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第五十九話 誰と歩いたか

翌朝。

ハキムは起きなかった。


正確には、目を覚ましていたが、身体を起こせなかった。


「ハキム」


「……」


「朝だ」


「……」


スカラが肩へ触れると、目が開いた。


「……聞こえてる」


「なら返事して」


「年寄りは朝が早いってのは嘘だな」


いつもの声だった。


アルスが笑う。


「起きてるじゃん」


「身体が起きたくないと言ってる」


ハキムが起き上がろうとした瞬間、顔が歪んだのを、スカラは見逃さなかった。


「動かないで」


手首を取ると、脈が速いが弱い。額には冷たい汗が浮かんでいる。


「腹を見せて」


「またか」


「早く」


ハキムは諦めたように衣服を緩めた。


左の脇腹に、昨日より広がった青黒い痣があった。腹も張っている。


スカラがそっと触れると、ハキムの身体が強張った。


「……痛い?」


「くすぐったい」


「嘘だ」


スカラは顔を上げた。


「……腹の中で、出血してるかもしれない」


アルスの表情が変わった。


「血が?」


「昨日、強く打った場所だ。内臓が傷ついている可能性がある」


「じゃあ、どうすればいい?」


スカラは答えなかった。


「スカラ?」


「……出血を止める必要がある」


「じゃあ止めようよ」


「身体の中だ。外から押さえても止められない」


「だったら、お腹を開けば――」


「ここではできない」


「なんで?」


「道具がない。清潔な場所もない。出血がひどければ、血を補う手段も必要になる」


「俺の血、使えばいいじゃん」


「そういう問題じゃない!」


声が響いた。アルスが固まる。


スカラ自身も、自分が怒鳴ったことに驚いた。


「……ごめん」


「ううん」


スカラは考えた。


可能性が高い症状も、必要になる治療も、知っている。


だが、ここには何もない。


「一番近い町は?」


ラシードに尋ねた。


「戻るならサマラだ」


「何日?」


「三日」


「速いラクダなら?」


「二日。無事に着ければな」


「もっと速く」


「無理だ」


「荷物を全部降ろせば?」


「砂漠だぞ」


「分かってる!」


「分かってない!」


ラシードも声を上げた。


「道を外せば終わりだ。それに、その身体でラクダを飛ばしたら――」


言葉を切った。


「ここは砂漠だ。何でも助けられる場所じゃない」


スカラはまた考えた。


サマラまで二日。今のハキムには、長すぎる。


方法。


方法。


方法。


頭の中には何千、何万という知識がある。


なのに。


どれだけ探しても、ハキムを助けられる答えが一つも見つからない。


スカラは初めて、自分の知識が多すぎることを憎んだ。


知らなければ、まだ希望を持てたかもしれないから。


スカラは、ハキムの手を握った。


***


隊商は出発した。


盗賊が追ってくる可能性があり、長く留まることはできなかった。


ハキムは荷を降ろしたラクダに乗せ、身体がなるべく揺れないよう、毛布で支える。


スカラはその横を歩いた。


何度も脈を取る。呼吸を見る。声をかける。


だが、時間が経つほどに悪くなっていった。


「……止まれ」


ハキムが言った。


スカラは聞こえないふりをした。


「スカラ。ラシードに伝えろ」


「駄目」


「揺れる方がしんどい」


その一言で、スカラの足が止まった。


岩陰へハキムを運んで、スカラはまた脈を取る。


弱い。


「もういい」


「よくない」


「手、離せ」


「脈を見てる」


「ずっと握られてると落ち着かん」


「我慢して」


「俺が?」


「そう」


ハキムが笑って見せた。


「偉くなったな、本の娘」


「スカラだ」


「知ってる」


「ならちゃんと呼べ」


「スカラ」


初めて名前を呼ばれた気がして、スカラが顔を上げた。


「何?」


「空、見えるか」


「見える」


「今日は晴れてるな」


「砂漠は大体晴れてる」


「そういうところだぞ」


ハキムが笑った。


スカラは笑えなかった。


少し離れたところに、昨日ハキムに助けられた若い護衛が立っていた。


「おい」


「……はい」


「そんな顔するな」


「俺のせいで……俺が落ちたせいで……」


「なら、お前を助けたことを後悔させるな」


若者が顔を上げる。


「俺が死んだら、お前のせいか?」


「……」


「違うだろ」


「……はい」


「なら、生きろ」


若者の目から涙が落ちた。


「泣くなよ」


「すみません」


「謝るな」


「はい」


「返事ばっかりだな」


「……はい」


スカラはその様子を見ていた。


一人を助けた結果、自分が死ぬ。


助かった命が一つ。


失われようとしている命が一つ。


数だけを見れば、同じだった。


でも。


助けられた若い護衛は、泣いている。ハキムは、そんな彼を見て笑っていた。


「ハキム」


「ん?」


「あの時、戻らなければよかったと思う?」


「思わんな」


「でも、戻らなければ死ななかったかもしれない」


ハキムは若い護衛を見た。


「そうかもしれん」


「……」


「だが、あいつが死んでたかもしれん」


スカラは黙った。


それは分かっている。


ハキムが戻った理由も。助けられた若者が、今ここに立っていることも。


「……彼が助かってよかった」


「ああ」


「でも」


スカラは、握っていた手に目を落とした。


「……あなたが死ぬのは嫌だ」


ハキムはしばらく黙って、それから小さく笑った。


「ありがとう」


太陽が傾き、砂の色が、白から金へ変わる。


ハキムの呼吸が浅くなった。


スカラはまだ手を握っていた。


「スカラ」


「何?」


「俺は十分歩いた」


「十分かどうかは、時間では決まらない」


「そうだな」


「なら何で決まる?」


ハキムは少し考えた。


長い旅の途中で、次の道を探すように。


「……誰と歩いたか、じゃないか」


風が吹いた。


砂がさらさらと地面を走る。


「俺はな」


ハキムは空を見た。


「悪くなかった」


「何が?」


「歩いた道だよ」


目を閉じる。


「色んな奴がいた。喧嘩する奴。逃げる奴。嘘つく奴。道に迷う奴」


スカラは、細く消え入りそうな声に耳を傾けた。


ハキムは笑った。


「……お前らと歩けてよかった」


スカラは唇を噛んだ。


「短いよ。私たちと歩いた時間」


「そうだな」


「短すぎる」


「ああ」


「もっと色々聞きたいことがある」


「聞きすぎだ」


「砂のことも」


「十分教えた」


「足りない」


声が震えた。


自分でも分かっているのに、止められなかった。


「……嫌だ」


「何が?」


「こんなのは嫌だ」


「……」


「私が知らないから助けられないなら、もっと調べればいい。でも……知ってるのに、何もできないなんて」


「嫌だ」


ハキムはスカラを見ていた。


そして、小さく笑った。


「それでいい」


「何が?」


「たまには……」


呼吸が一つ。


「答えになってないことを、言ってもいい」


スカラはハキムの手を握った。


「……行かないで」


それは、何の答えにもなっていない。


自分でも分かっていた。


「ハキム」


返事はなかった。


ハキムの指が、ほんの少し動いた。


一度。


それから、もう動かなかった。


スカラは手を握ったまま、離さなかった。


太陽が沈む。


砂漠が赤から紫へ変わり、空には星が一つずつ現れていく。


ハキムに教えてもらった北極星だけが、同じ場所にあった。


***


翌朝、隊商は出発しなかった。


貴重な水をほんの少し使って、ハキムの身体を清めた。


「死者は水を必要としない」


スカラが言った。


ナディアはハキムの額を拭きながら答えた。


「そうだね。水は生きている人間に使った方がいい」


「なら、なぜ?」


「残った人間が必要なんだよ」


スカラを見る。


「生きてる人間はね、何かしないと別れられない時がある」


スカラは反論しなかった。


岩の多い場所を選び、石を積んだ。若い護衛が、一番大きな石を運んだ。


最後に、スカラはその前へ立った。


小さな墓。


何を言えばいいか分からない。


ありがとう。


さようなら。


どれも違う気がした。


「……」


結局、何も言わなかった。


歩き出してから、一度だけ振り返る。


砂漠の中、小さな石の山。その上には、昨日と同じ空。


北極星はまだ見えない。


「……ハキム」


涙が落ちた。


スカラは拭かなかった。


「行こう」


アルスが言う。


「うん」


二人は歩き始めた。


先頭にはもう、ハキムはいなかった。

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