあ、井戸の周りにある木を燃やせば?」
アルスは辺りを見回した。
だが、そこにあるのは砂と石、それに崩れかけた建物だけだった。
「……木がない」
スカラは器を見つめた。
「方法は正しい。でも、規模が足りない」
ラシードはやがて、残った革袋を集めた。
「全員、聞け」
隊商の人々が振り返る。
「今から水は俺が管理する。勝手に持ち出すな」
ラシードは残った水を数えた。
スカラも、人数と距離から必要な量を計算する。
二十二人。
ラクダ十八頭。
次の井戸まで二日。
残った水は、暑い昼間に全員で歩けば、半日分にも満たない。
「……足りんな」
ラシードが呟いた。
誰も口を開かなかった。
「全員を連れていけば、途中で水が尽きる」
ラシードは顔を上げた。
「だから、隊商を二つに分ける」
「……二つ?」
アルスが聞き返した。
「次の井戸まで行く者と、ここに残る者だ」
その言葉の意味を、誰もすぐには理解できなかった。




